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【名歌鑑賞 7】

                                          森 明

<万葉集巻二:141歌・142歌>

<原文>
挽歌
後岡本宮御宇天皇代
天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮
有間皇子自傷結松枝歌二首
141歌:
「磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武」
いはしろの はままつがえを ひきむすび まさきくあらば またかへりみむ
142歌:
「家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛」
いへにあれば けにもるいひを くさまくら たびにしあれば しひのはにもる
後注:
右件歌等雖不挽柩之時所作准擬歌意 故以載于挽歌類焉

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<釈文>
有馬皇子自らを傷みて浜松の枝を結ぶ歌二首
141歌:
「磐代の浜松が枝を引き結び眞幸くあらばまたかへり見む」
142歌:
「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」
後注:
右の件の歌等は、柩を挽く時に作る所にあらずと雖も、歌の意を准擬す。この故に挽歌の類に載せたり。

 

二首は万葉集巻二、挽歌編の冒頭に置かれた歌である。ただし、後注には、挽歌とは、本来死者を悼んで(=死後に)詠われる歌ではあるが、その意を含んでここに掲載したとある。

斉明四年(658年)11月9日、有馬皇子(孝徳天皇皇子、当時19歳)は、謀反の嫌疑によって逮捕され、訊問を受けるため紀伊の牟婁(むろ)湯(現在の白浜湯崎温泉)に護送された。当時、斉明天皇はそこに滞在しており、中大兄皇子ら多くの政府首脳も従っていたからである。

日本書紀は、11月5日の夜、京留守官の蘇我赤兄が、皇子を市経の宮に包囲したと記している。恐らく、翌朝早々に逮捕し、そのまま牟婁(むろ)湯に連行したのであろう。

二首は、その護送の途上、牟婁湯手前の岩代の地で、皇子が自らを傷んで詠った歌というのである。当時岩代は、旅の安全を祈念する聖地として知られていた。しかし、歌は一読淡々とした感じで、題詞に言う、自傷や嘆きの風は特に認められない。このため、今も、この歌を、単なる「旅の歌(羈旅歌)」と考える学者が多いのである。実際はどうだったのだろうか。歌自身に聞いてみる他はない。

<141歌の解釈>
141歌:
「磐代の浜松が枝を引き結び眞幸くあらばまたかへり見む」

第一首、141歌の読み下しに遅滞はない。特に難しい語句も見当たらない。歌中の、草木の枝を結ぶ行為は、旅の安全の願いを叶えるために、当時行われていた民間信仰である。「真幸くあらば」とは「もし(神に祈願して)叶えられたら」の仮定の意味で、ここに「祈願」の意思、意図が表現されている。

私はこの歌を、皇子の祈願の「思い付きの歌」あるいは「企図の歌」と読む。多くの注釈では、枝を結びながら詠んだと解釈する。がそうではない。それでは上句の「〜引き結び」の連用中止形(自己の現在)と、下句の「〜かへり見む」という助動詞「む」(自己の未来)の時制とが、一首の中で文法的にうまく繋がらない。佐々木隆氏が指摘するように、「枝を結ぶ」動作を起こす前の、祈りへの意図(思い付き、企図=上下句とも未来)の段階で詠んだ歌と考えなければならない。

すると歌意は、「(そうだ)岩代の浜松の枝を引き結んで、(もし神に無事を祈願して)叶えられたら、また見ることになるだろう」となる。結句の「む」は、推量の助動詞と見なすべきである、神の恩寵に委ねるのだから、自分の意思には依らない。

肝心なところなので、この二つの説をもっと検討してみよう。これは、A)枝を結びながら詠んだのか、それともB)その前の松を眺めている段階で詠んだのか、の二者択一問題である。もし前者のA説であるとしたら、歌は「〜結ぶ」あるいは「〜結びぬ」と詠(読)まなければならないだろう。上の句(現在)と下の句(未来)の時制が変わるのだから、明確にそれを表現しなければならない。(注1)

すると歌は「磐代の浜松が枝を引き結ぶ(びぬ)眞幸くあらばまたかへり見む」となる。どうだろう、少し趣の違った歌になることがわかる。「(我は)引き結ぶ」の表現に意思が込められ、全体が力強い行動の歌に変貌する。この場合、題詞にいう自傷よりも、未だめげていないというか望みを失っていない皇子の姿が現れてくる。

一首だけ取り上げて置いてみれば、これはこれで雄渾な歌と言えるかもしれない。ただこの場合、枝を結ぶ行為が、唐突に行われる印象を否めない。それに、実際にそんな心境で居られたのだろうか?皇子は殆ど有無を言わせず、逮捕された。不自由な拘束を受けている身では、やはり心騒ぎ、自分の運命を悲嘆する心情の方が相応しいのではなかろうか。

