|
HH707111.DOC
【記念歴史論考01:(前)漢書地理誌・倭人条を読む】
森 明
はからずも万葉集を読み解くうちに、(少なくとも初期)万葉歌が我国の故事に深く係わっており、記紀と並ぶ貴重な歴史書の様相を呈していることが分かった。このことを逆に言えば、古代史を知らないと、作者や編者がせっかく歌に託した伝言を十全に読み取れないことを意味する。
古代、我国は文字を持たなかった。だが幸い、隣の中国は漢字発祥の国であり、古くから記録を重んじて来た。そして(断片的ではあるが、また彼等の目からであるが、)古代日本国の姿を書きとどめてくれている。
だから、古い時代の日本国の様子を知るためには、どうしても中国史書を参考にしなければならない。
本稿では、当ホームページ5周年を記念して、古代日本に係る最初の、しかも最も確実な史料といわれる「(前)漢書地理誌・倭人条」を取り上げ、読んでみることにする。
読解の方法はこれまでと変らない。文書の意味を可能な限り正確に読み取り、語句の間隙を想像(空想)によって補う方法である。
なお、「(前)漢書」は、後漢の班古(32〜92年)が著した中国前漢(前206年〜前8年)の正史である。全100巻のうち地理誌燕地に倭人条がある。
(中国の正史は、原則として次代の王朝が前代のそれを記録することになっている)
◇年表
前206年、前漢起こる(→前8年まで)
前108年、楽浪郡設置(→313年まで)
25年、後漢起こる(→220年まで)
57年(建武中元二年)、「倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」(後漢書、ただし志賀島出土の金印には「漢委奴国王」とある)
80年頃、班固による「漢書」完成?
107年(安帝永初元年)、「倭國(倭面土国)王帥升等獻生口百六十人、願請見。」(後漢書)
204年、公孫氏による帯方郡設置
216年、曹操魏王となる
238年、公孫氏滅ぶ
239年(景初三年)、卑弥呼「親魏倭王」の印綬を受ける(魏志倭人伝)
248年頃、卑弥呼女王薨ずる
265年、晋起こる
<漢書巻二十八・地理志燕地倭人条>
<原文>
本文:
「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」
注釈文:
(注1)如淳曰「如墨委面、在帶方東南萬里。」
(注2)臣(王贊)曰「倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。」
(注3)(顔)師古曰「如淳云『如墨委面』、蓋音委字耳、此音非也。倭音一戈反、今猶有倭國。魏略云『倭在帶方東南大海中、依山島爲國、度海千里、復有國、皆倭種。』」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<釈文>
本文:
「楽浪海中倭人有り。分かれて百余国を為し、歳時を以って来たり献見すと云う。」
注釈文:
(注1)如淳曰く「<墨如委面> 帯方の東南万里に在り」
(注2)臣賛曰く「倭これ国名。墨を用いるを謂わず。もとこれを委と謂うなり」
(注3)師古曰く「如淳云う『如墨委面』と。蓋し委字音を耳するに、此音に非ざる也。倭音は反って戈に一す、今猶倭国有り。魏略云う『倭は帯方東南大海中に在り、山?に依って国を為す。海を度る千里、復国有り、皆倭種。』と」
漢書地理誌・倭人条の記述は僅かであるが、当時の状況を知る上で喉から手が出るくらいに貴重な情報ということができる。
もう一つの価値ある情報は、そこに記載されている後代の注釈である。ただ当時の文章は簡潔を美点としていたらしく、いずれも簡略に過ぎて現代人には一読理解しがたい面がある。このためか、これまでこの注釈文の意味を十分に解釈できていなかったようだ。(以外に研究資料の少ないのが驚きである。)
<本文の解読>
釈文:
「楽浪海中倭人有り。分かれて百余国を為し、歳時を以って来たり献見すと云う。」
(1)「樂浪海中有倭人」「楽浪海中倭人有り」
前漢に楽浪郡(現北朝鮮の平壌付近と考えられている)が設置されたのは、前108年のことである。「楽浪海中倭人有り」の表現からしておそらくこの頃から「倭人」の存在に気づいたのであろう(というか倭人と交渉が生じたのであろう)。倭人に関する、比較的正確な知識はこの楽浪郡の設置以降と考えられる。
