|
HH412041.DOC 【名歌鑑賞 9】 2005年06月15日 森 明 <万葉集巻二:85・86・87・88歌(89・90歌)> <原文> --------------------------------------------------------------- <釈文> 4首は、万葉集巻二相聞編の栄えある冒頭に掲げられた、磐姫皇后(仁徳天皇代)の歌である。古来、相聞歌中の相聞歌ともてはやされた作品であったのであろう。しかし、現代ではそのまま信じられてはいない。未だ万葉仮名が発明されていなかった、5世紀初頭の、仁徳天皇の時代の作品がこうした姿で残されるはずがない。当時は、未だ短歌の形式も定まらず、ましてや4首の連作が完全な形で伝わるとは到底考えられないというのである。 このことは、万葉集巻頭を飾る、雄略天皇の歌「こもよ、みこもよ〜」はもちろん、その次に置かれた、最も年代の近い舒明天皇の国見の歌「大和には、群山あれど〜」でさえも、まさに伝承歌謡であることからもそれは納得できるだろう。 だから、この4首の連作は、明らかに後代の仮託歌に違いない。歌の完成度から言っても、それは持統朝以降期に下り、当代の優れた、ある代作者(柿本人麻呂を含めた)による作品と考える学者が多いのである。この観点も踏まえて歌を読んでみよう。(※注1:磐姫皇后歌の代作説) <85歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系本): 第一首目、「君が行き」の「行き」は名詞的用法と言われており、「(山に)出かけてしまったこと」ここでは「君の旅」をいう。「気長く」の「気(け)」は「日数」の意味で、「日数がたってしまった」の意味である。 君(仁徳天皇)は山に行ったまま戻って来ない状態にあり、しかも音信が無い。経過した日数は不明であるが、歌の主格(磐姫皇后)は、かなり長い間、帰りを待ちあぐねているようである。山を訪問して迎えに行こうか、このまま待っていようか、の逡巡が詠われている。ただ、この場合の旅の日数は、長くてもせいぜい月単位の期間だろう。多忙の天皇が、長期に「山」に篭るとは考えられないからである。 歌は平明で、これらの訳文に特に難点は見当たらない。ただ、場面の設定といったらいいか、連作の第一首目にしては、「山」の説明が不足で、やや唐突な感じがする。これでは歌を読む者は天皇の「山行き」の事情が分明に理解できない。題詞にでももう少しその辺の説明が欲しいところである。 ところで、この歌には後注「類聚歌林云々」が施されている。この後注は代作説にとっては頭を悩ませる内容で、後世様々の解釈を生む原因になっている。が本稿では、これは後代の不要の書き込みと見なして無視することにする。矛盾が生じたらその時点で検討し直せばいい。(※注2:85歌後注を無視する理由) <86歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系本): この訳文にも特別疑問は認められない。「高山」とは、前歌の「山」のことだろう。「高山の岩根しまきて死なまし」とは「山の岩を枕にして死にたい」の意味である。つまり、「山の岩場で、行き倒れになって死んだほうがましだ」というのである。皇后の強い想いが現れている。 音信が無いと同時に、皇后ははっきり(漠然と「山」ぐらいしか)行き先を告げられていないのだろうか?歌には「逢いに行く」と言うよりは、暗に「探しに行って、野垂れ死にする」の意味合いが色濃く出ている。ただこれは、磐姫皇后の歌としては、若干違和を感じないわけには行かない。というのは、いくら夫婦間の疎通がうまくいっていないと言っても、天皇の居場所について、皇后は全く知らされていないはずがないし、調べればすぐ分かることではないのか。 それに、「死んでしまった方がましだ」とは、少々思い過ごしではないだろうか。第一歌の「気長く=せいぜい数ヶ月の旅行」と矛盾するように思えるのだ。この歌は、もう何年もほったらかしにされて、待ち疲れている状況の詠い方である。 この歌は、取り方によって意味が変わってくるように思える。「投げやりになっている」のか、「拗ねている」のかである。歌が相聞であることを考えると、歌はむしろ「拗ねている」表現と見たほうがいいかもしれない。