HH301171.DOC 【名歌鑑賞10】 <万葉集巻二:203歌・(巻八:1513・1514歌)・(巻十六:3816歌)>森 明 <原文> -------------------------------------------------------------- <釈文> 訳文1(新日本古典文学大系本): 一首は、これまで沈黙を守ってきた穂積皇子の、但馬皇女のために詠った作品と、題詞によってはっきり分かる唯一の作歌である。「あわにな降りそ」の「あわにな」は古い語彙で「さわにな」と同義とされている。「よなばりのゐかひの岡」とは皇女が葬られている地を指していると考えられている。但馬皇女は、708年6月に亡くなっているから、歌はその年の冬の作詠であろうか。 歌は、素直な作りになっており、「ゐかいの岡」に葬られている(らしい)皇女が寒くないようにと、やさしく案じる歌となっている。題詞には皇子が「悲傷流涙」してこの歌を作ったとある。確かに、この一首の存在のお陰で、もしかしたら、(皇子のこれまでの無言から)皇女の一方的な片思いに過ぎなかったのではないか、とさえ疑われかねなかった恋愛事件が、やはり相愛の仲であったことが確かめられるのである。 そう、一応建前はそうだ。だが、しかしだ…。とあえてこの訳文に異議を唱えたくなるのは、すでに私が二人について多くのことを知っているからである。これまでの経緯の結論を言えば、残念ながら、二人が再会を果たし、めでたく結婚した形跡が全く見当たらない。それどころか、皇女の渾身の四首(85〜88歌)は、どうも皇子には正式には伝えられず、他人(磐姫皇后)の歌に改竄されてしまっていた。こうした、あれこれの状況証拠を突きつけられると、どう見ても、二人は再び結ばれることが無かったと判断せざるを得ないのである。 ということは、結局皇子は皇女を迎えに行ってやれなかった(事情はともあれ、行かなかった)ことを意味している。もしそうだとすれば、この歌の解釈は少し違ってこないだろうか。そんなに言うくらいだったら、生前に、その言葉を掛けてやればよかったのに、と。まあ余計な半畳かも知れないが、傍から注文の一つも付けたくなる。 もし皇子が、現実の世界でも本当に皇女を幸せにしてやり得ていたのであれば、これはこれで、死後も変わらぬ愛情で皇女を包む名歌として燦然と輝くかもしれない。しかし、実際はそうではなかった。であるなら、死後の「寒く無いように」の同情はいかがなものか。白々しい口先だけの思いやりに聞こえてこないだろうか。私が偽善を感じる理由である。皇子はこのように詠って決して心が慰まるはずはないし、第一、口が曲がっても(ましてや悲傷泣涕して)、このようには詠えないと思うのである。 <近代の改竄> 現存する、多くの万葉集の写本のうち、殆どは「塞為巻尓」であるという。わずかに金沢本にのみ「寒為巻尓」とあるに過ぎず、しかもその金沢本ですらその訓は「せき」であるという。その由緒正しい「塞為」を、逆に「寒有」の誤字とまで断じて、「寒有巻尓(寒からまくに)とし、現在定訓にしているのは何故か? 理由は、近代人の好みとしか言いようがない。恐らく、この方が、歌意が掴みやすいのと、題詞の「悲傷流涕」に相応しい秀歌と感じるのだろう。これぞ、二人が相思相愛であった証拠であると。(※注1:「寒有巻尓(寒からまくに)」の採用) しかし、本当にそれでいいのだろうか?資料的には誰の目にも「塞為巻尓」なのに。後代の創作歌と違って、万葉歌は、作者自らの心(真)情の吐露である場合が多い(もちろん遊芸歌もあるが)。概ね、彼等の歌は、その場の、自分の必然があって詠われたものだ(この203歌もそうした一首と考えられる)。とすれば、改竄は、その真意を見失わせることになってしまうだろう。 こうした考えに立つと、他にも問題が見えてくる。「〜ゐかいの岡の寒からまくに」の「岡が寒い」の表現である。現代の我々は、「岡」を皇女の擬人化ととり、それ程違和を感じないのかもしれない。が、万葉の当時はどうか?唐突に過ぎるのではないか。「岡」という無機物がこうした知覚や感情を持つとする表現は、殆ど集には類例がないのではないだろうか。