楽浪海とはどの辺の海を言うのだろうか?現代の東シナ海や太平洋を指しているとは思えない。せいぜい現在の黄海海域のことではないだろうか。あるいはもっと狭く楽浪郡沖と考えてもいいのかもしれない。だからこの「楽浪海中倭人有り」の趣意は、「楽浪海に倭人が現れる」ぐらいの意味ととっておくことにする。
(2)「分爲百餘國」「分かれて百余国を為し」
この文節の主語は「倭人」である。「(倭人は)分かれて百余国を為す」といっている。この書き方は、一国の人が来てその情報をもたらしたというよりも、訪れた倭人が百余国から来た、と読むべきだろう。
ただその国々がどこにあるかはこれだけでは判然としない。が後代の文献によれば、主として日本列島から渡海してきたことは間違いない。しかし百余国ともなれば玄界灘周辺地域だけと考える必要もないだろう。(時代によると思うが)列島の東国はともかく、西国全域から集まったのではないだろうか。国といっても現代の国家イデオロギーに基づくそれではなく、「山島によっている小国(那)群」である。(それらは考古遺物によって概要を知ることができるだろう。)
(3)「以歳時來」「歳時を以って来たり」
「歳時」とは、常時しっきりなしというのでは無く、定期的に年間のある決まった季節になると来るという意味だろう。四時といえば春夏秋冬の四季のことであるから、歳時は普通に考えれば年一回のことと考えていいのではないか。
ではそれはどのような季節であったか?もし倭人が日本列島から来ているとすれば、その時節は限られていただろう。だいたい古代の日本列島から海路で楽浪郡に到るには、魏志倭人伝に記述されている魏使の逆行路(旧伊都→松浦(半島)→壱岐→対馬→朝鮮半島南岸→半島西海岸北上)を取る以外に考えられない。
当然、玄海灘の横断や半島沿岸の航行には風浪や潮流を考慮しなければならない。当時の船の推進力が風力の利用よりも、主として人力「手漕ぎ」であったことを勘案すると、渡海可能な季節は極めて限定されていたと推量されるのである。浪が高ければ櫂で確実に漕ぐことが困難になる。海陸の温度差が大きい真冬や盛夏は風が強く海が荒れる。また秋は台風のシーズンで航海は避けられたのではないか。
こうした観点から「歳時」を慮るならば、春から初夏にかけての、あえて言えば(太陽暦の)4・5・6月前後3ヶ月程度に限られたのではないか。とすれば往復の長期航海を考えるとやはり1シーズン1回の渡海がせいいっぱいだっただろう。
(4)「獻見云」「献見すと云う」
問題は「献見」の意味である。「献」は「物品を贈る、奉る」、「見」は「見(まみ)える」である。「云う」は伝聞の意味だろう。要するに、倭人達が漢の楽浪官庁に挨拶に出向き物品を献じたことを言っていると考えられる。
では何故倭人達が官庁に貢物を献じたのか?彼らの目的が単に挨拶だけであったとは到底考えられない。それだけでは渡海という危険な行為に見合った見返りがない。やはり当地との交易が目的だったと考えるべきである。交易を認めてもらうために最寄の官庁に挨拶し、みやげ物を届けたのだと。それは商売上のトラブル防止と身の安全確保のために絶対不可欠な行動であった。
こうした状況からどのようなことが連想されるか?「百余国が献見」といっている。もし「献見」の目的が交易で間違いないとすれば、それらの国々がバラバラ単独に「渡海」したとは思えない。彼等は歳時を以って(年一回定期的に)集団で(船団を組んで)訪問した(と見なければならない)。
考えても見たまえ、ルートや期間が限定されていたのだ。船団が一定の地域、期間に集中したとすれば、自然に行動を共にするだろう。遠路航海の案内役や護衛そして通訳を共同で行ったほうがより安全で効率的である。何よりも渡航は専門的な経験と知識を必要とした。
だから、自然発生的に共同歩調を取ったというよりも、むしろ交易ツアーを計画的に組織するオルガナイザー(統率者)が存在したと考えるべきだろう。思うに、列島各地から北九州(伊都国か)に集結して、船団を組み大挙して渡海したのではないだろうか。そしてそうした統一行動が、楽浪官庁への挨拶行為(献見)を採らせたと想像されるのである。