後者の詠(読)み方の場合は、歌は従来の「〜結び」で特に問題はない、というかこの詠み方しかない。「結ぶ」なのか「結び」なのか?改めて原文の「引結」を見直して見るとどちらにも読める。とすれば受け取り方は自由である。がここでは特に違和を感じないので、通説の「結び」の方で論を進めることとし、最後にもう一度全体の中でその是非を論議し直すことにしよう。

ところで、岩代の「旅の安全」祈願信仰とは、具体的にはどのように行われたのであろうか。私には、「草木を結ぶ」行為そのものには祈りの意味は無いように思える。祈るべき対象の神、「岩代の神」は別に鎮座しており、「草木を結ぶ」のは、あくまでもその祈願の標、象徴として行われたと推測するのである。

恐らく、「草木を引き寄せて結びつける」行為には、「神との約束を交わす」証の意味と、同時に、「旅の間中、神と帯同する」というような意味があったのではなかろうかと。だから、旅を無事に還り終えた者は、神に感謝を捧げ、「結び目」を解く。

要約すれば、「旅の安全の神への祈願」→「草木を結ぶ(=神と同行する)」→「旅」→「無事に還れたことへの神への感謝の祈り」→「結び目を解く」、の5つの連続した行為によって、この民間信仰は行われたと考えるのである。(実際の行動は前後することがあったかも知れないが、基本的な順序はこれで動かないように思える)

さて141歌が、「思い付きの歌」として、どのような経緯で詠われたのであろうか?次のように私は推理する。当時の状況から言って、皇子の頭の中は、いかにこの嫌疑の窮地から脱して生還するかでいっぱいだったろう。始めは皇子も、自分は罪人として護送されているのであって、「旅」をしているとの自覚は無かった、と私は見る。

そんな皇子が考え直して、祈る気になったのは、恐らく、岩代の地での、たくさんの「旅の安全祈願」の事例を目の当たりにして、思い付いたと考えるのである。「そうだ、この直面する難関(護送)を、「旅」ということにして、岩代の神に加護を祈念したらどうなる?」当時藁をも掴みたい皇子の、この発見が141歌の真意であったと私は推測する。

考えてみれば、今や孤立無援であり、訊問後の即決死を覚悟せざるを得ない皇子にとって、これはなかなか魅力あるアイデアであった。これだとの思いだったかもしれない。もし岩代の神を味方にできれば、道中、自分に危害を加えようとする者がいたとしても、神がそれに対抗してくれるだろうし、罰してもくれるだろう。

「眞幸くあらば」が歌中のキーとなる言葉である。この短い仮定の言葉は、読みようによっていろいろ取れる。が、ここにこそ、「もし、神に祈念して願いが叶えられたら」と同時に「首尾よく聞き届けられれば」「この思い付きが旨く行ったら」のような、「企図」の意味が含まれていると私は考えるのである。

こうした論議に疑問を感じる向きには、次の仮説を考えていただこう。では、逆にそうした意図の無い、純粋な「旅の安全祈願歌」であるとして、普通の旅人が、信頼するべき神に向かって、疑念を挿むような「真幸くあらば」等と詠う(祈る)だろうかと。本来なら、生還を自明のこととして神願するべきところ。屁理屈を言うなら、これでは「真幸くなければ」無事に還れなくていいことになる。普通の人は、恐ろしくて、祈る気持ちになれないのでは?

むしろこの詠い(祈り)方は、尋常ならざる状況にある者のそれである。この人の行き先には何か絶望がある。歌では「また還り見む」と言っているから、恐らく「死」が予定されているのであろう。疑念を表明しながらも祈る。歌には、信じきれないながらも、すがらざるを得ない(立場の)者の必死の心が覗いている。

141歌は、一見極めて淡々とした「旅の安全祈念」を意図する歌のように見える。だが、皇子の当時の状況に照らせば、秘められた様々の「思い」が隠されている。しかし、141歌は、あくまでも祈願の「思いつきの歌」である。実際の祈念そのものは、しかるべき社か祠に行ったに違いない。次に置かれる歌は、その「祈願」に関わる歌と予想できるのである。

<142歌の解釈>
142歌:
「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」
笥(け):食器。(貴人のそれは銀製であったという)

