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HH406201.DOC 【名歌鑑賞 6】 <万葉集巻二:156・157・158歌> 原文: --------------------------------------------------------- 釈文: この高市皇子作の珍しい3首は、題詞によれば、十市皇女が薨じたときに作られた歌であるという。二人は異母姉弟であるが、壬申の乱では敵同士ではなかったか。その高市皇子が十市皇女に挽歌を捧げたのは何故であろうか? 十市皇女は、大海人皇子(天武天皇)と額田王との一人娘である。成人の後、大友皇子(弘文天皇)に嫁ぎ一子葛野王をもうけていた。しかし、壬申の乱によって死に別れとなり、父のもとに戻って夫の喪に服していたのである。当時、貴人の喪は6年と定められていた(戸令)。 ところが、後注の記述(日本書紀からの転載であるが)によれば、神事式典の当日(天武7年(678年)4月7日。皇女の喪明けの時期と一致する。そのための祭事か?)朝、行列の進発の直前、突如として皇女は世を去ったという。 死の事情については、急病によるとしか明らかにされていない。しかし、周囲の驚きやそのあわただしさを伝える記事からすると、死は、全く突発的な出来事であったことを窺わせる。このため、自殺説、他殺説、事故死説等々(果ては江戸時代国学者の神の祟り説まで)またその理由について、様々の憶測を生むことになった。 ところで、日本書紀の十市皇女薨去の記事には、高市皇子の名前は一切出てこない。にも関わらず、万葉集には皇子作の、上記の三首が挽歌として収録されている。これによって、二人の関係が俄然注目されることになるのである。他に歌を残していない皇子が、皇女のためにわざわざ歌を作ったとすると、そこには並々ならぬ事情を伺わせるものがある。 推定年齢では、当時、皇女は30歳程度、皇子は25歳頃であった。二人の間には何があったのだろうか?皇女の突然の死に皇子は関わりがあったのだろうか?恐らく、歌にはそのヒントが隠されているはずである。しかし残念ながら、現在その解明は十分に為されているとは言い難い。それは歌が極めつけの難解歌だからである。 <156歌の解釈> 156歌は、万葉集中屈指の難訓歌として有名である。<已具耳矣自得見監乍共>が未だに解読されていない。ただ、幸いなことに前後部はほぼ定訓を得ているので、その間をうまく繋げるよう、多くの試訓が提案されている(※注1)。 中で比較的有力なのは、「夢見だに見むとすれども」(日本古典文学大系、ただし同新大系では無訓)の訓である。すると歌意は、「三輪の神のしるしの神々しい杉、夢にでも逢いたいと思うけれども眠れない夜が続く」(同大系)ということになる。この解釈では、神杉とは、神に仕える(=喪に服している)皇女を指すとする。これによって、皇子が皇女に対して思慕の情を抱いていたと推理するのである。当たらずとも遠からずか、現在のところ、この解釈が採用される場合が多い。 しかし、これだけでは、皇子と皇女の関係は、極めて限定的にしかわからない。例えば、二人は結婚していたのだろうか?歌中に「共」の字が使われていることから、既に関係があったと見る向きも多い。だが、事の真相の解明には、どうしても、この156歌の完全な解読が不可欠である。それには、何としても難訓部<已具耳矣自得見監乍共>に定訓を与えなければならない。 いろいろあるが、一歌詠みとしての立場から検討した、私の結論を述べよう。私は、「神杉」とは、「神の降臨の樹」→「神の標(しるし)」→「神意、神慮」の喩えと考える。「標(しるし)」は、また「印」「徴」「験」「証」「璽」等でもある。 そして、難訓の<已具耳矣>を「こふ身だに」と訓む。「こふ」は「請う」、「乞う」であり、「祈願する、請願する」の意味である。「耳」は、「(聞きたいと願っている)身、(尋ねている)身」の意味。すると、上句の意味は、「(自分は)神に対して神意を祈願している身なので」になる(※注2)。 続く、下句の<自得見監乍共>は、文字通り「(神の標の)獲得を夢見ようとする」との意味で、「いめ(夢)見なさむと、いめ見せむとも」、あるいは「しめ(標)見なさむと、しるし(験)見せむと」と訓む。 156歌:「三諸の神の神杉請ふ身だに夢見なさむとい寝ぬ夜ぞ多き」 「三輪の神に、神慮を請願している身なので、その霊験を夢見て(かえって目が冴えて)眠れない夜が多い」 皇子には神に何か祈願のことがあった。歌では、抽象化されているので、その内容ははっきりしないが、その標(神意)を待ち望んで焦慮している様子が詠われている。 一体その祈願の事とは何か?古来、「杉の標」(あるいは「標の頼み」)には、「結納」の意味が含まれるという。