HH401251.DOC 【名歌鑑賞11】 森 明 <万葉集巻一:22歌> <原文> -------------------------------------------------------------- <釈文> 後注: 吹黄刀自、未だ詳らかならず。但し紀に曰く、「(天武)天皇の四年乙亥の春二月乙亥の朔の丁亥、十市皇女と阿閇皇女と伊勢神宮に参り赴きき」といふ 訳文1(新日本古典文学大系本): 題詞によれば、歌は、十市皇女が伊勢神宮に参詣したときの、吹黄(ふき、ふふき)刀自の作詠だという。後注(日本書紀からの引用)によれば、その参詣は、天武四年(675年)2月13日のことであり、阿閇皇女(天智天皇皇女、後の草壁皇子妃、元明天皇)も一緒だったとある。しかし歌の題詞はその同行のことには触れず、十市皇女と作者の刀自のみを記している。してみれば、吹黄刀自は十市皇女家の家刀自(主婦)であり、22歌は、あくまでも十市皇女のために作った歌と考えるのが至当であろう。 十市皇女は、大海人皇子(天武天皇)と額田王の一人娘である。皇女は、天智天皇の長子、大友皇子に嫁して一子葛野王をもうけていた。しかし、父と夫とによる、皇位継承の争いとなった壬申の乱で未亡人となり、戦後は、葛野王と共に父の所に身を寄せていたと考えられる。(※注:乱後の十市皇女の住まい) それにしても、十市皇女の、この天武四年における伊勢神宮詣ではどんな意味があったのだろうか?その目的は一切記されていない。しかし、参詣が、私的な物見遊山の気晴らし旅行であれば、万葉集はともかく、日本書紀にそれが記録されることなどありえない。やはり、何らかの政治的使命を負っていたと考えるべきである。とすれば、この歌がその何かを語っているのであろうか? <歌の解釈> 「常処女」については、十市皇女がすでに一子の母であることから、理解に苦しむ向きが多い。ただ、「常処女にて」の「常(とこ)」にも、「ずっと」の意味と、「床(とこ)=寝床」の両方の意味が懸けられていると考えるべきである。時に、十市皇女は亡夫大友皇子の喪に服していた。とすれば、むしろ後者の「床処女」の意味に重点が置かれていると見るほうが適当だろう。「これからずっと寡婦(喪のまま)で」の意味と察せられる。 問題は、四句の「(常に)もがもな」の意味である。この「もがもな」は、「もがもな」、「も+がもな」、「もがも+な」、「もが+も+な」等の何れにも読める。というのは、「もがもな」は、「もがもな」「がもな」「もがも」「もが」だけで、すでに何れも「だといいなあ、であったらいいなあ」の願望の意味を有するからである。だから、最後の「な」が重要で、これをどう位置づけるかによって、歌意が変わって来る。「な」は様々の用法のある助詞である。 歌の解釈を、文法的に精密に分析して論じる方法もあるかもしれない。しかし、私は文法学者ではないので、別の手段、吹黄刀自がどのような立場で詠っているか、の観点から検討してみようと思う。上述した、新体系本、新編全集本それぞれの訳文の相違も、この立場の違いからきている。 (1)一つの考え方は、歌中の人物(歌の主格)が刀自であり、吹黄刀自自身が、自らの「常処女」の願望を詠ったとする立場である。 だがこの解釈の最大の問題点は、これでは22歌は、(十市皇女家に仕える)一刀自個人の歌ということになってしまう、ということにある。万葉集の編集方針からいっても、巻一天武朝雑歌部の冒頭に、単なる一使用人に過ぎない者の、願望の歌が置かれるはずが無い。それに、刀自自身の境涯(独身?寡婦?)はどうあれ、自分のことを「常(床)処女」などと詠うだろうか?言葉の使い方に違和を憶える。 (2)二つ目の考え方は、歌中の人物(歌の主格)が刀自であることは変わりないとして、刀自が、主人の十市皇女がいつまでも「常処女」であるようにとの、自分の願望を詠ったとする立場である。 どうだろう?この解釈の問題点は、使用人の立場でありながら、自分の願望を、主人に強要しているように聞こえることである。たとえ刀自がいかに皇女と親密で、皇女とはまさに一心同体同然の間柄にあったとしても。何故、こんなことを言わなければならないのか?これからも皇女が、若く美しくあって欲しいとの願望ならいざ知らず、寡婦(常処女、床処女)であって欲しいと願うのは行き過ぎではないだろうか。不自然という他はない。(もっとも、両本とも、さすがに常処女を「常乙女」ととり、若さの維持を強調した解釈になっている。だが、これでは上の句「斎つ〜」と繋がらない。この訳文には無理があるだろう) (3)三つ目の考え方は、皇女の応召歌とする立場である。つまり、命ぜられた刀自が皇女に成り代わって詠ったとする考え方である。 