この歌は、古来、単なる「旅での食事の歌」と解釈する説が根強いのである。およそ祈りの要素が認められないと。そして今でも、歌意は、「家にあれば器に盛るべき飯を、(草まくら)旅の中にあるので椎の葉に盛ることよ」(新日本古典文学大系)のように、(これはやや直訳くさいが)旅の不如意を嘆いた歌と解されている。

しかし、よく歌を見て欲しい。そして、「草枕、旅にしあれば」という言葉が使われていることに着目して欲しい。私にはここに、ことさら「旅の途上」を、強調して神に訴えようとする皇子の意図を感じる。前述したように、本当のところ、皇子は護送の身分であって、普通一般の旅をしているのではなかった。それを皇子自ら(「家に居る」時と対比してまで)「旅にしあれば」と詠ったところに、前歌141と連動した、祈願の真意が隠されている、と私は読むのである。

何故か?その理由は、もともと、岩代の神は、「旅の神」だからである。だからこそ、皇子は、この護送を、一種の「旅」になぞらえ、神に加護を祈った、のだと。もしこれが、現実通り、「謀反の嫌疑に対する、身の潔白の主張と無実を鳴らした、その加護の願い」であれば、旅の安全の神たる、岩代の神の預かり知らぬ範疇である。聞き入れられないかもしれない。だが、「旅の安全祈願」となれば無視するわけにはいかないではないか。

恐らく、皇子は、「家に居るときであれば器に盛ってお供えする飯を、今は旅の途上なので椎の葉に盛ってお供えします。(どうかお受け取り下さい。そして私をお守り下さい。)」と念じたのであろう。この142歌は、神への祈願の詞そのものである。

<142歌の「神饌歌」説について>
142歌の「祈願歌説」は、実は、すでに民俗学者の高橋正秀氏が初めて唱えた「神饌説」(「万葉集の謎解き」文藝春秋昭和31.05)と同一なのである。

しかし、この高橋説にも関わらず、現在も尚、「羈旅歌説」を支持する学者は多く、必ずしも「神饌歌説」が定訓とはなっていない。しかし、歌をつぶさに読めば、「神饌の歌」(あるいは「祈願の歌」)であることは明らかである。その根拠を以下にまとめておこう。

1)歌では、「盛る」といっている。「食べる」とは言っていない。「盛る」なのだ。これは、神饌のための食事を「盛る」行為に他ならない。

2)では「飯を盛る」のは一体だれか?歌中の人物、つまり有馬皇子自身である。141歌の「枝を結び」「また見む」、142歌の「笥に盛る」「椎の葉に盛る」の一連の動作の主格は、一貫して皇子自身である。祈願であり、神饌であればこそ、祈る本人が枝を結び、盛って神に御供えしなければならない。歌に矛盾はないのである。これが、羈旅の歌であるとすると、「飯を盛る」主語は、恐らく「食事係の舎人」ということになるだろう。とすれば、二つの歌に乖離が生じてしまう。

3)「椎の葉」は、小さすぎて人間の食事には適さない。神に供えるのには適当であっても。だから、配られた食事全てを差上げたわけではない。食べる前に小さく分けて「椎の葉」に盛りつけ供えたのである。当時は、「椎の葉に飯を盛る」と言えば、神饌は言わずもがなでなかったか。

4)私は、この歌には、明らかに「祈願」の意味も含まれていることを付け加えておきたい。前述したように、「旅にしあれば」の謂いがその証拠である、と。

「羈旅歌説」に対する反論を一つだけあげておこう。当説は、142歌には、およそ祈念の感じがなく、どう読んでも、侘しい旅の食事を詠ったものとしか読み取れない、と主張する。そうだろうか?この歌を「侘しい歌」と読むのは、主観である。

というのは、この歌が「旅の不如意を嘆いている歌」とは一概に言えないと思うからである。その読みは、題詞の「自傷して」の言葉、あるいは、挽歌として置かれている事に引きずられている。もし、題詞が無く、歌が一首単独で提示されれば、この歌は貴人が新しい発見に「面白がっている歌」ともとれるからである。「旅では飯を椎の葉に盛るのか!」という驚きの。この歌は連作として味わなければならない。

<祈願の真相>
私は、一連の状況を次のように推理する。護送の途上、岩代の地で休憩があった。岩代は、牟婁の湯まで指呼の地にある。一行が到着したことの、その報告と指示伺いの待機休憩であった可能性がある。一泊する余裕があったかどうか。が恐らく、食事を必要とする程度の暫時の休憩にはなったのであろう。

