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【名歌鑑賞 2】

                                             森 明

 <万葉集巻三・266>
 淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのに古おもほゆ  柿本人麿 

 この歌を古今の名歌の第1位に上げる人が多い。「海神の…」の歌の何処か危険な印象を敏感に感じ取り、忌避する気持が働くのだろうか。対して、この歌には素直に心を傾けることが出来る。懸命に生きているにも関わらず、どうしても、別離や喪失を伴わなければならない人間の営み。今は帰らぬ古への追憶が、「真摯な哀しみ」として伝わって来る。

本稿の主題は、この歌の「夕浪千鳥」の読みかたにある。この部分は、古来、人麿による美しい造語であるとされてきた。そして、「波の上を飛び交う千鳥」あるいは「波上に浮かぶ千鳥」を想定してきた。ところが近年、動物学者(東光治氏)から、千鳥の生態として、波上を飛んだり浮かんだりすることは決して無く、岸辺にあって、波打ち際の小動物を啄ばむのがその特徴である、との意見が提言された。

やむなく、最近では、この「夕浪千鳥」を「夕べの波打ち際で採食する千鳥」とする解釈が定着しつつある。つじつまは付く。しかし、イメージもここまで変化すると、こじつけの感が否めない。造語としての美しさが損なわれるように思えるからだ。

それまでして、「夕浪千鳥」と詠わなければならなかった理由が人麿にあったのだろうか?と。優れた造語は、直感的に読み手を納得させる。作者が伝えようとした「夕浪千鳥」が、もし読者にうまくイメージを喚起させ得ていないとすれば、失敗例ではなかろうか。あれほど言葉にこだわる人麿作としては。

だから、私の提案はこうだ。私は、この部分を「夕浪」と「千鳥」とに分けて読みたい。「夕浪、千鳥」と。理由の第一は、これまで述べたように、「夕浪千鳥」という「千鳥」は世に存在しないことによる。第二は、「夕浪」も「鳴く」と考えるからである。「鳴く」は、「泣く」「哭く」等と類語であり、もともと「音(ね)」から派生した言葉とされている。

湖面は夕日に輝いているだろうか、もう暮れ方の岸辺に、さざ波が「ぴちゃぴちゃ」か「ざっざー」か、小さな音をたてて打ち寄せる様子は、人の心を侘しくさせるものだ。「汝が鳴く」とは、「千鳥」はもちろんのこと、この「夕べの浪」をもさしているのではないかと考えるのである。

どうだろう。「夕浪千鳥」という関係付けの難しい言葉を、美しい造語として賞賛するよりも、小さく音を立てながら打ち寄せる浪を、「夕浪が鳴く」とした詩人の感性をこそ称えるべきではないだろうか。人麿には、まるで「淡海の海」そのものが鳴(泣)いているように思えたのではなかろうか。

昔を偲び、「夕浪(淡海の海)」が泣いている、「千鳥」が泣いている、そして人麿の「心」も。自然、動物そして人間の、混ぜん一体となった哀しみの「嗚咽」が、この歌から聞こえてこないだろうか?

    淡海の海、夕浪、千鳥、汝が鳴けば心もしのに古おもほゆ  柿本人麿 

 「近江の海の、夕べの浪よ、千鳥よ、お前が鳴くと、私の心も沈んで、昔のことが偲ばれるのだ」

歌聖、柿本人麿は、その偉大な存在にも関わらず生年が不明である。その主な活躍は、持統天皇年間(西暦687〜702年)にほぼ限られている。正確な生年月日を同定できないまでも、近江朝廷にすでに出仕していたかどうか、つまり、壬申の乱(672年)以前に成年に達していたかどうかが一つの争点になっている。

歌にヒントが隠されていないだろうか。この歌の中の人物は、誰の「古」を偲んでいるのか?当然、自分自身のそれと考えるしか無い。「古(いにしえ)」の語源は、「住(い)にし辺(へ)」にあるとされている。素直に歌を読めば、作中の人物は、淡海の国での、自分のありしの生活を偲んでいると解釈せざるを得ない。

問題は、この作中人物が柿本人麿自身であるかどうかということである。この歌の詞書きは、この歌が単独に詠まれたものであり、他に献じられたもので無いことを伝えている。とすれば、人麿が自らの感懐を詠んだと考えるのが自然である。私は、柿本人麿は、(近江の国で生まれ育ったのでないならば)すでに近江朝廷に出仕していたとする立場に加担したい。

そうすると、この歌が、巻二の有名な近江荒都歌群とは離れ、由来を示す題詞の記載も無く、一つだけぽっつりと独立して置かれている理由も何となく解ってくる。そう、人麿がわざとそうしたのだ。この歌を、公務の上で作詠したものと区別し、人麿自らの思い出の挽歌として詠んだ記念とするためにだ。

本稿 了。 次回、【名歌鑑賞 3】

(2003.09.15)


<参考文献>

1.万葉集     和歌文学大系1  稲岡耕二著 (平成9年 明治書院)

2.万葉集全講            武田祐吉著 (昭和30年 明治書院)

3.万葉集釈注            伊藤 博著 (1995年 集英社)

4.校訂 万葉集           中西 進著 (平成7年 角川書店)

5.万葉の歌人と作品         神野隆光、坂本信幸共著 (1999年 和泉)

6.万葉集   古典文学解釈講座   古典文学教材研究会編 管野雅雄監 (1994年 三友社出版))

7.柿本人麻呂 岩波新書評伝選    北川茂夫著 (1994.11.21 岩波書店)

8.謎の歌聖 柿本人麻呂       橋本達雄著 (昭和59年 新典社)

9.柿本人麻呂ノート         佐佐木幸綱著 (1982.05.05 青士社)

10.歌の聖なりける 柿本人麻呂  稲岡耕二著 (1985.04.25 集英社)