釈文:
「楽浪海中倭人有り。分かれて百余餘国を為し、歳時を以って来たり献見すと云う。」
訳文:
「決まった季節になると(定期的に)楽浪海沖に倭人が現れる。(倭人は)それぞれ百以上の別々の国々に属する人々であり、(交易を認めてもらうため、楽浪官庁に)挨拶に訪れ物品を献ずる、と云う。」
春、波が穏やかになると、決まって彼らは産物を携え、交易のために商船団を組んで来航した。それはなかなか壮観な光景ではなかったか。そしてそれは楽浪郡の人々に強く印象に残った。
集団行動と「わ」について:
交易が目的であるとすれば彼らは言わば商人である。彼らはそれぞれの国々を代表して、自国の交易品と一緒にはるばる海を渡ってきた。平和が維持されれば、それらは話題になり年毎に大掛かりになっていったことが十分に推察できる。
そして思うに、そうした交易の集団(船団)を彼等は「わ」(ないし「わ*」「*わ」)と自称したのではないかと私は推測するのである。(あるいは、一様に「われらは〜」と自称したという説もある)
これには若干だが根拠がある。後代の魏志倭人伝に「國有市交易有無使大倭監之」「国に市あり、交易の有無を、大倭を使わして之を監せしむ。」とある。この「大倭」は「おおわ」と訓むことは明らかだろう。
このことは、当時交易市を「わ」と呼んだ可能性のあることを示唆している、と私は考えるのである。(倭を「やまと」と訓ずるのは邪馬台(やまと)国が発生してからのずっと後のことである)
ただ「わ」を表記する適切な漢字が思いつかない。強いて当てるとすれば「曲」か。「曲(わ)」は「仲間」「一団」「一統」のような意味に使われたと考えられる。要するにここで私が言いたいのは、当初の「わ」はあくまでも「仲間」、「交易団」の意味の普通名詞であって、特定の地域、国を指す固有名詞ではなかったと主張したいのである。
「わ(倭)人」について:
だから「わ人」とは本来「『わ』という交易集団の人」の意味であったと私は考える。それが次第に「わを構成する人々」→「わを構成する人々が住む地域」→「わ人の国」→「わ国」と通称されるようになったと推測するのである。
ひとつ問題が発生する。ではなぜ「わ」を「倭」と表記するのか?の疑問である。これはこの本文の文章からだけでは解らない。この解答には次の注釈文が重要な示唆を与えてくれる。
<注釈文の解釈>
漢書地理誌倭人条には三つの注釈が付けられている。それらは「倭」についての由来や考え方を述べているように見受けられる。いずれも短文であるが、またそれゆえにか難解で、その読解の定説は未だ得られていない。正確な解読が求められるところである。
<(注釈1)如淳注>
(注釈1)原文:
如淳曰、「如墨委面、在帶方東南萬里。」
(注釈1)釈文:
如淳曰く、「<墨如委面> 帯方の東南万里に在り」
如淳は魏の人といわれる。この如淳の注が、本文の「倭人」に対する注釈文であることに異存はないだろう。
(1)「如墨委面」「<墨如委面>」
問題は「如墨委面」の文意である。これが難解で未だに定説がない。通訓では「墨」を、「入墨・刺青(いれずみ)」のことと捉え、また「委」を(無理に?)「あやかざる」等と読み、「(倭人は)面(顔)に入墨(刺青)を施している」と解釈してきた。
この結果、「倭人の鯨面文身」は定説になって、以後の各文献に繰り返し引用されることになってしまった。
・魏志倭人伝「男子無大小 皆黥面文身」
・後漢書「男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差」
・晋書「男子無大小 悉黥面文身 自謂太白之後」等
だが私はこの通訓は誤読であると考える。ここの「墨」とは「入墨(刺青)」のことではなく、「墨家」のことであると考える。根拠を問われれば様々の検討の結果としか言いようがないが、全体の意味から妥当なことは以下の検討で納得していただけるだろう。(※注1:墨家について)
「委面す」の「委」は稲穂に実がなって頭を垂れる様で「垂れる」「自然に曲がる」ことをいう。だから「委面す」とは「面(顔)を垂れる」「お辞儀をして挨拶する」の意味と思量される。結局、「如墨委面」とは「(倭人は)墨家のように顔を垂れて礼をする」のことと考えるのである。