しかし、この皇女の応召歌というのも変な感じである。まず、皇女が、自分の心の内の願望を、他人に詠わせるということに不審を覚える。こればっかりは自身で詠むしかないのでは?それに、言葉遣いがやはりおかしい。たとえ皇女の身分であっても、自分自身を「常処女」とは普通は言わないと思うのだ。 (4)四つ目の考え方は、実はこの解釈は、私の推奨する案でもあるのだが、刀自が、皇女の気持ちを思い遣った歌と考える立場である。 どうだろう。これなら、歌意を違和なく受け入れられるだろう。これだったら、刀自は、強要どころか逆に、やさしく皇女の願望に同調しているように聞こえる。「常処女」の美称も使用人としての立場からは相応しい。それにこれなら、歌はあくまでも十市皇女の意思の代弁になっているから、天武朝冒頭に置かれる一首としてもおかしくない。 では文法的に誤りがないだろうか?この場合の「もがもな」は、「(常に)もがも+な」あるいは「(常に)もが+も+な」と捉えることになる。「な」は、終助詞で念を押す「〜ですね」の用法である。 22歌:「川の上のゆつ岩村に草生さず常にもがもな常処女にて」 <22歌作詠の目的> ところで、万葉集には、天武天皇時代の歌として、雑歌6首、相聞2首、挽歌7首が収められている。もしこの部立てを解除して、全歌を単純に時系列的に配列しなおしたとしたら、この22歌は、挽歌編の156〜158歌(高市皇子の歌)の前に置かれることに気付くだろう。たまたま分類が違ったために、異なる巻に離れて編集されてしまっただけだ。 ・675年(天武四年):2月/吹黄刀自の歌 では、この22歌が詠われた天武四年(675年2月)とは、一体どんな年だったのであろうか?この年は、十市皇女の死の3年前に該当するが、壬申の乱の終結(672年7月)からもほぼ3年を経過した年であり、また計算すると、高市皇子が22歳を迎えた年でもある。とすれば当然、皇子妃の案件が浮上していい年ではなかったか。そして、他の事例を見ると、概ね皇族の婚礼はその年の年初に決められているように認められる。 すると自然に、次のような疑問が湧いて来るだろう。実は、高市皇子の、十市皇女への最初の求婚は、この天武四年(675年)に遡るのではなかったかと。どうだろう。ただここで思い起こすのは、「貴人の未亡人の喪は6年」という「令」の存在である。もし、この「令」がゆるぎないものであれば、この推論は成り立たくなる。 ここで仮説を立てなければならない。だから、この規定は、もともとは3年だったのだと。だからこそ、高市皇子はこの年に求婚できたのであると。そうでも考えないと、この22歌作詠の意味が説明できない。(※注:貴人の喪3年であった可能性) 求婚がもしこの年に遡るとすれば、もちろん、亡き大友皇子への思慕未だ失われず、傷心の皇女にとっては、全く迷惑千万、全く望まざる、残酷ともいえる求愛であったに違いない。私には、この22歌は、この年の高市皇子の求婚に対する、「断わり」の訴えであったように聞こえてくる。 吹黄刀自は十分過ぎるほど皇女の気持ちを承知していた。思うに、歌が披露された宴席(食事?一同沐浴後で白衣でも着ていたか)の場には、阿閇皇女の一行も同席していたのではなかろうか。それは絶好のチャンスであった。刀自は、恐らく、阿閉皇女の背後にいる鵜野皇后を意識して22歌を詠んだと私は推量する。皇后に訴えて、阿閇皇女→鵜野皇后→天武天皇→高市皇子のルートで十市皇女の(拒否の)気持ちを伝えるために。歌では「ずーとこれから、常(床)処女でいたい」と言っている。 結局、皇女の強い拒絶の意思を伝え聞いた天武天皇は、この参詣の後、妥協案として、(さらに3年を延長する)特別貴人の未亡人6年の喪令を、裁定せざるを得なかったのだと私は推量する。これによって、当面の危機を脱した皇女や刀自は、ほっとすると共に、その間に高市皇子が諦めてくれることを切に願ったに違いない。ところが、驚くべきことに皇子は、執拗にもさらに3年待ち続け、あの678年の悲劇に繋がっていったのであると。そう考えると、あの時の皇子の焦燥も肯けるものがある。 <吹黄(ふき、ふふき)について> (もしかしたら、「蕗」とは、「女性の付き人(=女官、女儒)」の俗称ではなかったか?当時、付き人は黄色の衣装ないしは飾りを着けていたのかもしれない。) ここでもう一度思い起こして欲しい。高市皇子が158歌で「山振の〜」と詠んでいたことを(【名歌鑑賞6】参照)。原文の「山振」を、定訓では「山吹」に当てている。しかし、実際は「山振」とは「山蕗」であったのではないか。「山吹」と「(山)蕗」とは、時節的にも同じ春の花で、黄色の花を咲かせることまで共通している。 