とすれば、むしろ皇后の可愛らしさの一面ということができる。この歌は、天皇に伝えるために作られたのではないのか?それにしては、これが嫉妬深いと言われる磐姫皇后の姿なのか? <87歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系本): 「ありつつも」は「こうしたままで、居ながらに」。「うち靡く我が黒髪に霜の置くまでに」の「うち靡く、我が黒髪」とは「(こうして恋焦がれている)今は若々しい黒髪」の意味だろうか。「霜の置くまでに」は、「白髪になるまで、老いるまで」の喩えだろう。「に」は逆接で「〜それでも(待つ)」の意味である。今は若いけれども、年老いてまでもの意味である。この口ぶりからは大分待たされている感じがでているし、天皇が帰る目処も見えていない状況のようだ。 結局、皇后は、迎えに(探しに)出かけることは諦め、「待つ」方を選ぶ。しかし、その決意は尋常ではない。ずっと、いつまでも「黒髪に霜の置くまで=髪が白くなるまで=死ぬまで」待ち続けようと言うのである。 これも、86歌で感じた長期の別離を裏付けている。がここまで、思いつめなくてもいいのでは?と思ったりするが、事情がはっきりしないので何ともいいようがない。皇后は、絶望にいじけてしまったのだろうか。ここまで来ると、天皇の長期間の「山篭もり」は、(その場所すら皇后に知らせない、という故意の)苛めにも似た仕打ちということになる。 さて、私達は歌集に収められた歌を、物語風に通り一遍に読んでしまいがちである。前歌でもそうであったが、問題は、磐姫皇后がどのような目的でこの歌を作っているか、を思い遣る必要があるだろう。この歌が、日記的に、つまり自分だけのために詠われたのであれば、目的は自分の心の慰謝になる。だが、天皇の目に入るように、つまり天皇への伝達を目的として作られたとすれば、意味は反転して訴えに変わってくる。 「君をずっとお待ちましょう。たとえ黒髪に霜が下りるまでも」と、自分に言い聞かせるような、つぶやきのような独り言も、伝達であれば、「ずっとお待ちしておりますよ。でも今はまだ黒々とした私の髪が、白くなってしまいますよ。」となるだろう。そこにはまた、暗に、「私の髪はまだ黒い=まだ若い」を主張している皇后の乙女心が覗いているようにも見える。 <88歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系本): 作詠は秋なのだろう。「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞」とは美しい喩えである。ここでは、「秋の田の穂の上に立ち込めている朝霧のような(私の恋)」のような意味であろうか。「いつへの方に」は「いつになったら」。「我が恋やまむ」は「我が恋は止むのでしょうか?」の意味であるが、当然「恋が止む」のは再会して共に暮らすときであるから、ここでの意味は「何時になったら(私の)恋は成就するのでしょうか?」になる。 この歌も、単なる述懐としてならば、自己の慰謝のために作られたことになる。だが、前歌と同じように、相手天皇への伝達(相聞=男女間のやりとり)を目的として作られたとすれば、やはり別の意味が浮かび上がってくる。 「一体何時になったら私の恋は止むのでしょうか?」→「私の恋は何時成就するのでしょか?」は→暗に「何時までお待ちすれば宜しいのでしょうか?」と先方には聞こえることになるだろう。この歌は、「何時お戻りになられるのでしょうか?」等とぶしつけに、相手に直接に問いかける形をとっていない。あくまでも、女性的でつつましく婉曲的な言い回しになっている。 これがあの嫉妬深いと言われる磐姫皇后の歌なのであろうか?嫉妬というのは、一種の怒りの感情に近い外向的なものである。がこの連作歌は、そうした心情とは対極にある。女性的で、弱々しく、あくまでもしとやかであり、それでいて相手を魅力の淵に引き込むようなこ惑的な力がある。この磐姫皇后歌は、極めて高度な相聞文化の下で創作された作品と結論付けることができるだろう。 <磐姫皇后歌としての矛盾> 仁徳代は倭の五王の時代である。有名な武の上表文に見られるように漢字は使われていたかもしれないが、公用の漢文としてであったろう。だが、漢文では日本語を原語とする歌謡を表記できない。