さてこの如淳注が貴重なのは、先述の宿題、「倭」の語源を示唆している可能性があるからである。
「倭」は「人べん+委」の構造になっている。そして「委」が前述のように「頭を垂れる」であるとすれば、「倭」もまた「頭を垂れて挨拶する人」「お辞儀をして礼をする人」の意味ということになる。
時の中国人は得意の漢字をもって対象をいかに適切に表現するかを工夫した。そして古代日本人が自称していた交易集団「わ」に「倭」の字を(おそらく造字して)当てたのである。だから「倭(わ)」とは、「お辞儀をして挨拶する人々の交易団(集団)」の意味と理解される。
どうだろう、この推理は何となくぴったりしないか。考えてみれば、「お辞儀」は現代にも通ずる日本人の風習(文化)である。日本人は昔も今も基本的には変わっていないのかもしれない。このことから「倭人」とは人種を言っているのではなく、その風俗から名付けられた言葉であることがわかる。
(2)「在帶方東南萬里」「帯方の東南万里に在り」
この文節の主語も当然倭人になる。文中「帯方の東南〜」といっていることから、この如淳の注は、公孫氏によって帯方郡が設置された204年以降の記述であることが分かる。ということは漢書が編纂されてざっと100年後の注ということか。ここの「万里」は、正確に「一万里」の距離というよりも「はるか向う」「遠方」の意味ととっておく。
注1釈文案:
如淳曰く、「(倭人は、)墨(家)の如く委面す。帯方の東南万里に住んでいる。」
注1訳文案:
如淳が云うには、「(倭人は、)墨家のように、お辞儀をして挨拶する。帯方郡の東南はるか向うの処に住んでいる」
やはり倭人の「鯨面」は誤りだろう。だいたい(信用を旨とする)商人に何で鯨面が必要なのか。ただ後述する理由から、文身については倭人(ただし海人)の特徴であった可能性がある。現代でも行われている風俗であるし、魏略逸文にも「〜其俗男子皆點而文。〜今倭人亦文身〜」(後述)とある。
<(注2)臣(王賛)注の解釈>
(注2)原文:
臣(王賛)曰、「倭是国名、不謂用墨、故謂之委也。」
(注2)釈文:
臣(王賛)曰く、「倭はこれ国名。墨を用いるを謂わず。故にこれを委と謂うなり。」
(本釈文は、「漢書食貨・地理・溝洫志 東洋文庫488 永田英正・梅原 郁訳注」に基づく)
臣(王賛)は、西晋の人といわれているが他の二人に比べて明確に確定できていない(ようだ)。記述が何時行われたかが分かることは、文書の前後関係の把握や解読の上で大切な情報なので残念なことではある。
(1)「倭是国名」「倭はこれ国名」
臣賛はまずずばり「倭は国名である」と断言する。そしてこの断定の説明が次に続く文章という訳である。しかし漢書には倭国に関する記述はどこにも存在せず、少なくとも「倭人」としか書かれていないにも係わらず。そういう意味ではこの文章も難解というべきか。
だから臣賛はこの注で「倭人」を「倭国人」と捉えている事になる。思うに、臣賛の時代(西晋?)には「倭」は国名・地域と認識されていたと考えるしかない。だが、彼は(如淳注を知っていただろうに)少なくとも如淳注を理解して書いているのだろうか?と疑問に思ったりもする。
(2)「不謂用墨」「墨を用いるを謂わず」
続く「不謂用墨」の「用墨」の意味が判然としない。「墨」には「(刺青)いれずみ」の意味もあるが、「筆墨」などの意味もある。だから用墨は(イ)「刺青をする」とも(ロ)「筆墨を用いる」「文字を書く」とも取れる。「謂う」は「由来する」「〜と聞く」と訳しておく。
ただ、この文節の主語は「倭(国)」に違いない。またこの「墨」は如淳注の「墨」のことだろう。してみればここはやはり如淳注に対する反論ととるべきで、「(倭(国)は)墨(刺青)に由来しない」が趣旨と考えられる。ただ先述したように、倭人は「鯨面」はしないが「文身」はしていた可能性がある。だから、ここでは「倭(国)は、刺青の風習に由来しない」と解釈するべきだろう。
(3)「故謂之委也」「故(もと)これを委と謂うなり」