十市皇女は、「蕗(ふき)」によってしっかり護られている。そして、それを束ねる「蕗の刀自」がいる。高市皇子はそれを承知していた。だからこそ、皇子は「山振の立ち儀ひたる〜」と、実は「山蕗(吹黄)の〜」をイメージして詠んだのであると。すると、「立ち儀(よそ)ひたる」の現訓は、むしろ「立ち儀(よろ)ひたる」の訓が適当と言うべきか。山は当然三輪山を指すことになる。 158歌:「山蕗の立ち儀(よろ)ひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく」 高市皇子の執着には、皇女の拒絶は皇女自身の意思というよりも、刀自達周囲の反対によるとの認識があったのかも知れない。 <参詣の目的> やはり、参詣にはもっと別の公的使命があったのだと考えなければならない。普通は、伊勢神宮の勧請に当たっての落成慶賀と、前々年の天武天皇、鵜野皇后の即位の報告が考えられる。それにしては少し時期的に遅いように思えるが、社殿の新築他準備のために時間がかかったのであろう。それは、丁度この5ヶ月前に、大伯皇女が斎宮として着任していることからも明らかである。 書紀によれば、壬申の乱の始めに、大海人皇子は、天照神(伊勢神宮)に祈願のことがあった。それにしては、天皇は即位後一度も伊勢神宮に赴いていない。その参拝をこの年の十市皇女が名代したと考えるのである。だから、阿閉皇女は鵜野皇后の代理だったのであろう。阿閇皇女は、母親(蘇我姪媛)の関係で、皇后と最も血の繋がりが強く(従妹)、まさに皇后の膝下にあった。(※注:伊勢神宮の尊崇) では、他ならぬ十市皇女が天皇の代参を行ったのは何故か?実はこれには深い理由が隠されていると私は見る。それは、壬申の乱で混乱した皇位継承の問題、および皇后の神事祭主権の分離問題が深く係わっていたと考えるのである。(※注:十市皇女の代参の必然性) 新装成った伊勢神宮では、斎宮の大伯皇女が、二人を待ち受けていた。天武朝の、まだうら若い三皇女の会合は、それだけで一対の絵になるような華やかな場面であったろう。考えて見れば、三人は、奇しくも、最も次期皇位に近い三皇子、草壁皇子、大津皇子、葛野王のそれぞれと、最も近しい関係にあった高貴の女性達であった。 三人は親交を温めあったであろう。が知ってや知らずや、この後まもなくして、彼女達は、再び苛烈で残酷な皇位継承の争いの中に巻き込まれていく。その直前のわずかな平和の一時であった。いや、すでに暗雲が覆いつつあったと言う方が正確なのかもしれない。 本稿 了。 次回【名歌鑑賞12】 ※注:乱後の十市皇女の住まい ※注:貴人の喪3年であった可能性 ※注:大海人皇子の伊勢神宮尊崇 私は、大海人皇子自身の信仰が天照神話にあったと考えている。当時の日本には、多くの神話、天照神話、天孫神話、倭大物(三輪)神話や出雲神話等が並存していた。そしてこの時代に、それら神話の(天照神優位の)統合的解釈が目指され、後、古事記の形に集約されたと考えるのである。 古事記の成立は、712年に下る。が、興味深いことには、それよりはるか前の柿本人麻呂の長歌に、すでに一連の神話の原型がはっきりと述べられていることである。そこでは天照大神直系の「高照らす日の皇子」が崇められ、繰り返し皇統の本流として称えられている。 ※注:十市皇女の代参の必然性 であるなら、近江朝にあった皇統の神器を大海人皇子にもたらしたのは十市皇女(皇后)しか有り得ない。ただ、それは、皇女(皇后)の独断によるものではなく、大友皇子(天皇)の指示があったため(同時に、一子葛野王の養育を託された)と私は考える。そうした経過を斟酌すると、皇統(神器)は、天智天皇→(倭姫大后)→大友皇子(弘文天皇)→(十市皇女(皇后))→天武天皇と伝えられたのであろう。名代が十市皇女でなければならない理由である。そして、このことがまた、皇女が再婚を拒み続けた理由でもあったのであろうと想像を巡らすのである。 有力な、参詣のもう一つの目的は、それまで、女帝および皇后に属していた国家(天皇家)神事祭主権が、伊勢斎宮の創設に伴って分離された結果の、行事の一環とも考えられる。大伯皇女は、その初代斎宮として赴任していた。思うにこの時、倭姫大后から祭主権を譲り受けていたいたであろう十市皇女と、鵜野皇后の祭主権を委託された阿閇皇女の両方から、一切の国家および天皇家の神事祭主権が大伯皇女に委譲されたと考えるのである。このことはまた、十市皇女に備わっていた神的な属性が失われ、普通人に戻ることを意味する。つまり皇女は、残る夫の喪さえ明ければ、自由な通婚が可能な道理となる。それがまた、十市皇女に危機をいだかせたのではなかったろうか。 (2005.12.15.M.A.) <参考書> |