結局、それら(神事の祝詞や演劇に付帯する口謡)は、口伝によって代々伝承されて来たと考えられる。しかし、当時の歌謡は、様々な形態を有しており、流動的で短歌形式はその一つに過ぎなかった。そんな時代に、完成された見事な4首連作の抒情作品が創作され、伝承されることは有り得ない。 仮託説(代作説): ただ代作者が、持統朝以降の、とある練達の歌人であったとして、当時磐姫についてそれほど多くの情報を持ち合わせていたとはとても思えない。磐姫と仁徳天皇の時代は、それから数百年以上も遡る、はるか伝承の大昔であった。(現代でいえば、江戸時代に相当する昔。それも殆ど記録も無い状態で) だから、代作者がその過程で一定の脚色を施す可能性は十分あり得る。が、全く異なった人物像として描くのは、代作(仮託)というよりはむしろ創作に近い行為だろう。しかし、私には、この仮託説には問題があると思えてならない。その理由は、作品に磐姫物語としての不自然を感じるからである。 それは次のような不審に現れている。 2)代作者は、磐姫皇后像を、伝承とは異なる、全く新しい人間像(女性的で、しとやかな人物)として創造したかったとも考えられる。だが、決定的に問題なのは、肝心な冒頭歌を、時代の下る、しかも誰にでもそれと分かる、軽皇女の歌(90歌)を元歌とする禁忌を犯している。新規の人間像の創作には、やはり新規の創作で応じるべきだろう。 3)歌の内容から言っても不審である。一般に、88歌における恋の成就とは、結婚を意味している。「我が恋止まむ」の深い嘆きは、恋が成就していない恋愛情態を示している。すでに夫婦であり、子(履中、反正、允恭各天皇)までなしている間柄には普通は成り立たない表現である。それに、どうして、これほどまで思いつめなければならないのか? 4)普通に考えても、天皇が長期に山に篭もって帰らない事態を想定できない。皇后である以上、天皇の居場所やスケジュールを知ろうと思えば容易に知りえたはずである。また誰憚ることなく、山に行けばいいわけだし、第一音信不通であるはずがない。それを「山尋ね」(85歌)「山根しまける」(86歌)「黒髪が白くなるまで待つ」(87歌)「我が恋止まむ」(88歌)等の詠いかたをするのは不可解である。 5)連作としての状況説明が不足している。唐突な「山」(85歌)の出現。「秋の田の」(88歌)の喩えなど。歌は極めて平明なのに。 流用説: <磐姫皇后歌の真の作者> がヒントは作品にある。この連作が人の心を打つのは、作詠の技術もそうだが、その切実さにある。これらの作品が、代作のような想像の世界で成された、架空の創作歌ではなく、実際の痛切な別離の悲恋を体験したもののみが創り得る作品、と仮定してみたらどうなるだろう? まあ、そうした悲恋は、誰もが経験する付き物と言われればそれまでだが、そうした観点から、上記の候補者を改めて眺めてみたら、もう、皆さんはすでにお気付きだろう。先ず真っ先に、思い至るのは但馬皇女ではなかろうか。相愛の二人は再会もそこそこに、穂積皇子は志賀山寺行きを命ぜられ、再び仲を引き裂かれてしまっていた。 一連の但馬皇女の歌と並べてみるのが分かり易いだろう。 何と、驚いたことに、見事に繋がるではないか。85歌の、連作の第一首めにしては、不審であった「君が行き」「山」の問題もこのように連結して見ると、115歌の「穂積皇子の志賀山寺行き」を指していることになり、自然に意味が通じてくる。88歌の不思議であった、「秋の田〜」も、冒頭の114歌を見たまえ。同じ「秋の田の〜」で始まっているのを見れば、「穂積皇子への思慕」として首肯できる。 たとえ分割され、ばらばらにされた文書も、割印や意味の合致によってその接続が確認できるように、二つの連作群は、歌の構造からくる一致だけでなく、歌意の上でも寸分の狂いも無く繋がっている。磐姫皇后歌に感じた、多くの違和は完全に払拭され、歌の一語一句が、ここですよとばかりに息づいてさえいるようだ。 85歌の「気長く」は相当の日数、いや年数を意味しているだろう。皇女の逡巡も、「磐根し巻きて死にたい」も、「霜の置くまで待とう」の意味も、「我が恋止まむ」の深いため息も全てが妥当性をもって読む者の心を打ってくる。磐姫皇后歌は、実は但馬皇女作歌である。その証明としては、この一致こそが決定的な証拠と言わなければならないだろう。 