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HH308221.DOC 【名歌鑑賞 8】 森 明 <万葉集巻二:114・115・116歌> <原文> ------------------------------------------------------------ <釈文>
但馬皇女と穂積皇子との恋愛事件は、当時から相当評判であったらしい。詞書によれば、但馬皇女はすでに人妻で、高市皇子の宮に住んでいたという。高市皇子は壬申の乱の功労者であり、持統朝の太政大臣として重きをなし(てい)た。穂積皇子ははるかに若く未だ独身であったようだ。作詠(事件)の時期がはっきりしないので、当時の彼等の年齢はわからない。ただ、推定誕生年からすると、但馬皇女に対して、穂積皇子は6、7歳程度、高市皇子は20歳以上年長であったと考えられる。 その頃の皇族は、皇族同士の結婚が普通で、時の天皇(権力者)が、政略的に決めることが殆どであった。政治力学や皇位継承の問題が絡むからである。その但馬皇女が、どうして高市皇子の宮に入り、どうして穂積皇子との恋愛事件まで起こすことになったのだろうか? 二人関係の記事は、当時の正史である日本書紀には、一切記されておらず、万葉集の、この三首の歌と題詞にのみ存在するだけである。したがって、事件の真相に迫るには、どうしても一連の残された歌から読み取る他はない。 <114歌の解釈> 歌は、「よ(寄)る」の言葉を多用して、読み下しにリズムをつけている。現代語訳では「よる」を全て「寄る」の訳語で置き換える。しかし、それぞれ「寄(よ)る」「所縁(より)」「因(よ)る」と、異なる意味合いに使われていることに注意しなければならない。 従来の解釈では、 間違いではないだろう。しかし、私は「秋田之 穂向乃所縁(秋の田の穂向きの寄れる)」の「寄る」とは、「寄りかかる」「倒れ掛かる」「積もる」の意味であって、ここは一歩進めて「穂が折り重なって一方向を向いている状態」つまり「穂積」の喩えと読みたい。「異所縁君」は、定訓では「片寄り(かたより)」と訳して「一途になびく思い」と解釈するのであるが、私は、文字通り「異(こと)拠る」と読み、「異なる宮の君」つまり「あの方」と取る。 皇女が、単に「君」と言えば、当然現在置かれている立場上、高市皇子を指すことになる。だから、「秋の田の穂向きの寄れる異拠る君」とは、率直に「穂積の異なる宮の君」つまり「穂積の宮の皇子」を指していると考えるのである。下句の「因奈名(寄りなな)」とは、もちろん「寄り添いたい」「一緒に住みたい」である。 問題は、「言痛くありとも」の訳である。「とも」は逆接の接続助詞であるが、二通りの用法、「仮定」と「既定(修辞的仮定)」とがある。もし、前者の「仮定」であるとすれば、「一緒に住みたい」→(その結果)「言痛み」になっても、の意味だろうし、後者の「既定」であるならば、(現に)「言痛み」はあるが(それを乗り越えて)→「一緒に住みたい」ということになる。 実際に当時、皇女はどのような状況に在ったのであろうか?既に「言痛み」はあったのか、無かったのか?この歌だけからでは、どちらとも決めかねる。この問題は、最後に再検討し直すことにして、ここでは、定訓の「仮定」として解釈しておこう。 すると、歌意は「秋の田の倒れているあの稲穂のような、あの方の所で(=穂積の宮の皇子と)、一緒に添いたいものだ。どのように世間から噂になろうとも」ということになる。つまり歌は、極めて単刀率直、「私は穂積皇子と一緒になりたい(住みたい)」と、名指しまでして宣言していることになる。この歌の内容は尋常ではない。単なる思慕の情をはるかに越えている。 一体、こうした皇女の恋情はどうして培われたのであろうか?私にはどうしてもその過程を想定することができない。最大の疑問は、果たして、深窓に住む(はずの)高貴の人妻が、若い未婚の皇子と出会い、こうした激しい恋愛感情を募らせることが可能だったのであろうか?ということにつきる。現在のように自由な出入りが許されていたのであろうか?あるいはそうした交際の場があったのであろうか?と。 それに、仮に何らかの出会いがあったとして、とてもとても、一目ぼれでこんな恋情に至るものであったろうか?とも。これには何か深い訳が隠されている。私には、この歌は、もともと相思相愛であった仲を無理やりに引き裂かれた者のそれと考えるほうが理解し易い。