もし、それが皇女への求婚を意味しているとすれば、(歌では、三輪の神への祈願という形をとってはいるが)、実際には、天武天皇への請願(許可願い)ということになる。 歌からは、結果(神の標=天皇の許可、璽)を、期待と焦燥で待つ皇子の様子がひしひしと伝わってくるではないか。 <157歌の解釈> 歌には難しい語彙は見当たらない。従来この歌は、皇女の死後の作品であり、皇子が彼女の短命を嘆いた歌とされて来た。例えば、「三輪山の山辺に懸けてある麻木綿は、短い木綿だ。かくも短いものであったのに、私は皇女の命をいつまでも長くと思い込んでいた。」(新日本古典文学大系) そうだろうか?この解釈には多くの疑問点がある。この訳文では、私にはどうにも意味が良くつかめない。先ず「長くとおもひき」の解釈に合点がゆかない。もし歌が「皇女の短命」を嘆いているのならば、直截に「短いとおもひき」となるべきでは、と思ったりする。 それはともかく、「短木綿」と「人間の短命」との関連付けはタブーではないだろうか。これではいやしくも、神を寿ぐべき「木綿(ゆう)」を「人間の死」という不浄で汚すことになってしまう。下手をすると、神聖な杉に「短木綿」を懸けて、「皇女の薄命」を祈念した(してしまった)、という形の歌になりかねない。それなのに、「いつまでも長くと思い込んでいた」はないだろう。 また、歌中の「かくのみからに」とは何を意味しているのだろうか?従来は、「皇女の突然の死」を指していると解釈するのであるが、それは、題詞および後注に記載されている記事からそう読むのである。もし後注(当然後代に付けられた)がなければ、何を指しているのか分からない。歌はそのようには詠わないものだ。どうもこの歌を、皇女の短命を嘆いた歌とするのには無理がある、と私は思う。 それよりも、連作歌として自然に読むべきではないだろうか。この「かくのみからに」または「かくのみゆゑに」は、前歌156歌を受けており、「かくの身=前歌の人物=皇子自身」である、と考えるのである。 すると、歌意は、「三輪山の(神杉を寿ぐ)まそ木綿は、あんなに短いのに、こうして(神慮を)待ち望んでいる身なので(=156歌)、長いとさえ思えるほどだ」と素直に読める。つまり、この歌も156歌同様、「結果(神標)が待ち通しい」とする歌なのである。 「木綿(ゆふ)」を神に祭ったのは誰か?何時か?何故か?やはり、皇子と考えるしかない。「短木綿」は、祈願の時に神を嘉して自らが懸けたものであると。(もちろん、皇子が実際に祭ったものではなくとも、皇子の立場では、自分の願を叶えてくれるであろう神に対する寿ぎとして眺めている) そのときは短いと思って祀った「木綿」も、今となっては、長いと感じるという嘆きなのである。そこには、もっと短くすれば良かった、との意味が含まれているかもしれない。それはまた、「すぐに出ると思っていた神慮が、はかばかしく出ない」の焦りと「こんなに苦しむのは、願が早すぎたか」等の後悔も感じさせる。 作詠は、156歌と同時期か?皇子には、結構自信があったのかもしれない。「こんな筈ではなかった」との。少々あてが外れた思いが表現されている。この歌は、皇女の死後に作られたものではない。156歌と同時期かもう少し後の、皇子の焦慮の心情を詠った連作の一首である。 とすれば、歌は「かくの身ゆゑ(順接)に」および「長し」の訓が適切でろう。 <158歌の解釈> 従来、この歌の解釈は、皇女が葬られた後に、皇子が亡き皇女を思慕する歌とされて来た。「今は亡き皇女に会いたいけれどもその道(方法)が分からない」が歌意というのである。山吹は黄色、山清水は泉の喩えで、「黄泉(よみ)=あの世」を表現しているとの穿った考え方もある。 言われればそうかもしれない。が、疑点はある。歌中の「清水を汲む」行為の喩えがよく掴み取れない。これが「会いたい」の意味なのか?皇女の墓にお参りする道が分からない筈は無いと思う、葬られたばかりなのだから。それに、皇女の薨じた初夏(旧暦4月7日))と、歌に詠まれている山吹の咲く季節(晩春)とは時節が合わない。「黄泉」を導くために、わざわざ山吹を持ってきた?死の翌年以降に詠われたとすれば、矛盾はなくなるのだが…。 実は、先行する二首(155、156歌)は、皇女の生前の歌であった。してみれば、やはりこの歌も、前二首と同様、皇女の死の前に詠まれた歌ではないのか?一首だけ死後の歌というのも変なものだ。死の前の3月に詠まれたと仮定すれば、歌中の「山吹」の時節ともぴったり合致する。 改めて、この観点から歌を読み直してみると、むしろそれが相応しく見えてくるから不思議である。この場合、「山」とは「山奥(深窓)に居る(皇女)」の意味、「清水」とは「(皇女)の意思」の喩えと考える。すると「山清水を汲む」とは、「深窓に居る皇女の意思を確認する」の意味になる。現代でも「意を汲む」という言い方をするではないか。 すると、歌意は、(なかなかはかばかしい回答の得られない皇子が、痺れを切らして、)「いっそのこと、直接皇女に会ってその意思を確認したい。