HH401251.DOC 【名歌鑑賞12:十市皇女の伊勢神宮参詣(2)】 2006年03月15日 森 明 <万葉集巻四:490・491歌> <原文>
ところで、2首目491歌の初句「川の上の〜」に注目して欲しい。同じ吹黄刀自の巻一・22歌の「川の上の〜」の詠い出だしと比べて、直感的に共通するものを感じるのは私だけなのであろうか?あの但馬皇女の連作歌も、「秋の田の〜」で最初と最後の歌が括られていた。もっとも、吹黄刀自のこの歌の方が、但馬皇女の連作よりもはるかに先行する作品だから、類似すると言っても但馬皇女の方が刀自の歌に学んだことになるが。 要するにこの疑問は、連作歌が、刀自によって別途に作られた(A)490−491の二首問答歌なのか、それともあの伊勢神宮詣での折に同時に作られた(B)22−490−491の三首連作歌なのかの問題である。両方を検討してみればいい。どちらが適切かは、歌の解釈が答えを出してくれるだろう。 <490歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系本):
普通は、動詞の主格が省略されている場合は、まずそれを補って読むのが常法である。ところがこの歌ときたら、二つの動詞の主語が夫と妻どちらの可能性もあって、解読を困難にしている。たとえば、この歌が宴席で披露されたとして、はたして聞き手は容易に内容を理解できたのであろうか? もう一方の491歌は明らかに妻の歌になっている。だから、二首を問答歌とするなら、この490歌は夫の歌と予測できる。ただし、この思考法は後からする付会であろう。歌は順番に披露されるのだから、こうした解釈法は本来邪道といわなければならない。だとしたらむしろ歌の順序を491→490に組替えるべきだろう。まあ、「夢に見たい」等と願望するのは、普通は妻側と考えるべきかもしれないし、語り役の男女が決まっていたのかもしれないが。 しかし、この490歌を夫の歌として、また「思う」「夢見る」の主語を妻だと仮定して、残念ながら、私はこの歌を適切に訳出することができない。そのあれこれの試行錯誤の検討過程をここで紹介しても、結果が不毛であれば、徒に読者に煩雑の感を抱かせるだけだろう。 結論を言えば、私は、この二首は問答歌ではないと考える。次のような理由で。 (B)三首連作歌としての歌の解釈 22歌は、十市皇女の「常(床)処女でありたいとの願望」を、吹黄刀自が思い遣る歌であった。とすればこの490歌の主格も「妻(妹)=十市皇女」と考えるべきだろう。そしてもし490歌が十市皇女に係わる歌で間違いないとすれば、「真野の浦の淀の継橋」は自明である。これはもう言うまでもなく琵琶湖の「真野の入り江」を指すに決まっている。現在の滋賀県大津市北部の地区、琵琶湖最狭部の西岸近傍の地である。(※注1:「真野の浦の淀の継橋」について) 通訓では、「真野之浦乃 与騰乃継橋 情由毛 思哉妹之」を、「真野の浦の淀の継橋のように、思へや」と訳する。しかし、私には、どう読んでも「真野の浦の淀の継橋を、心から思ふや」と読める。つまり原文の「思哉」を「思へや」ではなく「思ふや」と読む。「や」は確信の推量の終助詞で「〜なのでしょうね」の意味である。 当然「継橋を心から思ふ」の主語は妹(妻)と考えなければならない。一心に「思ふ」のは「(思い人を)夢にし見ゆる」ためである。だから「妹が夢にし見ゆる」も、定訓のように「すでに、夢に見えている」のではなく、「これから、夢に(こそ)見ることができるように」と読むべきである。「し」は強調の副助詞と考えられる。当時、「恋しい人を一心に思うと夢に見る(夢で逢う)ことができる」という民間信仰があったという。(※注2:夢見の民間信仰について) 歌では、妻(妹)が夢に見たい対象は省略されているが、当然「継橋を渡って来る、夫を」ということだろう。そして妻が十市皇女を指しているとすれば、夫とは、亡き大友皇子ということになる。つまり歌は、十市皇女が、夢の中で、戦乱を鎮めて、真野の継橋を渡って迎えに来る夫の大友皇子と逢いたい、との願望の歌なのである。 歌の釈文と意味は次のようになるだろう。 