どうだろう。「言痛み」を含めて、もう一度考えてみる必要がありそうだ。 <115歌の解釈> 詞書によれば、穂積皇子が勅使となって近江志賀山寺(崇福寺)に派遣されたときの、皇女の歌という。皇女は何処で聞きつけたのであろうか。夫の高市皇子に対しては、一首の歌も残していないにもかかわらず、恋しい穂積皇子の一挙一投足に関心があるのだろう。 「遺(おく)れ居て」とは、「一人取り残されて」の意味。この言い方は、皇女が皇子の派遣を長期の赴任のように思い込んでいる表現である。すぐ戻るのを知っていれば、こんな切実な詠いかたはしない。「永の別れ」にはなりはしないかと皇女は恐れている。 「道の隈廻(くまみ)に標結え」は、「(曲がり道が分かるように)曲がり角に(目印の)標をつける」の意味に読まれていたが、近年、「(間違って曲がらないように)曲がり道に(進入禁止の)標を張る」と読まれるようになった。どちらでも、皇女の想いは汲み取れる。が、一途さと云う点からは、確かに後者の方がいい。追いかけるのに紛れる心配がない。物理的には、曲がり道にだけ目印を付ける前者の方が余程経済的なのだが。 すると歌意は、「後に一人残されて、恋しい思いをするくらいなら、いっそ追いかけて行きたい。(間違って)曲がり道に入り込まないよう標縄を張っておいてください。貴方」となる。 注意するべきは、結句の「我が背(貴方)」の言葉である。もちろん、穂積皇子を指しているのであるが、ここでは、すでに他人ではない親しみの呼びかけになっている。前歌114では、まだ「異拠りの君」に過ぎなかった。それが今やまるで自分の「夫」に対する、もの言いようではないか。 このことは、二首の歌(114と115)の間に、二人をより親密にさせる何かがあったことを伝えている。すると穂積皇子の山寺への派遣は、それと何か関連があるのだろうか? <116歌の解釈> 詞書によれば、但馬皇女と穂積皇子との密通が露見したあとの皇女の歌であるという。従来の解釈では、例えば、 何と言っても、この歌の白眉は、下の句の「未だ渡らぬ朝川渡る」だろう。ただ古来、ここはいろいろな読み方が為されている。「朝に河を渡る」とも「淺い川を渡る」とも。また、往路とも帰路とも。その結果が、上記のような直訳になってしまうのだろうか。この現在の解釈のイメージでは、一応「(密会のため)未明の朝、(密かに)川を渡る」が定訓となっているようだ。 しかし、私が不思議に思うのは、題詞に言う「竊かに接する(=密会)」にしては、歌(皇女)には、およそ罪の意識が認められないことである。悪事をやっているという、暗い後ろめたさが微塵も感じられない。むしろ皇女は自分の行為を(当然のことでも為したかのように))誇らかに詠っている、と私には感じられる。「朝川渡る」は、「朝早く」の意味であるから、人目を忍んでいたではあろう。が、それにしては何だ、この恥じない様子は?詞書に依存せず、歌そのものに真実を語らしめるとしたら、違う解釈になるのではなかろうか? 「己が世に未だ渡らぬ朝川渡る」とは魅力ある詞である。(かのシーザーのルビコン河を渡る「賽は投げられた」より詩的な表現ではないか)私は、この詞に、題詞にある「竊かに=密会」の意味をあまり感じない。「夜川を渡る」であればいざ知らず。「朝川渡る」だ。むしろ、私は「希望に満ちた、明るい気持ちで渡る」の印象を受ける。 「己が世に未だ渡らぬ」とは、よっぽどの決心をして「決行した」の意味だろう。血の滾(たぎ)るような詞ではないか。彼女は、「密会した」などでは無い。「(一生の思いで)決行した」つまり「逢いに行った」のであると、私は考える。この強く美しい詞にはこちらの解釈のほうがはるかに相応しい。 この歌は(素直に読めば)、「皇女が一大決意のもと穂積皇子の宮に駆け込んだ」ことを私に伝えてくる。大胆に過ぎる仮説かもしれない。が、こうでも考えないと、とてもこの歌の説明がつかない。罪の意識どころか、むしろ正義を貫いているかのごとき強い意志と行動。この解釈以外には説明できない。 その根拠は十分ある。 題詞によれば、歌は、事が露見してからの歌であるという。推測するに、引き戻された皇女は、当然、周りからの非難の言葉に晒されたであろう。すると116歌は、そうした非難に対する、彼女の回答ではなかったろうか。 「人言を繁み言痛み」は、「あんまり周りがうるさいから」の意味である。