このような詠いかたが許されるのは、(例えば連作等の場合で、)前段にその説明が為されているときに限られる(ていた)、と私は考える。 だいたい、降雪の多寡によって、「寒さの程度」を推し量る発想自体に、私は今ひとつ合点が行かない。藤原京(皇子の居所、708年は奈良遷都以前)と「ゐかいの岡」の地理的近さを思うならば、大雪で心配するのは、むしろ「寒さ」よりも、まずは、「足」つまり「交通」の不便か遮断だろう。 歌の、初二句、「降る雪のあわになふりそ」は、「雪よ、そんなに激しく降らないでくれないか」という呼びかけになっている。すると、この言い方から言っても、歌中の人物(=皇子)は「ゐかいの岡」に出向こうとしていた矢先だったと私は考える。ところが、あいにく雪が一段と大降りになって来てしまった。その「岡」への道が、塞がれてしまわないように心配した歌と読むのである。(※注2:「塞為巻尓」の訓) ただ問題は、これでは、皇女に対する直接的な愛情の吐露でないだけに、相聞の歌として物足りなさを感じる向きがあるかもしれない。これでは、単に自分の足を心配しているに歌に過ぎず、到底、題詞の言う「悲傷流涙」の説明がつかないと。恐らく、この判断が、「塞ぐ」を捨て、先の「寒く」を選ばせる真意なのだろう。しかし本当にそうだろうか?もう一度二人の事件をおさらいしてみよう。 <「悲傷流涙」の真実> ところが、それから6年後(696年)、たまたま夫の高市皇子が薨じた。推定皇女が22歳、皇子29歳の時である。翌697年の秋であったあろうか、これによって、再会の扉が開かれたと感じた但馬皇女は、思い出したように穂積皇子を思慕する四首の歌を詠んだ(85歌〜88歌)。 だが、それは未だ時期尚早であった。高市皇子には皇太子の尊号が追贈され、それによって、さらに5年の喪に服さなければならなくなったのである。とすれば、実際の喪明けは702年に下ることになる。ところが、その702年末にはまたまた持統上皇が薨じているから、喪はさらに続き、晴れて自由になったのは、704年になってしまったかもしれない。皇女30歳、皇子37歳の時である。 704年、ようやく喪も明けた今、だれ憚ることなく皇子は皇女に会いに行けたはずである。しかし、その証拠はない。別離から十数年、愛情は失われてしまったのだろうか?わからない。ただ、穂積皇子が独身を続けていたことを考えると、やはり皇子の愛情に変わりはなかった、と私は信じたい。結局、新たな何かの妨げが生じたと考えるのが自然であろう。一つに皇女の病気説がある。何れにしても、二人は再び結ばれることなく、孤独と失意のうちに、皇女は708年ひっそりとこの世を去ってしまった。 二人は、輝かしい幸福に包まれるはずであった。だが、まるで運命の女神に妬まれたかのように、事毎に、それは妨げられ、無残にも引き裂かれた人生を送らなければならなかった。そして今漸く、皮肉にも皇女の死によって、誰に憚ることのない、逢瀬のチャンスが到来した。にも関わらず、またしてもそれを妨害するかのように雪が降り始めるではないか。 穂積皇子としては、自分なりに精一杯努力したつもりだったろう。但馬皇女が高市宮から逃れてきたとき、温かく迎え入れた。もしもあの時、高市皇子が皇女を連れ戻そうと無理にでも攻めてきたら、死を賭してでも戦っただろう。 しかし、持統天皇から、滋賀山行きの勅命を受けたとき、天皇に叛くわけには行かなかった。それに逆らえば、朝敵の名の下、二人して討滅せられるのは必定である。犬死が目的ではなかった。できれば、天下公認の下、共に暮らしたかった。それには、まず勅命を奉じておかなければならない。 恐らく天皇を味方とするためにも、皇子は任務の遂行に勤しんだと考えられる。将来の可能性に賭けたその判断に誤りは無かった筈だと。だが、仕事を成就したとき再会は許されなかった。機会を待つように説得され、受け入れざるを得なかったと考えられる。そしてその後、遂に逢う瀬のチャンスが訪れることはなかった。 そして今また、雪が再会を阻もうとしている。どこまで天は邪魔するのか!