けれども、(皇女は)大勢のお付の人(山吹)が立ち塞いだ深窓(山奥)に居るので、その道(方法)がわからない」との嘆きの歌と解釈できるのである。 この158歌は156、157歌よりも、もう少し後の状況を詠っているのかもしれない。回答の遅い理由が、天皇というよりも、皇女側の意向に因るとでもいうような情報がもたらされたのだろうか。むしろ歌からは、何か緊迫した雰囲気が感じられる。待ちきれずに、実力行使に訴えかねない皇子の様子と、それを警戒する、皇女側の態勢が。 どうだろうか。やはりこの三首は、いずれも皇女の死の前に詠まれた、皇女に対する皇子の求婚の請願歌と読むべきである。推測するに、皇子の求婚は、喪明けの年の年初めででもあったろうか。三首は、未だ願いが叶えられず、次第に煩悶と苛立ちを深めていく皇子の心情を生々しく伝えている。 それにしても、意外なのは、求婚の歌にもかかわらず、皇子の一途な焦燥ばかりが目だって、皇女については、それらしい「山清水」ぐらいしか詠われていないことである。強い求婚こそが思慕の表れといわれればそれまでなのだが。このことは、両者に(心の)交流が全く無かったことを示唆している、ように私には思える。歌中の人物(高市皇子)には求婚の相手(皇女)の気持ちが全く分かっていない。あるいは秘めた恋の故か?それとも、皇子の若さによる性急さ、強引さ、無骨さの故か? <結末> すでに、25歳を過ぎていた高市皇子が未だ独身(恐らく)を通していたのは、深く期するところがあったのかも知れない。皇女の喪明けも迫った春のある日、思い切って皇女との結婚を父天武天皇に申し入れたのである。かねがね思慕の念を抱いていたからであろうが、もしかしたら、そこには償いの意味もあったかも知れない(或いは、天皇の意思がはたらいていたか。勝利者の傲慢や独善、自惚れとは考えたくない)。皇子は、天皇に奏上すると同時に、神に成就を祈願した。 天皇には、異存はなかったであろう。皇女に対しては、その幸福を奪ってしまったという、忸怩たる負い目の気持ちと、できれば、それを払拭して新しい幸福な人生を再築してもらいたいと願う、父としての思いがあったからである。 当時、皇族子弟の婚姻は結構窮屈であった。だいたい相応の王皇族同士の結婚に限定されていたからである。そうした制約から周囲を眺めてみると、恐らく年下ではあったろうが、皇女とほぼ釣り合いのとれる相手は(皇子は)、高市皇子しか見当たらなかったことにもよる。 しかし、皇子の願いに対する許し(玉璽)は、なかなか下りなかった。三首の歌(156,157,158歌)には、奏上したにも係わらず、許可が得られず焦燥に駆られている皇子の様子が繰り返し詠われている。 皇子の切なる願いにも関わらず、(恐らく朗報は得られないまま)、喪明けも最後の日、天皇も臨席する式典の行列がまさに出発しようとする直前、十市皇女の急逝が伝えられたのである。天地をも揺るがす驚愕の事件であった。しかし、皇子は直ちに一切を悟ったであろう。 死が皇女の回答であった。これまで答えが遅れたのは、皇女が頑として応じなかったからである。皇女にしてみれば、全くそんな気持ちにはなれなかったに違いない。むしろ、求婚は自分に対する侮辱と思ったかもしれない。皇女にとって、高市皇子は決して赦すことのできない存在だったのである。自分の幸福と最愛の夫を奪った相手。それを受け入れることは、自分をも亡き夫をも冒涜する行為であった。 喪は神事である。天皇といえども疎かにできない。その喪の永遠の継続を皇女は選んだのである。喪明けの祭事が済んでしまった後では、自分は只の人間に過ぎず、天皇という現世の神の命令に従わなければならない。 皇女の突然の死は、覚悟の死であり、父および皇子に対する強い抗議、峻拒の意味であったと、私は見る。壬申の乱では高市皇子は大友皇子に勝った。だが、ここでは完敗を認めざるを得なかったであろう。その後、皇子は詠わぬ人となった。 この連作は、挽歌の部に収録されている。しかし、本当の意味で挽歌と言えるだろうか?もし、これが求婚に関わる歌で間違いないとすれば、むしろ相聞の歌といえないだろうか?しかしまたそれも、皇子側からの一方的な働きかけに過ぎなかったことを思えば一概には言えないような気がする。題詞の淡々とした語り口(ただし、この記述では皇女の死後の歌と誤解され易いが)と、歌の置かれた位置は、あるいはこの連作に相応しい姿なのかもしれない。 さて、こうして歌の全容が明らかになってみると、これまで様々の口さがない中傷に晒されてきた、十市皇女の真の姿がおぼろげながら浮かび上がってくる。「もし、高市皇子の求婚が無かったら・・・?」実はこの仮定の問いも残されている。機会があれば、いつかこの件を論じてみたい。 本稿了。 次回【名歌鑑賞 7】 (04.09.15) ※注1) ※注2) <参考文献> |