思うに、真野は、あの壬申の乱のときに、十市皇女一行(皇女と葛野王そして刀自も、そして多分阿閇皇女達も)が戦乱を避けて避難した場所だったのではないだろうか。当時の戦闘の状況を点検してみても、危険を回避する地としては大津京の北方、湖西地域(真野方面)が最も安全であった。歌は空想を詠ったのではなく、事実に基づいた回想歌であったと考えたい。(※注3:当時の十市皇女のもう一つの居場所) そこで皇女(達)は、戦争の行く末に慄きながらも、「平和の継橋」を渡って、迎えに来る夫(=大友皇子)を、今かと今かと心待ちしていた。その果たし得なかった願望を、今は夢にでも見たいというのである。 歌では「思ふや」と詠っている。これが応召歌のように、もし、刀自が皇女の立場になりきって詠ったのであれば、主体は皇女になるわけだから、単に「(私は)思ふ」にならなければならない。明らかに、「思ふ+や」(確信の推量)と詠っているところに、22歌同様、刀自が皇女の心情を思いやって詠った歌と確認できる。この490歌は間違いなく22歌と一連続きの歌であると断定していいだろう。 <491歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系):
「河上乃 伊都藻之花乃」「川上のいつ藻の花〜」には、多くの意味が込められている。「伊都(いつ)藻」には、二つの意味「井つ藻=水藻」と「斎つ喪」が掛けられている。また、「いつも、いつも」も、当然「何時も(までも)」と「斎つ喪」の両方が掛けられている。しかも、この「いつも、いつも」は上の句と下の句両方の連結句にもなっている。 「川上のいつ藻の花のいつもいつも」と読めば、「川の上の水藻の花のように、何時も(何時までも)斎つ喪でおります」、つまりは「いつまでも浄い身体で(おります)」の意味となる。また下の句に繋げて「いつもいつも来ませ我が背子時じけめやも」と読めば、「何時でも(何時までも)、斎つ藻(私)に(夢の中で)いらっしゃって下さい貴方、時など関係ありませんよ」の呼びかけとなる。 通しての491歌の歌意は次のようになるだろう。 どうだろう。三首は見事に呼応している。ここでは、十市皇女の、亡き夫(大友皇子)への一途な思慕と、永遠に喪に服そうとする堅い決意とが切々と訴えられている。この連作は、あの伊勢神宮詣でのときに、刀自が十市皇女の心情を思いやって作った歌であることは間違いない。ただこの最後の491歌は、激情の余りか、刀自の思いが皇女のそれと合体して、あたかも一緒に声を合わせて詠っているように聞こえてくるが。 では一体、何故この連作は分割されて収録されなければならなかったのか?それは明らかだろう。この歌が詠われた天武朝は、近江朝をまさに覆して成立した王朝であった。少なくとも、あからさまに大友皇子を慕う作品をそのまま掲載することは忌避されたと考えなければならない。その結果、冒頭の一首のみが、十市皇女の伊勢神宮参詣に係わる歌として収録されたと考えるのである。後代、残りの歌が巻四に追補されたのは、歌の真意がつかみ取れ難くなってしまっていたか、禁忌の意味が薄らいだからであろう。 <吹黄刀自とは、一体何者か?> 以下にその人となりを整理してみよう。 まさに刀自は皇女にとって母親のような存在、と私はみる。いや、母親そのものだったのではなかったか、と。歌の特徴である、全身全霊を込めた詠い方。徐々にせり上がる激情。そのオーラ。私は、自然に、「吹黄刀自=額田王」という観念にとらわれてくる。 決定的なのは、491歌で、刀自自らが亡き大友皇子に「我が背子」と呼びかけていることである。それまでの二首では、刀自は、やさしく皇女を思い遣って詠っていたのに、ここでは突如としてその垣根を飛び越え、まるで刀自自らも、皇女と一体となって「我が背子=大友皇子」と呼びかけている。ここに刀自と皇女の二人の特殊な関係が垣間見えている。 大友皇子を「我が背子」と呼べる存在は、この世では正妃の十市皇女、実母の伊賀采女宅子郎女そして義母である額田王の三人しかいない。明らかにその前二者ではないとすれば、消去法で、その人は額田王と特定するしかないではないか。 この時期、額田王は、すでに45歳は過ぎていたか。