皇子は、絶望のどん底にいた。事は明らかに自分の抹殺の方向に進んでいる。いかにしたらこの窮地を脱し生還できるか?だが今となっては万策が尽きていた。むしろ無力の虚しさに襲われていたかもしれない。あるいは悔しさから、何か一矢報いたいとの気持ちに駆られていたかもしれない。そして、岩代の地で一息つき、その地の旅の安全祈願の風習を見ているうちに、自分の今の、護送途上の境涯を「旅」に擬えた、安全祈願を思いついたのである(141歌)。

しかし、支給されたであろう食器に盛られた食事を、そのまま神に供えることは、いかにも不敬であった。そこで、皇子は、傍らの「椎の葉」を採って小さく盛り分け、祈りとともに神に捧げた(142歌)。思うに、当時神への供え物は、旅の途上のような非常、不足の際には、有り合わせの草木の葉で代用するとの約束事があったと解される。もしかしたらここには、ことさら「旅」を演出しようとする皇子の意図があったかもしれない。そして、出発の前に、その証として松の枝を結んだ。これからは岩代の神と共に在るように。

不信にも関わらず祈る。その目的は何か?まさか神が助けてくれるとは思わなかったであろう。だが抑止力にはなると考えたのではなかろうか。もし自分に危害を加えれば、加害者は罰を免れないぞという脅しの。とすれば、この神への祈願式は、(むしろ連行者に見せ付けるように)おおっぴらにやった方がいい。恐らく皇子は、隠すことなく、旅人になりきって一心に祈願したのではないかと私は推理する。非難はできない。ここにこそ、絶体絶命に置かれて祈る(らなければならない)者の真の姿が現れている。

二首の連作は密接に繋がっている。この二連の歌のうち、141歌は「祈願の企図歌」であり、142歌はその「祈願の神饌歌」と読むべきである。題詞の記載にも関わらず、この歌を読むものは、誰もが、到底死を直前にした若者の作品とは思わない。だから、清貧な旅の歌であると。しかし、それは、この歌が、意図的に「純粋な旅の安全祈願歌として作られた」、との理解によって納得されるであろう。

思い起こして欲しい。皇子は、本来の旅に相応しい(自分の意思に基づく)、前年の牟婁の湯来訪時には歌を作らなかった。恐らく、高々残り数十キロの旅に安全祈願は必要なかったからである(あるいは、もともと神にすがる人物では無かったのかも知れない)。しかるに、今回は、本来の旅とは言えない護送の身の上で旅の歌を作った。このことこそ、この歌がまさに「羈旅を装った、祈願歌」に他ならないことを裏付けている、と言えないだろうか。

さて、最後に、振り出しに戻ってもう一度141歌を考え直してみよう。「引結」を「結び」と読むか「結ぶ」と読むかであった。本文では定訓の「引き結び」で論を進めて来た。

では、「引き結ぶ」と読んだ場合はどうだろう?歌が「行動の歌」に変わるだけ、祈りへの「企図」「思いつき」や「自傷」「絶望」の要素が薄れることになる。すると上述した推理は成り立たなくなるのか?

いや同じだ。どちらの読み方を採用しようが、皇子の置かれた状況と行動自体は変わらない。当然、「結ぶ」行動の前には、その「企図」があったはずだからである。とすれば、結局は、皇子は自分の境涯を「旅」に擬えて、安全祈願したとする推理は動かないだろう。

ただ、「結ぶ」と読(詠)む場合は、歌の順番を入れ変えて、142歌→141歌の並びの方が、より実情に即する、と申し上げて置きたい。この場合は、141歌は、岩代出立のときに、松の枝を結んだ「行動の歌」であると。

「(私は)岩代の松の枝を結ぶ(んでおく)。もし無事であったらまた見ることだろう」
どうだろう。これで、作詠の経緯さえつかめるのなら、歌としては、むしろこちらの「結ぶ」の方を好む人も多いのではなかろうか。簡潔で男らしく、沈痛雄渾な歌になる。「引き結ぶ」の詞(行為)に、込められた皇子の万感の意を汲み取ることができる。

題詞には、「松の枝を結ぶ歌」とある。もしかしたら、歌の真意をつかみきれなかった後代の編集者が、歌の順番を入れ替えた可能性も十分あると考えられる。今後の研究を待ちたい。

<訊問>
さて、皇子の祈願は聞き届けられたであろうか?紀牟婁の湯に連行された皇子は、直ちに中大兄皇子による訊問を受けた。

「何ぞ謀反けむとする?」、この問いに、皇子は「天と(蘇我)赤兄のみ知る。我専ら知らず」とだけ言ったという。岩代の神が同道し、加護してくれているとの自信が、皇子を強くした。