二重に言葉を繰り返したところに、「あんまり」の意味合いがある。 「己が世に未だ渡らぬ朝川渡る」とは、何か他人事のような言い方である。ここに「止むに止まれず、自分だって渡ったことのない朝川を渡る」の感じが含まれる。「我が世」でなく「己が世」であり、「渡る」であって、「渡りき」や「渡らむ」でないのは、自分の意思というよりは、「(止むに止まれず誰だって)自然にそうなる」の意味で、ここに皇女の言い分が込められている、と考えなければならない。 この歌は、言わば口語的「回答歌」ではなかったろうか。周りから煩く非難されたあげくの。だから、口語訳すると、「(あなたたちが)あんまりうるさいからよ、(だからきっとその人は、)自分だって渡った事のない朝川を渡ったんでしょ(止むに止まれずに決行したんでしょ)」とまあ、すこし乱暴な謂い方になるが、こんな意味になるのではなかろうか。 皇女は「それもこれもあなた達のせいよ!」と訴えたかったのであろう。この歌だけを見れば、窮した上での、他者に責任転嫁する、若者特有の自己中心的な物言いである、が裏を返せば、世の中への(大人たちへの)不満、不信に溢れた言葉ともとれる。彼女にとっては、そうした不条理な大人たちこそが責められてしかるべきとの思いだったのであろう。何故だろうか?やはり、皇女には何か名分があったのではなかろうか?経緯を遡って検証してみる必要がありそうである。 ところで、注目するべきは、この116歌における、皇女の証言である。皇女は、ここでは、「人言を繁み言痛み→朝河渡る」と言っている。すると、「言痛み」は、当初からすでに存在していたと解釈しなければ辻褄が合わない。ならば、第一歌の「言痛み有りとも」は、(「仮定」ではなく、)「既定」であると考えるべきである。114歌:「穂積の宮の皇子と、一緒に添いたいものだ。たとえどんなに世間の噂があるとしても(気にしないで、その障害を乗り越えて)」 <事件の真相の推理> 114歌:「秋の田の穂向の寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも」 もし真相の仮説を立てるとすれば、「恋の成り立ち」、「言痛みの原因」、「密会の経緯」等を整合良く説明できるものでなければならないだろう。私は、事件の発端は、皇女が高市皇子の宮に入居してからのことではなく、それ以前に起因があると憶測する。それは、自分はやましいことをしていないとの皇女の主張を歌に読み取るからである。但馬皇女の、高市皇子への宮入の頃の状況を調べてみる必要がありそうである。日本書紀から、関係する記事ピックアップすると、年賦は次のようになる。 年賦: 686年天武天皇、689年4月皇太子草壁皇子と、皇室に一連の不幸が続いて、皇族は一様に喪に服さなければならなかった。喪が明けたのは、690年も後半になってからであったと推測される。内々には、すでにいろいろ動きはあったのかもしれないが、それまで延び延びになっていた皇族たちの婚姻が、この時一斉に解禁されたと考えるのである。 恐らく、持統天皇の前には、この時を待っていた皇族の結婚裁可願いが何通も積まれていたのではなかろうか。上記の年賦から推算すると、690年当時、但馬皇女17歳ぐらい。穂積皇子、高市皇子はそれぞれ23歳、38歳ごろである。 当時皇族の結婚は、皇族同士のごく狭い範囲に限られていた。だから逆に、その組み合わせは誰の目にも明らかだったであろう。今こうしてみても、穂積皇子と但馬皇女の結婚は、むしろ良縁のように見える。当時の結婚年齢から言えば、穂積皇子は少し遅いように思えるが、喪中であってみれば止むを得なかったし、穿って考えれば但馬の成長を待っていたと考えられないでもない。 当然それを見越して、内々には先行する独自の動きがあったことが予想できる。思うに、二人はすでに噂にもなり(だから「言痛み」は当初からあった可能性がある)、共に意識し会い、結婚を期待し合う仲だったのではなかろうか。若い者同士である。もしかしたらすでに密かな交際も始まっていたかも知れない。(※後注2:但馬皇女と穂積皇子の出会いの可能性) 二人の結婚を妨げる理由は特に無かったと思われる。持統天皇は、どういうわけか、血筋の繋がりからか(母系が同じ蘇我氏の出身の)穂積皇子に目をかけていたから、本人の希望には応えてやりたいと思っていたことだろう。 ところが、ここに重大な障害が生じた(と私は見る)。横槍が入ったのである。