別な観点からも裏付けられる。皇女は、古歌をもじって詠っている。その古歌とは、恋人を居明かして待つ89歌であり、軽皇女(衣通姫)と軽太子との恋愛物語に係る90歌である。皇女は、明らかに、自分の境涯を、古事記の軽皇女−軽太子の悲恋物語に擬えている。もちろん、当時古事記はまだ編纂されてはいなかったかも知れない、が同様の古物語はすでに衆知だったと考えなければならない。(※注3:89歌について)(※注4:90歌について) 問題は、では一体、皇女は何時ごろ、何の目的でこれらの歌を作ったのであろうか?そしてそれが、何故に磐姫皇后歌に化けてしまったのだろうか?という疑問だろう。この疑問は、前半部3首と後半部4首の間に、どれほどの歳月が隔たっているか(つまり、作詠が穂積皇子と別れてからどれほどの年月を経ってからか)との問いでもある。 <磐姫皇后歌(実は但馬皇女歌)の作詠時期と目的> 年賦: 歌では、皇女は「迎えに行こうか」と逡巡している。少なくともこれは、自らを束縛する障害が取り除かれたとの自己認識から来る発言、と考えるのが素直である。もし全く不可能な状態であれば、こんな詠いかたは出来ないはずだ。年賦から見た限り、それに該当する、皇女の身の回りの重大事といえば、696年7月における、夫の高市皇子の薨去である。思うに、そのとき自由のチャンスが訪れたとの自覚と関係がないだろうか? もちろん、高市皇子は不仲とはいえ正規の夫だ。死直後の歌とは思えない。当時の喪は「葬祭令」によって、夫婦の場合は、1年であった。とすると、歌中の「秋の田」の詠みぶりからして翌年、697年の秋の作詠が妥当な時期として浮かび上がって来る。そのときの僅かな希望が皇女に歌を詠ましめたのであると。 問題はその令がそのまま適用されたかどうかだ。高貴の身分の場合は(十市皇女の例でも)6年の喪が必要であった。高市皇子は、死後あるいは死の直前、皇太子に順ずる尊号を追贈されている。とすれば、更に5年、喪明けは702年(皇女28歳頃)に下ることになる。しかし、その年の暮れには、持統上皇の薨去に伴う喪が再び発生したから、実際の喪明けは更に下って704年になってしまったかもしれない。 だから皇女の切なる願いを鑑みれば、私は、作詠は697年の秋と考えたい。しかし結局、喪の短縮は許されなかった(ようだ)。周囲の反対があったかもしれない(勅勘を蒙り、当局の監視下にあった可能性もある)。あるいは、高市皇子宮家(皇子は亡くなったが宮家は存続)の反発もあったかもしれない。だが結果論になるが、もし再会できるとしたら、この時が最後のチャンスだったかもしれない。(※注5:但馬皇女の病気?) さて、この連作が697年に作られたと仮定して、皇女は、なぜこうした歌を詠ったのであろうか?少なくとも皇女は、座の遊芸や娯楽あるいはその提供、文学のために作ったのではないだろう。偏に自分の慰謝のため、いや、真の目的は、自分の気持ちを穂積皇子に伝えたかったのではなかろうか。 この連作は、何らの難解なところはなく、皇女の皇子を慕う心情に溢れている。白髪になるまで待つ。真意ではあっても本音ではあるまい。皇女は、本当はそうなる前に迎えに来て欲しいのだ。私はやはり、皇女は穂積皇子の耳に入るように、想いを歌に託した、と考える。 改めて、連作が但馬皇女の穂積皇子への音信であったとして読み直してみよう。すると、今まで気付かなかった意味(仕掛け)が、そこかしこから浮上してくる。86歌の「磐根しまきて死云々」は、「もう待てません」の叫びだろう。87歌の真意は、やはり「今はまだ若いですよ、けれどもこのままでは白髪になってしまいます。いいのですか?」の訴えだろう。 88歌の、「(貴方への)私の恋は何時になったら想い止むのでしょうか?」とは、「この恋は何時になったら成就するのでしょうか?」→「何時までお待ちすれば宜しいのでしょうか?」の遠まわしの質問と考えなければならない。もしかしたら、あの別離の時に、穂積皇子は「必ず還って来る、待ってろ」と、悲しむ皇女に約束したのかもしれないのだ。 もう一度連作を、相聞歌として味わって欲しい。4首には皇女の全身全霊、いや今生の想いが込められている。この連作は相聞の極致とも言うべき作品ではなかろうか。身震いするほどの恐ろしい歌と言っていいかもしれない。それとなく詠っているようで、相手に強く行動を促す魔力を秘めている。 