次の「故謂之委也」がまた難解である。「故」は「もと」「昔」「古(いにしえ)」の意味である。ここで「委」がどのような意図で使用されているかが紛らわしい。「委」の文字も様々の意味を有するからである。例えば一般的な(イ)「委ねる、従順」の意味にも取れる。また(ロ)「お辞儀をする」とも取れる。そしてここで読者にぜひ思い出して欲しいのが、志賀島出土の例の金印「漢委奴国王」である。とすれば(ハ)「(漢)委奴国」の「委」とも取れることになる。
「委」にはその他にも意味があるかもしれない。だが、やはり考慮しなければならないのは、臣賛が「倭」を国名と認識していることである。してみればそれと同格に使われている「委」も国名に関係する言葉と考えるのが自然だろう。だとすればこの文節は自ずから、「(倭(国))は、もとの委(奴国)に由来する」の解釈が適当ということになる。
注2釈文:
臣賛曰く、「倭はこれ国名。墨を用いるを謂わず。故(もと)これを委と謂うなり。」
注2訳文案:
臣賛が云うには、「倭とは国名である。(倭は)刺青の風習に由来するのではなく、昔の委(奴国)に由来する」
どうだろう。同じ「倭(わ)」の語源についての注釈ながら、臣賛の結論は先の如淳のそれと全く異なっている。二人の違いを要約すれば、
如淳:倭は、「お辞儀して挨拶する人々(の交易団)」の意味である
臣賛:倭は、国名で古の「委奴国」に由来する
になる。
問題はどちらが正しいかである。「倭(わ)」そのものの語源は、本論の検討結果から言っても、如淳注が正解ではなかろうか。
ただもし臣賛がここで間違いなく「(漢)委奴国」を念頭において注を書いているとすれば、別の意味で極めて重要な証言を提供していることになる。
臣賛注の次の問題は、では委奴国の「委」は何と音読するかである。「わ」と訓むか?普通に「い、ゐ」と訓むか?残念ながらここに答えは記されていない。がこれは、例の金印「漢委奴国王」の解明に係わる極めて興味深い案件でもある。現在の通説では、後漢書に「倭奴国」とあることから、「漢の委(わ)の奴(な)国王」と訓まれているようだ。はたしてそれでいいのか?これを宿題にして次の顔師古の注釈の解釈に進もう。
(臣賛注「倭は、昔の委に由来する」は、考えてみれば実に意味慎重な言葉ではある。様々の想念を思い起こさせるという意味で。
(1)「委」は「倭」の略字で「わ」と読む、と言っているのか
(2)「倭」が「委」からの造字、と言っているのか
(3)後代の倭国と委奴(伊都)国と関係がある、と言っているのか
等である)
<(注3)(顔)師古注の解読>
(注3)原文:
師古曰、「如淳云如墨委面、蓋音委字耳、此音非也、倭音一戈反、今猶有倭国。魏略云、『倭在帯方東南大海中、依山?為国、度海千里、復有国、皆倭種。』」
(注3)釈文:
師古曰く、「如淳云う『如墨委面』と。蓋し委字の音を耳するに、此の音に非ざる也。倭音は反って戈に一す、今猶倭国有り。魏略云う『倭は帯方東南大海中に在り、依山?に依って国を為す。海を度る千里、復国有り、皆倭種。』と」
顔師古は初唐(581〜645年)の人である。だからこの注は比較的新しいものと判断できる。師古の注文は少し長いので、前半部(A)と後半部(B)の二つに分割して検討することにしよう。
(1A)「如淳云『如墨委面』、蓋音委字耳、此音非也」「如淳云う『如墨委面』と。蓋し委字の音を耳するに、此の音に非ざる也」
師古は「委」の読音に疑念を抱いたようだ。ここでは「委の音」と「此の音」とが耳で聞くと違うといっている。問題は「此の音」とは何を指しているか?である。当然ここは漢書の「倭人」に関する注釈なのだから、「此の音」=「倭の音」と考えなければならない。
(2A)「倭音一戈反 今猶有倭国」「倭音は反って戈に一す、今猶倭国有り」
「倭音一戈反」の「一」は「一致する」の意味だろう。「反」は「返って」「むしろ」の意味である。これを通訳すると「倭(わ)の音はむしろ戈(クワ)と等しい」ということになる。
「今猶有倭国」の「猶」には疑いの意味ある。ここではやや不審の念が述べられていると考えられる。要するに、この師古注のこの部分は、「委」と「倭」が全く異なる発音の言葉であることに疑念をいだいた発言と理解できる。
注3A部釈文:
師古曰く、「如淳云う『如墨委面』と。蓋し委字の音を耳するに、此の音に非ざる也、倭音は反って戈に一す、今猶倭国有り。」
