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【名歌鑑賞 5】

                                2004年06月15日  森 明

<万葉集巻二・133歌>

原文:
柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首 并短歌

反歌
「小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆」

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釈文:
柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上り来る時の歌(二首併せて短歌)

反歌
 「ささの葉はみ山もさやに乱ども我は妹思う別れ来ぬれば」  


すばらしい1首だ。「全身で詠う」というのはこのような歌をいうのだろう。不思議な歌だ。感情を直接に表現する言葉は一言も無い。にも関わらず、別離の苦悩と悲しみ、そして妻に対する深い愛情を読むものに強く伝えてくる。恐るべき詠者の力量というほかはない。

古今の秀歌の中でも、この歌は、(天位というよりは)地位または人位にも相当する名歌である、と私は思う。というのは、歌は特別の場を必要としていない。永い人生の中では誰もが経験しそうな、そして努力によっては或いは作れそうな、何か身近で懐かしい作品のように思えるからである。私は、一歌詠みとして、一生のうち一首でもいいこうした歌が詠めれば本望だと思っている。

この歌は、万葉集には、石見相聞歌と呼ばれる第一長歌(131歌)の第二反歌(133歌)として置かれている。が、近年の研究によれば、元々反歌は第一反歌(132歌)のみであったものが、改作の段階で、後から人麻呂自身によって追加されたと考えられている。反歌にも関わらず、歌は、一首独立した短歌作品として充分味わうことができる。

歌を読もう。読み下しでは、「乱」を除いて特に難しい言葉は見当たらない。歌の解釈のポイントは、下句の「我は妹思う別れ来ぬれば」にある。どんな「思い」なのだろうか?歌の中には、その「思い」を直接に伝える言葉は見当たらない。「別れて来た」としか開示されていない。想像で補わなければならない。

解釈のヒントは、歌の構造にある。歌は、上句+「友(ども)」+下句のように、確定的逆接の接続助詞「ども」(〜けれども)で上・下句が繋がれている。だから、下句の「思い」とは、上句の意味と、逆かあるいは全く異なった内容であると想像できる。

尚、本稿では、論外と思われるので、「友」を仮定的逆接の助詞「とも」と読むことはしない。「友(とも)」の場合は、その場では(殆ど)起こりえない事象の仮定、例えば、「たとえ、地が裂けても」とか、「たとえ、天が落ちようとも」のように用いられる、と私は考える。本歌の場合、「ささの葉が乱している」のは実際の背景であって、仮定状況とする必然は全くないと思うからである。

では先ず、上句の意味を考えてみよう。上句は、「笹の葉はみ山も清に乱ども」である。「み山も清に」の「み」は、山の美称。「も」は強調で「山全体」を意味する。「清に」は「清らかな音を立てている」様子を表現する言葉である。「乱」の訓は、本論の主題でもあるが、後で検討することにして、取りあえずはこのままにしておこう。すると歌意は、「笹の葉は、まるで山全体が清々しい音を発しているかのように、乱であるけれども」ということになる。

したがって、下句の「思い」とは、上句の「清々しい音を発している、爽やかな山」とはまったく逆の、「思い」ということになる。どういう思いであろうか?二つ考えられる。「轟々と嵐のように吹き荒れた情態」か、もう一つ、「暗く沈潜した情態」かの。

どちらだろうか?それは読者の読み次第という考え方もある。だが、本当の処、人麻呂の意図はどちらなのだろうか?私は、人麻呂は、後者の「暗く深沈した情態」を伝えたかった、と考えるのである。その根拠は、歌に「乱」の字を用いていることによる。

「乱」は、「乱友(ども)」によって、「乱」の逆接語である「沈」や「黙」をイメージさせる。つまり、「乱」の使用によって、「暗く沈思する心の情態」を読者に伝えようとしている、と。一方の「轟々と嵐のように吹き荒れた情態」を想起し得ないのは、そのイメージは「騒」や「荒」であって、「乱」とは順接に相当する語彙だからである。

人麻呂の作品は、よく「沈痛」という言葉で評される。彼は、「(男の別離の)悲しみ」は、「轟々と泣き叫ぶ」よりも、「真っ暗になって黙する」方が深い(あるいは、大人のそれ)と考えるタイプの作家ではなかったか。彼にとって、歌中の主体は、どうしても「(悲しみに耐えながら)黙行する人物」でなければならなかった。

第二の問いに移ろう。では「乱」はどのように読むのか?必要からとはいえ、「乱」の字を用いたことによって、思わぬ問題を招いてしまった。「乱」の読み方に多数の可能性を生じてしまったのである。

普通、笹の葉は、「さやぐ」である。が、万葉集には、「乱」を「さやぐ」と訓ずる他例はないという。「乱」と書けば、当然「みだる」と読むだろうし、「さわ(騒)く」「まが(紛)う」等と読む異訓も生じてしまった。現代でも、諸説入り乱れており、「さやぐ」の訓は有力ではあるが一つの説に過ぎない。