と、これまでやや便宜的に、私は、作詠の時期を、高市皇子の死と結びつけて憶測してきた。それは、この作品を男女の相聞の歌と判断したからである。ただ、それは時の為政者に同調した考え方だったかもしれない。 誤りではないだろう。しかし一体、皇女にそんなやりとりを楽しむ余裕があったのだろうか?と。見方を変えれば、(地の底から響くような、)思いつめた嘆きの深さや、やがて鬱の深淵へと落ち込みかねない精神の危うさを、もし歌から感じ取れるとすれば、もっと違うところ、例えば、自らの心身の限界の自覚とその危機意識にこそ、皇女の作詠の根拠を置かなければならないのかもしれない。 こうして、あれこれ類推を重ねて行くと、私には、この連作は、やはり穂積皇子あての、救いを求める皇女の切なる伝信であった、との思いが次第に強まってくる。問題は、この訴えが無事皇子に届いたかどうかだ。小説的にはいろいろと推理が可能なところではある。 だが結局、この歌は、穂積皇子には伝えられなかったのだと、私は推測する。つまり没収の憂目にあったのだと想像を逞しくするのである。作者名を削られ、闇から闇へと葬られてしまったのだと。これを読んだ穂積皇子が、事件をぶり返すことを恐れた当事者の判断によって…。単なる空想に過ぎないかもしれない。だが、これまでの事情と経過に鑑みれば、あながち荒唐無稽の夢想ともいえないのではなかろうか。 <但馬皇女の悲劇> 恐らく、不憫とは思ったであろうが、これを許せばあるいは優遇すれば、第二第三の但馬皇女が現れてくる。時に、宮廷では禁断の恋愛沙汰による不祥事件が多発しており、その取締りに苦慮していた事情も加わっていたかもしれない。持統朝のスタートにあたる大切な時期でもあった。見せしめの意味もあって、厳しく処断されたと考えなければならないだろう。(※注6:「竊(ひそ)かに接(あ)ひ」の意味) 現代であれば、そぐわぬ結婚を強いられた皇女が、断固自らの意思を貫いた行為は賞賛されこそすれ非難されないであろう。また、駆け落ちしてでも、自分達二人の生活を築く方法はいくらでも開拓できるであろう。しかし、時代は違っていた。手に手を取って二人の生活を目指すには、社会もあるいは本人達もあまりにも未熟であった。時代は、ようやくそれよりは一歩進んだ律令社会に入ろうとする寸前であった。 二人の願望を叶える手段が何かあっただろうか?例えば、全てを捨てて山野にでも入り込むか?いや、それも許されなかったであろう。探し出されて見せしめにされるだけだ。第一、二人だけの自給生活など到底不可能な時代であった。やはり当時は、自分達を支配している者への配慮、了解の確保が不可欠であり、彼等を協力者に転換する工夫が唯一の道だったかもしれない。 事は公然のスキャンダルになってしまった。建前を全面に立てなければならなくなってしまった。そのことが、あるいは僅かにでも有ったかもしれない再会の可能性を摘んでしまったと思われる。これほど大げさに為らなければ、そこは、古代といえども人間の社会だ、こっそり内々に関係者の了解を得ながら、実質的な結婚に持っていけたかもしれない。 だから、結局説得を受け入れた(ざるを得なかった)穂積皇子の立場もあながち責めるわけにはいかないだろう。一見、穂積皇子は何もせず手をこまねいていたように見える。しかし、二人しての滅亡を避けるためには、勅命を受けざるを得なかったし、時を待たなければならなかった。その苦衷の選択をも察してやらなければならないだろう。(※注7:軍防令について) <歌集への収録> 歌集に残されるということは、言わば文化の伝承である。ましてや勅撰(万葉集は勅撰集とされていないが、ある時代まではそうであった可能性が高い)ともなれば、そこには社会現実を反映した、何らかの推奨精神、規範的思想が期待されるのは当然である。律令とは異なる倫理的模範とでも言おうか、大衆的な修養、徳目の習得が目指されることになる。歌集への収録は言わば当時の教科書への採用と考えるべきではないだろうか。 そうした観点から、改めて作品を眺めてみると、(但馬皇女の)この4首は、まさに「耐え」「忍ぶ」恋であることが分かる。これが当時の為政者の求める、(女性の)恋愛の姿であったのだろう。しかも、この歌に磐姫皇后の名が冠せられたところに、編集者の教育的意図を強く感じとれる。