注3A部訳文:
師古曰く、「如淳は『如墨委面』と言っている。しかし『委』字の音を耳に聞くと『倭』の音とは違う。今なお存在する倭国の『倭』の音は反って戈(クワ)に一致する。(どうしてだろうか?)」
この顔師古の注が極めて重要な証言であることが分かるだろう。師古は、「委」の音と「倭」の音が明らかに違うといっている。そして「倭」は「戈(クワ、ワ)」に近いとも言っている。ここでは「委」の音は明らかにされていないが、当然「イ、ヰ」と言いたいのだと思われる。
してみれば、例の金印「漢委奴国王」は「漢の委奴(イト)国王」と読むべきではないのか?もちろん委奴国は伊都国の別表記である。ただ問題はこれで解決ではない。では何故そう表記するのか?後漢書の「倭奴国」の意味は?等々の新たな疑問が直ちに発生する。ここには語彙の成立にかかわる諸々の経緯・思惑が隠れていそうである。
(3B)魏略云、「倭在帯方東南大海中、依山?為国、度海千里、復有国、皆倭種。」
魏略は云っている、「倭は帯方郡の東南大海中に在って、山?に依って国を為している。海を千里度る、また国が有る。皆倭種である。」
師古は「倭(わ)」の語源について疑問を持ち調べることにしたのだろう。魏略が引用されている。一つの疑問に、何故顔師古は魏略を引用したか?がある。普通は倭国の事情に詳しい魏志でも良かっただろうに。思うに顔師古に大意はなく、魏略は漢書のあとに成立した、(「倭」と書かれた)最初の文献だったからと思量される。
問題は魏略が「倭」をどのような意味で使っているかである。
そして注意を要するのは、魏略が「倭人」ではなく「倭」と表記していることである。この「倭」は「交易団」の意味か「倭人」の意味かそれとも「倭国」の意味か?(※注2:魏略逸文について)
続く「在帯方東南大海中」の「在る」を「住んでいる」と取れば「倭人」の意味にもとれる。だが「依山?為国、度海千里、復有国、皆倭種」の「国を為す」や「復有国」からすれば「倭」を国名(ないし地域)の意味で使っているようにむしろ見える。
それにこの魏略の記述からは、本来の交易団としての「わ」を窺い知ることが全くできない。ということは魏略の書かれた時期には(ないし魏略は)すでに「倭」が国ないし地域名として混用され始めたことを示している。もしかしたら臣賛は魏略を見て「倭」は国名と判断したのかもしれない。(※注3:中国史書「倭伝」の書き出し部)
注3B部訳文案:
魏略は云っている「倭(国)は帯方郡の東南大海中に在って、山?に依って国を為している。海を千里渡るとまた国が有る。皆倭種である。」と
この顔士古による魏略の引用文は、(残念ながら短すぎて)これから古代の倭国の実態を殆ど知ることができない。
<漢書地理志・倭人条の全容>
想像してみたまえ。それは多数の船を連ねた大船団であった。(仮に1国1船とすれば百艘近くになるが、まあ考え難いとしても盛時には数十艘にはなったのではないか)彼らは(倭人達は)夏頃になると決まって海の彼方から忽然と現れる。
船がどのような形態と大きさを持っていたかをイメージできない。しかし、遠洋を商人と物産と乗組員とをはるばる運んできたのだ、それなりの大きさと構造を有していたと考えなければならない。船隊は高く幟を翻し、見事な櫂さばきを見せながら紺碧の海をおもむろに進んでくる。それは、時の楽浪人の耳目を驚かす壮観な光景であったに違いない。
商人と船の乗組員は明確に区分されていた。だが船団全体は一人の長(大わ、あるいは大率(ゐ))によって統率されていたと考えられる。到着すると、商人達はその頭領に率いられ、楽浪官庁に出頭し贈り物をして交易を許可してくれるように頼んだ。彼等は一様に礼儀正しく、お辞儀をして挨拶する人々であった。
一方、船員達は屈強の男達であり、その身体と気風を誇示するかのように思い思いに刺青をしていた。おそらく漕ぎ手は専門の水夫だったであろうが(海人で平素は漁労に従事していたと思われる)、苛酷な労働であり、常時は裸体であっただろうと想像されるのである。とすれば自分達の力の誇示と、互いの識別(乗船の識別でもある)のためにも文身は有り得たであろう。