しかし、笹の葉は「さやぐ」以外には、私には考えにくい。本文をつぶさに点検すれば、それが納得できる。「笹の葉はみ山も清に乱ども」である。「み山も清に」つまり「清らかな音を発する山」を実現しているのは、「笹の葉の乱」である。となれば「乱」は「さやぐ」としか読みようがないではないか。

他の動詞「みだ(乱)る」「さわ(騒)く」「まが(紛)う」では、到底「清らかな音を発している、爽やかな、み山」を実現できない。これらの動詞は、意味からいって、いずれも文意に矛盾をきたす不適切な言葉である。

一つの仮説を立てて検討して見よう。では、「乱」以外に「さやぐ」の文字を当てるとしたら、他にどんな字が考えられるであろうか?もし、爽やかなイメージの「さやぐ」に当たる、適当な文字を用いたとして、「さやげ友(ども)」の逆接は、下手をすると「騒」や「荒」のイメージを招かないだろうか。すると歌意は、全く異なる意味、つまり「轟々と吹き荒れた情態」になりかねない。恐らくそれは人麻呂の意図に反したのだと。

「乱」は、あくまでも下句の「思いを胸に、黙行する情景」を誘導するための、人麻呂による苦心の用字であって、訓はやはり「さやぐ」と考えなければならない。むしろここに、人麻呂の徹底した語彙使いの追及を見るべきであろう。

ところで、「さやぐ」説に対する最大の非難は、「さやに・さやぐ」と類語の連結使用にある。しかし、ここは実際には、「(み山も)さやに(笹の葉は)さやぐ」である。「さやに」は、むしろ「みやま」の形容になっている。読み下しでも、私には特に違和が感じられない。

だがもし、どうしても「さやに・さやぐ」の用法が、文法上おかしいと言うのであれば、私は「さやぐ」の代わりに「そよぐ」の訓を推薦したい。他の訓「みだる」「さわく」「まがう」よりは、まだ歌意に順じているだろうと考えるからである。

   ささの葉はみ山もさやに乱(さや)げども我は妹思う別れ来ぬれば

「笹の葉は、まるで山全体が清々しい音を発しているかのように、しきりにさやいでいるけれども、私は妻のことを一心に(暗い沈んだ気持ちで)思っている。別れてきたからだ。」

歌からは、愛する妻への思いと、別離の悲しみに耐えつつ、山中を黙して行く一人の男の姿が彷彿と現れてくる。官命による已むざる別れであったろうか。再会の約束も覚束ない、断腸の思いの別れであったに違いない。そうした苦渋に満ちた別離であったことを、この歌は見事に伝えて来るのである。

一連の歌群の、改作の存在は、この歌が、宮廷での宴の度に、エンターテイメントとして繰り返し披露されたであろうことを推測させる。当時宮廷は、多くの地方出身の舎人や采女によって支えられていた。彼らは、それぞれの地方代表として指名を受け、已まれずに上京したもの達ではなかったか。そこには多くの別れの物語があった。

恐らく、人々は、この歌を聞きながら、自身の体験になぞらえ、悲痛の涙を絞ったことであろう。柿本人麻呂の、歌聖としての偉大な存在は、こうした営為の積み重ねの中で育まれたと考えるべきである。

本稿 了。 次回、【名歌鑑賞 6】

(2004.06.15)

<参考文献>

1.「万葉集全講」  武田祐吉  明治書院  昭和30年

2.「萬葉集」  日本古典文学大系  岩波書店  1957.05.06

3.「ささの葉はみ山もさやに」の歌について 山崎良幸 (「解釈」十五巻七号 1969.7)

4.「斎藤茂吉全集  評釈」  斎藤茂吉  岩波書店  昭和48年9月13日

5.「萬葉集私注」  土屋文明  筑摩書房  昭和51年3月5日

6.「謎の歌聖 柿本人麻呂」       橋本達雄著 (昭和59年 新典社)

7.「万葉王族歌人群像」  北島徹  世界思想社  1992.11.20

8.「万葉集」  古典文学解釈講座  古典文学教材研究会編 管野雅雄監 (1994年 三友社出版)

9.「柿本人麻呂」 岩波新書評伝選    北川茂夫著 (1994.11.21 岩波書店)

10.「万葉集釈注」  伊藤 博  集英社  1995年

11.校訂「萬葉集」  中西 進  角川書店  平成7年1月31日

12.「万葉集」  和歌文学大系1  稲岡耕二  明治書院  平成9年

13.「萬葉集」  新日本古典文学大系  岩波書店  1999.05.20

14. セミナー「万葉の歌人と作品」  企画編集/神野志隆光、坂本信幸  和泉書院  1999.05.30

15.「万葉集の歌を推理する」 文春新書  間宮厚司 (文藝春秋 平成15年8月20日)