「嫉妬深い磐姫は、実は、夫想いのしとやかな妻であった」つまり、貞女に仕上げることによって、貞淑や忍耐を美徳とする女性範例と化したのである。そして、この連作歌はぴったりとその要求を満たしていた。 しかし、ここに重大な問題が残る。この4首だけが切り離されて置かれてしまったために、「忍ぶ恋」「耐える恋」だけが美徳として推奨されることになってしまった。だがこれだけでは、出口の無い孤立と閉塞と退嬰美に陥ってしまうだろう。真実は異なる。あくまでも、この連作は伝達、交流の言葉として発せられたのだ。「〜もう待てません」「〜黒髪が白髪になってしまいますよ?」、「〜私の恋はいつ成就するのでしょう(か?)」と、外部に伝えようとする言葉(相聞の一つの形態)として歌が綴られていることを忘れてはならない。 歌の歌集への収録の時期は何時だろうか?やはり、相当早い時期と考えなければならない。恐らく、同時代の、全てを知っている者によって為されたと私は思量する。もちろん、それを断定できる明確な証拠は存在しない。ただ、それを想像させるヒントを幾つか集中には見出すことができる。227歌の後注から、古い段階に「(万葉)古本」なるものの存在していたことが知られている。恐らく、この時点で、すでにその収録は済んでいただろうと私は推測している。(※注8:磐姫皇后歌としての収録が古本に遡ることの証拠) 改めて、現代の立場から、但馬皇女の前半3首と後半4首の歌を見てみよう。まさに対称的、前半の3首は、直接、外向、行動、陽の歌であり、後半の4首は間接、内向、嘆き、陰あるいは促し、問いかけの歌である。自力による境涯の打開が求められる現代にあっては、むしろ前者の3首こそが時代に相応しい歌かもしれない。 がしかし、私が4首に強い魅力を感じるのは自分が男性性の故だろうか?かってはがむしゃらだったお転婆娘も、年月を経てしっとりとした大人の女性に変身している。やはり、この七首はまとまって存在してこそ、強さと弱さ(本当は別の強靭さ)を兼ね備えた、変化自在の女性性の文化、相聞歌中の相聞歌として永久に光り輝き続けるように思える。 但馬皇女こそ草葉の陰で驚いているかもしれない。四面楚歌の中で、自らの恋を貫こうとした自分、あらゆる障害を乗り越えて恋する人のもとに走った自分、そして一転、乾坤の想いを歌に託して伝えようとした自分。逆にその故にか、あれほど時の権力者に忌避され、全ての企てを妨げられ、事毎に否定され続けた自分が、こともあろうに、在るべき相聞の手本、鏡として後代に喧伝されているのだから。 本稿 了。 次回【名歌鑑賞10】 (2005.06.15.M.A.) ※注1:磐姫歌群の代作説 ※注2:85歌後注を無視する理由 しかし、原文の最後に「焉」が付いていることに着目して欲しい。「焉」は句末に用いる助字で、疑問、断定、語調を整える等の各様の用法がある。すると、ここは断定ではなく、疑問の助詞「焉(か?)」の意味ととり、「右の一首、山上憶良臣の類聚歌林に載るか?」と読むことも可能になる。後者とすれば、この後注を根拠にしての、多くの推論は無意味ということになるだろう。 ※注3:89歌について 訳文1(新日本古典文学大系本): 歌は平明であり難しくない。時は秋であろうか。一夜、恋人を待ち明かす女性の苦しい心情が詠まれている。この歌の、下二句の「吾黒髪尓 霜者零騰文」は、「白髪になる」の意味ではなく、文字通り「(明け方の)霜が降りるまで」の意味である。初句の「居明而」「居明かして」つまり「夜が明けるまで待って」の句からそれが読み取れる。 この歌で思い出すのは、大伯皇女の105歌「わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし」、大津皇子の107歌「あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに」等の歌である。霜と露の違いはあるが、夜明かしで「待つ」の意味では類似している。すると、この古歌集なるものは、当時の頒布の教養本であった可能性がある。 だから、但馬皇女も作詠の参考としたことは十分に予測できる。ただ、それらが、いずれも一夜の待ちで共通しているのに対し、87歌は、明らかに「霜」=「白髪」の喩えに使われており、一夜どころか一生の「待ち」に変わっている。