この歌には、自分(達)の不運に対する皇子の万感の思いが込められている。同時にまた、たとえどんな已むざる事情があったにせよ、男として、何が何でも、万難を排してまでも、皇女を強く掴み取ってやれなかった、自分への、忸怩たる慙愧と悔恨と悲痛の嘆きを、私はこの歌に読み取りたい。その痛恨の思いこそが、題詞に言う「悲傷流涙」の意味に違いないと。 203歌:「降る雪のあわになふりそよなばりのゐかひの岡の塞(せき)なせまくに」 とすれば、この歌の存在こそが、逆に二人の悲恋を如実に物語っていると言えるだろう。万葉集には、穂積皇子の歌は、この歌を含めて全部で4首納められている。殆どはやはり但馬皇女に係わる歌と解されている。が、それとはっきり題詞に記載されているのはこの一首のみである。(※注3:穂積皇子のその他の歌) 本稿 了。 次回【名歌鑑賞11】 ※注1:「寒有巻尓(寒からまくに)」の採用 ※注2:「塞為巻尓」の訓 ※注3:穂積皇子のその他の歌 <巻八・1513歌> 訳文1(新日本古典文学大系本): この歌は変わった歌だ。三つの文節で構成されている。つまり(1)「今朝の朝明雁が音聞きつ」(2)「春日山もみちにけらし」(3)「我が心痛し」である。それぞれが、独立した文を成しており、一見意味上の繋がりが無いように見える。尤も、それぞれの文節の「聞きつ」、「けらし」の推量、「痛し」の主格は、作者の穂積皇子自身であるということでは一貫している。 この三つの文節は、どんな意味で繋がっているのだろうか?それを掴むことが歌の解釈と言うことになる。(3)の「我が心痛し」は問題ないだろう。言葉どおり皇子が心を痛めている様子が詠われている。歌は、皇子に「心痛」をもたらした何かが、寓意によって表現されていると考えなければならない。となると、どうしても但馬皇女との関係で読み解きたくなる。 (2)「春日山もみちにけらし」とはどんな意味か?「春日山」と言えば、普通は、奈良郊外の春日山である。地図で確認して欲しいが、ここは、京都、大津方面に通ずる奈良街道と、藤原京(飛鳥京)に到る三道(下つ、中つ、上つ道)との合流点に位置する交通の要衝になっている。もしかしたら、再会の可能性を信じた皇女は、高市皇子の没後(穂積皇子を待つ一心で)この場所に一時期住んだのかもしれない。とすれば、「春日山」とは但馬皇女(の住処)のことであり、「もみちにけらし」とは、例えば、再会を待望して華やいでいる様子の喩えと読むことができる。 問題は、(1)「今朝之旦開 鴈之鳴聞都」「今朝の朝明雁が音聞きつ」の読みである。「今朝之旦開」は、現在は「今朝の朝明(あさ)け」と訓ぜられている。言葉が重複している印象は拭えないが、強調で「今日の暁に」の意味か。ただ「雁が鳴く」のは普通は夕刻である。すると「朝明けの、雁の音」の「音(ね)」には、単なる「鳴き声」ではない、「音信(便り、知らせ)」のような意味が込められていると考えるべきだろう。(中国では手紙を雁書、雁信ともいう) では「雁の〜」とは一体どんな「便り」なのか?一般には「雁の鳴き声」は、「悲痛の声」とされている。すると、少なくとも朗報でないことは確かだろう。「雁の音」とは、「意図しない悲しい知らせ」とでも捉えられようか。当然二人に係わる「悲しい知らせ」とは、「結婚の不許可の知らせ」である。もしかしたら、「雁」には、「離(か)る」の言葉が掛けられていると読むべきなのかもしれないが読み過ぎか。歌は連作になっている。次歌も読んで照合してみる必要があるだろう。 歌意「今朝の朝方、雁の音(悲しい便り=不許可の便り)を聞いた。春日山はすっかり紅葉になっているようだ(皇女はすっかりその気になっているようだ)。私の心は痛む。」 <巻八・1514歌> 訳文1(新日本古典文学大系本): 単なる季節の移り変わりを詠っているように見える。がこれは寓意の歌と考えるべきだろう。一般的には、「花が咲く」=「結婚あるいは誕生、成功」。「花が散る」=「死ないしは別離、挫折」の喩えである。「咲きぬべからし」とは、「咲くはずだ」「(当然)咲いてしかるべきだ」の確信の推量になる。 