交易が終わると商人達は官庁にその旨報告し、再び船団を組んで還って行った。どうだろう。漢書地理誌の「楽浪海中倭人在り」の簡潔な言葉の中に、楽浪人の驚きと感嘆とが表現されているように思えないか。
倭人は「わ」という市に依拠する産業と交易の民であった。彼等は船団を組み積極的に大陸の地に交易を求めた。おそらく列島の内部にも大小の市曲(いちわ)が存在したと考えるべきだろう。古代王権は「わ」の監督と統率から発祥したのかもしれない。
本稿 了
※注1:墨家について
墨家(ぼくか)は諸子百家の一つである。中国の戦国時代(前403〜前221年)に墨子によって興された思想家集団であり、博愛主義を説く。墨家は戦国時代に現れた一種の反戦運動家たちでもあった。代表的な思想家に、墨?がいる。
戦国時代に儒家と並び最大勢力となっていたが、秦の中国統一の後弾圧を受け消滅した。
※注2:魏略逸文について
著者は魏の魚豢(かん)といわれ(「史通」に「魏時京兆魚豢私撰魏略事止明帝」とある)、陳寿がそれを参照していることからも、成立は魏志よりも少し前だったと考えられている。残念ながら魏略は逸文(原本は失われたが、他の文献に引用された文節だけが残る)しか残っていない。
魏略の記事が最も長く引用されている文献に「翰苑」(唐の張楚金の撰、660年成立)がある。ただし「翰苑」は「天下の弧本」で、残っているのは唯一大宰府天満宮に所蔵されている(平安初期の)書写本だけである。書写の際の誤字・脱字が多いとされている。
<原文>
「從帯方至倭、循海岸水行、暦韓國、到拘耶韓國七十里。始度一海千餘里、至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布糴。南度海、至一支國。置官与對同。地方三百里。又度海千餘里、至末廬國。人善捕魚、能浮沒水取之。東南五東里、到伊都國。戸万餘。置曰爾支、副曰曳渓觚・柄渠觚。其国王皆屬王女也。」(翰苑)
「女王之南、又有狗奴國、女男子爲王。其官曰拘右智卑狗。不屬女王也。自帯方至女國萬二千餘里。其俗男子皆點而文。聞其舊語、自謂太伯之後。昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之吾。今倭人亦文身、以厭水害也。」(翰苑)
<釈文>
「帯方より倭に至るに、海岸をめぐりて水行し、韓国をへて、狗邪韓国に到ること七千里。始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴という。良田なく、南北に市糴す。南、海を渡り、一支国に至る。官を置くこと、対(馬)に同じ。地、方三百里。また海を渡ること千余里、末盧国に至る。人よく魚を捕らえ、よく水に浮没しこれを取る。東南五百里、伊都国に到る。戸、万余。置曰爾支、副を曳渓觚・柄渠觚という。その国王、皆、女王に属す。」
「女王の南、また狗奴国あり。男子を以って王となす。その官、狗右智卑狗という。女王に属さず。帯方より女(王)国に至るに、万二千余里。その俗、男子は皆、點而文。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられるや、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。今、倭人また文身し、もって水害を厭う。」
注目に値するのは「女王」の記述である。しかし惜しいことに魏略は逸文のためか、魏志に記載された邪馬台(やまと)国や卑弥呼女王の記事があったかどうか不明なことである。したがってこの女王が卑弥呼女王かどうかは全く分からない。
魏略はその命名から言っても魏による戦略遂行上の調査文献だったのではなかろうか。とすれば(史書というよりも)魏時代のリアルタイムな成立とみることができる。遼東の豪族公孫氏が帯方郡を設置したのは204年である。(先述した「史通」の記事が正しいとすれば、)それからしばらくして後230年頃の成立と推定できる。
後代の魏志(魏史の謂いで明らかに魏の史書である)によれば、この頃日本列島には邪馬台(やまと)国が建国されて卑弥呼女王が共立されていたはずである。が、この魏略の記述からはそれを明瞭に伺い知ることができない。思うに、魏は(魚豢は)この頃まだ「邪馬台国」の情報に疎かったのではないか。