概念が一層切実な想いの歌になっており、ここに但馬皇女の工夫がある。 この89歌は、最初から、つまり磐姫皇后歌(群として)の古本収録と同時に、類歌として併記されていた可能性がある。題詞「或る本曰く」の書き方が、それと違和の無い書き方だからである。ただ、後注は、後代の書き込みと考えるべきだろう。最初からの記載だったらば、当然、題詞に「古歌集曰く」と書くはずである。 ※注4:90歌について 訳文1(新日本古典文学大系本): 古事記によれば、軽太娘子(衣通姫、允恭天皇皇女)が同母兄の木梨軽太子(允恭天皇皇子)と密通し、それ故に太子が伊予に流されたとき、帰りを待ちあぐねて作った歌だという。 「山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待」 とは、どういう意味だろう?定訓では「山多豆乃(やまたづの)」は「迎え」の枕詞と考えられているようだ。 この、定訓の訳文の妥当性について私はよく分からない。「山多豆乃(やまたづの)迎え」なるもののイメージが湧かないからである。私は、どちらかといえば、何かお呪いか術祖、神事の儀式のように受け取るのだが…?そして、「迎乎将徃」「迎えを往(ゆ)かむ」の「往(ゆ)かむ」は、「出かけて行く」の「行く」では無く、補助動詞で「〜し続ける」の意味に解釈するべきと考える。 歌意「君の旅は久しくなります。やまたづの迎え(の儀式)を続けよう。ただ待っているばかりでなく」 明らかに、但馬皇女は、この90歌を元歌に85歌を作っている。考えてみれば、軽皇女−軽太子恋愛事件の故事は、まさに自分達の恋愛の先例として思えたことだろう。 問題は、90歌の題詞にある。題詞によれば、古事記からこの歌を転載した、とある。古事記は712年の成立である。すると、この90歌の集への追加は、712年以後のこととなる。とすれば、最初には(古本の段階では)この歌は、ここに存在していなかったことを示唆している。 ここで一つの宿題が生じる。同じ類歌にも係わらず、89歌は最初から古本に置かれていた(可能性高い)のに、この肝心ともいえる90歌が、何故最初には置かれなかったか?の疑問である。不審である。 ※注5:但馬皇女の病気説? ※注6:「竊かに接ひ」の意味 もし、この但馬皇女出奔事件が史実であるとすれば、推測するに持統四年(690年)9月13日〜24日の紀伊行幸時がチャンスではなかったか?もしかしたら、高市皇子もこの行幸に供奉して留守していたのかもしれない。「竊(ひそ)かに接(あ)ひ」の所以である。とすれば、行幸途上で事件の報告を受け、帰京して穂積皇子に志賀山行きの勅命を下したのであろうか。持統朝は始まったばかりであり、綱紀を揺るがせるわけには行かなかった。 (この時の紀伊行幸は、他例に比べて日数が極めて短いのが特徴である。恐らく、定番の岩代−むろ湯までは行かなかったのではなかろうか。もともとの予定だったのか、それとも予定を短縮して引き返したのか。) 不思議なことに翌691年の正月、高市皇子と穂積皇子は二人揃って加増を受けている。高市皇子は前年の太政大臣拝命によると思われるが、穂積皇子は何の故であろうか?文献的には、この志賀山寺行きの恩賞としか考えられないのだが。 ※注7:軍防令について ※注8:磐姫皇后歌としての収録が古い時期に遡ることの証拠 つまり、柿本人麻呂は自作品に、そろいも揃って、三皇后の相聞歌、挽歌を流用している。このことは、少なくとも701年代には、三皇后の歌が現在の形で存在していたことを推測させるのである。しかも、227歌後注には、当時、「古本」なるもの存在が示唆されている。とすれば、当然その「古本」には、すでに磐姫皇后歌が存在していた蓋然性が高い。 2)また、万葉集には、この磐姫皇后歌と類似した構成の、弓削皇子の四首連作(119〜122歌)が収録されている。弓削皇子は699年(文武3年)7月の薨去であるから、少なくともその以前に作詠された歌に違いない。とすれば、その時すでに磐姫皇后歌が存在しており、その触発の元に作られたと考えられないか。もっとも、どちらが先の作詠かの証明が必要であるが(歌意からは、磐姫歌が先行歌のように見える)、何れも早い時期の成立の証拠と見なせるだろう。 3)但馬皇女作と悟られないための、カモフラージュの形跡が認められる。 <参考書> |