問題は「我がやどの」をどう捉えるか?である。ここは、句切れの取り方で、二つの読み方が可能なところ。(A)2句切れで「秋萩は咲きぬべからし、我がやどの浅茅が花の散り去く見れば」(=定訓の読み)なのか(B)3句切れで「秋萩は咲きぬべからし我がやどの、浅茅が花の散り去く見れば」なのかである。つまり「我が宿の花」はどちらの花なのか、によって歌の意味が変わってくる。 定訓の解釈のように、(尤もこれが普通の読み方ではあるが、)(A)の読みかたの場合、「我が宿の浅茅が花が散り去く」とは一体何を指すのか(何の喩えか)意味不明になる。というよりも、歌は寓意に乏しい平凡な季節歌になってしまう。 一方、(B)のように3句切れ読めば、俄然、隠された意味が浮かび上がってくる。歌を事件に絡めて読むならば、「浅茅が花の散り去く」とは、「散り逝く」で高市皇子薨去の喩えであり、「我が宿の秋萩は咲くはずだ」とは、「自分達の、(遅咲の)結婚が許されてしかるべきだ」との期待を述べている、と解釈できる。 歌の婉曲な表現は、高市皇子の死へのあからさまな言及に対する配慮とみれば、この3句切れ(B)の読み方こそが歌の真意と見なすことができるだろう。 1514歌「秋萩は咲きぬべからし我がやどの、浅茅が花の散り去く見れば」 とすれば、この歌の作詠時期は678、9年頃ということになる。この1514歌は、意味からいっても、1513歌に先行する歌であることは間違いない。そして、その期待と確信の思いから推測して、恐らく皇子は、朝廷(天皇)にしかるべき働きかけ(例えば結婚許可願い申請)を行ったと考えるのが自然である。 もう一度前歌の1513歌に戻って、解り難かった(1)文節の「今朝之旦開 鴈之鳴聞都」を考えてみよう。すると、「今朝之旦開」には、「今朝の朝議」の意味が含まれていると読むべきかも知れない。つまり、皇子の結婚許可の請願にもかかわらず、不可の朝廷(議)決定があり、その知らせ(=雁の音)を聞いた、の意味と解するのである。 前述した1513の解釈は、ほぼ間違いなさそうである。この二首の連作は、皇女の四首(磐姫皇后歌)とほぼ同時期に詠まれた、穂積皇子側の歌であったと推定される。(この皇子の二首の方が、皇女の四首よりも先行していたかもしれない。この朝議決定の後だったために、それらは没収の憂目にあったと考えるべきか?)ただこの連作の本来の歌順は、逆転して、こう置かれるべきであろう。 穂積皇子、(但馬皇女を思ひて)作らす歌二首 以上、多くの仮説に基づいた解釈になってしまったが、一応の説明はつきそうだ。果たして真相は如何なるものであったであろうか? <巻十六・3816歌> 訳文1(新日本古典文学大系本): 後注によれば、穂積皇子(親王)は、興にのると宴席でよくこの歌を口ずさんだという。題詞の「穂積親王」の表記から言っても、但馬皇女が薨じた後の皇子の晩年の作詠であろう。「家の櫃に封じ込めて置いた恋」とは、但馬皇女との事件で、もう恋はしないと決めていたのかも知れない。皇子自身も苦しんだのであろう。ようやく、その苦悩から開放され、おどけて冗談を言う余裕が生じた頃の作品と思われる。 歌意「家の櫃にしっかり鍵を掛けて封じ込めて置いたのに(もう金輪際しないと決めていたのに)、恋の奴めが掴みかかって来やがって」 記録(巻四・528歌後注)によれば、穂積皇子は晩年、若い大伴坂上娘女を娶っており、鍾愛すること一通りでなかったと伝えられている。すると、この歌は、老いらくの恋の照れ隠しとも読むことができるかもしれない。いや、再び人を愛することができた(愛する対象ができた)ことのささやかな喜びと解釈するべきだろう。 この頃、穂積皇子の母親、蘇我大ぬ娘女はまだ健在であった。大伴坂上郎女の母親は、万葉集に多くの相聞歌を残している石川郎女(山田郎女、石川内命婦とも)であり、その名前からして蘇我氏と係わりのあった(出身の)女性と推測されるのである。結婚はこうした閨閥の縁と考えられるが、あるいは石川郎女は密かに二人に同情していたのかもしれない。 (2005.09.15.M.A.) <参考書> |