私には魏略の「〜伊都国に到る。戸、万余。置曰爾支」の文言が非常に興味深く思われる。「置曰爾支」の「日」は「曰く」なのか「日」なのかはっきりしないが、前者であれば「〜(女王は)伊都国に爾支と云う(官、王)を置く」、後者であっても「〜(女王は)伊都国に曰(官、王、率)として爾支を置く」と読めるからである。
そしてこの「爾支(ニキ)」は、それを名前に含む、記紀神話に現れる二人の人物を思い起こさせる。
(イ)瓊瓊杵(ニニギ)尊
(ロ)饒速日(ニギハヤヒ)命
の二人である。
新たな課題が提起されている。中国史書と記紀(神話)の整合性による古代史の解明である。
※注3:中国史書の「倭」関係の書き出し部
一方、魏略の後の成立と考えられるのに陳寿の魏志は「倭人は、帯方東南大海中にあり〜」と漢書の「倭人〜」を踏襲しているところが面白い。史書として漢書をお手本にしたのだろうか。
以下中国史書の倭国関係条の書き出しは次のようになっている。
・漢書 地理志 後漢 82年頃 斑固 「楽浪海中、倭人あり 百余国に分かれる。」
・魏略(逸文)魏時代230年頃? 魚豢「 倭は、帯方東南大海中にあり。」
・魏志 東夷伝 晋 280年代 陳寿 「倭人は、帯方東南大海中にあり。」
・後漢書 東夷伝 宋 范曄 「倭は、韓の東南大海中にあり。」
・梁書 諸夷伝 唐 姚思廉 「倭は、自ら太伯の後という。」
・晋書 四夷伝 唐 房玄齢 他 「倭人は、帯方東南大海中にあり。」
・通典 東夷伝 唐 杜佑 「倭は、後漢より通ず。」
このように見ると、初期の中国文献の「倭」関係の記事はその書き出しが「倭人」と「倭」との二系統があったことが分かる。
・「倭人」から始まる文書:(前)漢書→(如淳注)→魏志→晋書など
・「倭」から始まる文書:魏略→(臣賛注)→後漢書→梁書→通典など
これが何を意味するかは今後検討されるだろう。
本来は漢書の「倭人」の呼称が最初だったと思われる。それが次第に「倭人」=「わ(倭)を構成している人」→「倭人の住む国」→「倭人の国」→「倭国」と、国名としての「倭」へと変化していったと考えられる。その最初の兆しが魏略にある、とここでは集約しておこう。
この結果237年に「親魏倭王」の称号が生れた?ということは魏略が史書ではなくリアルタイムに成立した魏の戦略策定本であったとの推論を補強しているだろう。
もう一つ重要なのは、「倭(わ)」国は中国側の命名であって、日本側が自称したのは常に「やまと」国であったことである。様々の曲折の後、「日本(やまと)」の国号が受け入れられ、その二重構造が解消されたのはずっと後代の天智紀になってからである。
2008.06.15MA
<参考文献>
共通:
1.「古事記」新編日本古典文学全集1 小学館 1997.06.20
2.「日本書紀」新編日本古典文学全集2 小学館 1994.04.20
3.「邪馬台国基本論文集」T・U・V 佐伯有清編 創元社 1981.07.20-1892.07.10
・「倭人伝考証」角林文雄:中国史文書に関する考証
漢書地理志論関係:
4.「漢書食貨・地理・溝洫志」 東洋文庫488 永田英正・梅原 郁訳注 平凡社 1988.07.08
5.「邪馬台国と倭国」古代日本と東アジア 西嶋定生 吉川弘文館 1994.01.10
6.「魏志倭人伝を読む」上下 邪馬台国の道 歴史文化ライブラリー104 佐伯有清 吉川弘文館 2000.10.01
金印関係:
7.「論集 日本文化の起源」第2巻 日本史 上田正昭編 平凡社 1971.05.24
・「漢委奴国王印考」三宅米吉:「委」は「倭」の略字で有り、「漢の委(わ)の奴(な)国王」読むべきである。現在のほぼ定説になっている。
8.「金印研究論文集成」 大谷光男編 新人物往来社 1994.03.20
・「方寸の世界に歴史をよむ」久米雅雄:「漢委奴国王」は「漢の伊都国王」と読むべきである
・「金印奴国論への反論」久米雅雄:「漢の委(わ)の奴(な)国王」論の再度の否定
・「漢委奴国王」印研究の紹介 大谷光男:金印の研究史に詳しい
・「藤貞幹考」藤貞幹:委奴国はイト国と読むべきである。伊都国説の嚆矢
|