皇子は無事に釈放された。「やった」いや「意外」の思いだったかもしれない。乾坤の申し開きが聞き届けられた(と思った)皇子は、再び岩代の地に戻り、恐らく、往路で結んだ浜松の枝の結び目を解いた(であろう)。神に感謝を捧げながら。(祈願のルールから言えば当然そうなる)

だがそれは、為政者の思惑だったのである。神への祈念を、皇子自らに解かせるための。そして、その直後、皇子は藤代の坂で絞殺された。藤代は、岩代の地を通り過ぎた地点にある。

為政者は全てを把握していた。岩代の地で、皇子が神に祈願したことも、その意図も。恐らく、すでに刑の執行は確定していたのであろう。だが、訊問の地で、直ちにそれを遂行しなかった。もちろん天皇の御座所を死で汚すことが憚られたのと、何よりも岩代の神の怒りを招く愚を避けたのである。

当時、中大兄皇子を首班とする大和国政府は、一枚岩であり、緊迫しつつある国際情勢(唐による周辺国侵攻)を見据え、それに対処すべき国家の大計を着々と遂行しつつあった。いかなる犠牲を払っても、自国および友邦を侵略から護り、また当時衰亡の危機にあった半島での権益を回復しなければならない。その大義に燃えていたのである。

強力な集権的国家権力を建設しなければならない。それには従来の、蘇我氏を中心とする、有力豪族の連合体制を打破する必要があった(大化の改新)。それはまた、諸豪族の力を削ぐ政策とも一致する。当然、彼らや路線に異を唱えるものの不満や抵抗を覚悟しなければならない。そして、有馬皇子はその不満分子に最も担がれやすい立場にいたのである。歌から見ても皇子は理知的な人物であったようだ。時の為政者にとっては、嫌疑の有無に関わらず禍根は早めに断っておかねばならなかった。

こうしてみると、皇子は不運の生まれ合わせであったとしかいいようがない。後世、多くの人々が有馬皇子に同情し、この地を訪れて歌を詠んでいる。中に次のような歌がある。
143歌:
「岩代の岸の松が枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも」(長忌寸意吉麻呂)
144歌:
「岩代の野中に立てる結び松 心も解けずいにしえ思ほゆ」(同)

恐らく、その結び目はすでに解かれ、皇子の行く末も松は知らないはずである。それは、もう松の預かり知らぬ、人事の世界だからである。

本稿 了。 次回、【名歌鑑賞8】

(04.12.15)

注1)
15歌:「海神の豊旗雲に入日さし今宵の月夜清く明くこそ」
同解釈:「〜入日がさし(ている)。きっと〜清く明けるにちがいない」
141歌:「岩代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば又かへり見む」
同解釈:「(私が)〜浜松の枝を引き結び(んで)、もし〜たら〜見るだろう」
この二つの歌の上の句は、いずれも動詞の連用形で中止されている。そして、どちらも、詠者が入日あるいは松を望見している立場から詠っていることで共通している。
しかし、違いがある。15歌は、「入日がさしている」で全く問題なく理解できるのに、141歌の場合はそれができない。どうしても、「結んで」としか読みようがない。
「(私が)枝を結びながら」の状態で、141歌を詠(読)む場合は、「〜結ぶ(びぬ)」にしなければならない理由である。主格の違いと考えられる。

<参考文献>
1.「万葉集全講」  武田祐吉  明治書院  昭和30年
2.「萬葉集」  日本古典文学大系  岩波書店1957.05.06
3.「窪田空穂全集 萬葉集評釈」 窪田空穂 角川書店 昭和41年1月15日
4.「斎藤茂吉全集  評釈」  斎藤茂吉  岩波書店  昭和48年9月13日
5.「萬葉集私注」  土屋文明  筑摩書房  昭和51年3月5日
6.「万葉王族歌人群像」  北島徹  世界思想社  1992.11.20
7.「万葉集」  古典文学解釈講座  古典文学教材研究会編 管野雅雄監 (1994年 三友社出版)
8.「万葉集釈注」  伊藤 博  集英社  1995年
9.校訂「萬葉集」  中西 進  角川書店  平成7年1月31日
10.「万葉集」  和歌文学大系1  稲岡耕二  明治書院  平成9年
11.「萬葉集」  新日本古典文学大系  岩波書店  1999.05.20
12.「万葉集を読む」 日本の古典詩歌 大岡 信 岩波書店 2000.01.27
13.セミナー「万葉の歌人と作品」  企画編集/神野志隆光、坂本信幸  和泉書院
14.「萬葉歌林」 伊藤 博 塙書房 2003.09.01
15.「万葉歌を解読する」 佐佐木 隆 日本放送出版 2004.10.25