但馬皇女との結婚を求める申請書の中に、もう一通、高市皇子のそれがあったのである(と)。高市皇子は当時38歳頃か(皇女とは20歳以上は違う)、すでに御名部皇女というれっきとした妻がいたが(長屋王、鈴鹿王の子息がいた)、若くて新しい第二の妃を求めていた。そして、但馬皇女に白矢をあてたのである。 高市皇子は若い二人の噂を知らなかったのであろうか?(だから、二人の噂は、この時高市皇子に思い止まらせるように誰かが流した、と穿って考えられもする。もっとも後には、それが逆に皇女の身を縛る足かせになってしまうのであるが、)わからない。皇子は分別盛りの年齢である。むしろ、求婚は何らかの政治的要請の結果と考えるべきかも知れない。例えば藤原氏との関係を強化するための。皇女は、藤原鎌足の娘(氷上娘)を母としていた。(十市皇女の時といい、高市皇子はよく言えば一途、悪く言えば無頓着なところがあったか?) もし、高市皇子の強い要望があったとすれば、持統天皇といえども、無視するわけには行かなかったろう。当時皇子の協力を最も必要としていた時期であった。何といっても、皇子は壬申の乱の最大功績者であり、一定の武力をも保持していた。また、政府、国家の柱石(太政大臣)として、これからの政権運営に協力を依頼しなければならない存在でもあった。皇子を敵に回すことは、国政の運営どころか王朝の転覆にも繋がりかねない。 とすれば、但馬皇女は政略の犠牲者ということになる。但馬皇女の絶望と悲しみは想像にあまりある。さぞ自分の運命を呪い、それを強いた世と大人達を恨んだことであろう。そして、それに比例するかのように、仲を引き裂かれた穂積皇子への想いは募るばかりであった(114歌)。 歌には秋の稲穂が読み込まれている。すると作詠は、690年の秋か?(遅くても翌年秋)114歌は、恐らく、高市皇子の宮入りを果たしてからそれ程間を置いていない時期に作られた歌ではなかったろうか。高市皇子もすぐ事情を解したはずである。皇女の気持ちは自分にはないと。だが、行きがかりとプライド上離別はできなかった。 思慕止みがたい皇女は、遂に、自分の思い(「114歌の想い」)を大胆にも決行するに至った。ある日の未明、信頼の置ける1,2名のお付の者を案内に、密かに高市の宮を抜け出したのである。恐らく、夜も白々明ける頃には、小さな川を幾つか徒歩渡りしたことであろう。しかしそれは、皇女にとっては希望に溢れた光景であり、新しい未来と幸福とを祝福しているように見えたに違いない。そして、穂積皇子の宮に駆け込んだのであると。 手引きし、どこかで落ち合うような、或いは男が密かに訪問するような、本来の密会であれば、相手の穂積皇子の処罰は免れない。それがそうなっていないのは、あくまでも事が皇女の独断による行動であったから、と考えなければならない。 突然消えた皇女に、高市皇子の宮では大騒ぎになっただろう。しかし、それはすぐわかる事だ、発見されて引き戻されてしまった。ところが、周りから強く非難され、追求された皇女は、こともあろうに、否定したり反省の色を見せるどころか、昂然と言い放った(116歌)。痛快と言えば痛快ですな。彼女の言い分からすれば、よっぽど大人たちのやり方や世間に腹をすえかねていたのであろう。 ここまで居直られると、周りは辟易したのではなかろうか。何せ相手は高貴な身分の女性なのだ。手が付けられないと思っただろう。それに事情を鑑みれば、十分彼女に同情の余地があった。その結果、二人の引き離し作戦に出たのである、と。 持統天皇は、穂積皇子にいいくるめ、近江の崇福寺に派遣した。実際には、それほど長期の赴任ではなかった、と私は思う。穂積が罰せられる理由は無かったからである。ただ、皇女には長期滞在を匂わせたかもしれない。なにせ、二人を引き離すことが作戦なのだから。それを聞いた皇女の悲痛の歌が、115歌である。一連の歌からは一途な皇女の声が伝わって来るではないか。 では、一方の穂積皇子の思いはどうだったのであろうか?だが、明らかにその当時作られた皇子の歌は伝えられていない。説得は恐らく皇子の方に集中したであろう。素直に説得を受け入れた(と思われる)皇子は、よく言えば周囲の情勢を理解する、分別のある男だったのであろうか?この後の二人の行く末はどうなったのであろうか? 本稿 了。 次回【名歌鑑賞 9】 (2005.03.15) ※注1:歌順と行動順について ※注2:穂積皇子と但馬皇女の出会い <参考文献> |