もろもろの経緯から言っても、浄御原の宮廷に奉仕していたとは考え難い。むしろ、娘の十市皇女やまだ幼い葛野王の宮に居たと考えたほうが自然である。となれば、その年齢、立場からいって、「刀自=主婦、宰領人」の役目を負っていたと考えて全くおかしくない。 この三首の連作は、額田王の、娘十市皇女への奉唱歌であった、と私は断定したい。では何故額田王はこうした歌を作ったのか?普通だったら、この時期わざわざ大友皇子への思慕を声高に公表する必要など全く無いはずである。ひっそりと喪に服してさえいればいい。やはり、その必要が生じたのは、当時、皇女が意図せぬ高市皇子からの求婚を受け窮地に陥っていたからと考えなければならない。 連作は、悲嘆にくれる皇女の気持ちを支え、慰めかつ励ますと同時に、皇女の身を護るためにも必要だったのだと。歌は、(今は神となった大友皇子の御霊にすがり)あたかも皇女の周りに、不可侵の斎界を張り巡らしているかのように聞こえてくる。歌には熱がこもり異様な迫力を読む者に伝えてくる。それは、額田王が、娘のために、渾身の力を込めて詠んだ作品と捉えることによってはじめて納得できるだろう。 もちろん額田王が何故本名を名乗らなかったかの疑問は残る。が、何となく分かる。その理由を上げるとすれば、次のようなことが言えるだろう。 当時、十市皇女−葛野王親子は皇位継承問題もからみ、微妙な立場にいた。高市皇子の求婚も、実はそれとは切り離せないと私は憶測している。額田王には、そうした複雑な宮廷の思惑は手に取るように分かっていた。以前にも述べたが、この連作は、同行する阿閇皇女(の一行)も同席した宴席で披露されたのであろう。ひたすら娘親子を護るために、額田王(吹黄刀自)はまさに、十市皇女−葛野王家の大黒柱だったのである。 <十市皇女物語> 十市皇女(王女)が中大兄皇子(天智天皇)の計らいによって大友皇子(王)と結婚したのは、間人大后の喪明けの666年(天智五年)であったと私は推量する。そして多分、一子葛野王は翌667年(天智六年)には誕生したと考えられる。日本書紀にその記述は無いが、同年6月の条に葛野郡からの白ツバメの献上が記録されており、もしかしたら何かを暗示しているのかもしれない。十市皇女にとっては最も幸福な時期であった。(※注4:葛野王の誕生) この667年はまた近江遷都の年でもあった。唐との交戦状態を終結させ、新しい(律令の)時代を確立しようとしていたらしい中大兄皇子(天智天皇)にとって、葛野王の誕生は幸先の良い吉兆のように思えたかもしれない。そしていずれはこの初直孫に皇位を継がせたいと願望したとしても不思議はない。翌668年(天智七年)の正月の即位に当たって、丁度21歳に達した大友皇子を抜擢し、おそらく自分の代理として朝政を聞かせた(はず)のも一連の構想の布石であったと私は推測する。(※注5:懐風藻「大友皇子伝」) そこには国際情勢の変化に伴う、国家の政治路線問題(軍事路線か和平路線か等)も絡んでいたと思われる。だが、このことは当時の政権のNO2の大海人皇子の地位を危うくするものであった。結果、プライドを傷つけられた大海人皇子が決定的に離反する原因になってしまった。 断絶に至った諸事情の詳述は別の機会に譲るとして、恐らく、不和になってしまった夫と父との間に挟まり、十市皇女は、その関係の修復にひたすら心を痛め、何かと気を配る毎日ではなかったろうか。特に藤原鎌足亡き後、皇女は唯一両者のかすがいとなり得る貴重な存在であったのである。 壬申の乱は皇女の幸福を奪ってしまった。思うに、吉野軍が大津京に迫る672年7月初旬、瀬田での決戦が避けられなくなった時点までには、戦略的に言っても、二人は即位(大友天皇、十市皇后)したと私は推量する。天智帝の意思を次ぎ、近江朝廷側の結束を強化し、相手に脅威を与えるためにも必要だったと考えるからである。壬申の乱の経過をつぶさに見ると、近江朝廷側の名分は天智天皇の遺勅であり、大海人皇子に対して(警戒はしていたかもしれないが)殆ど特別の備えも戦意も認められない。(※注6:壬申の乱勃発時の大友皇子の選択) 大友皇子(天皇)が、運命を共にすることを願う十市皇女(皇后)を説得して、万が一の場合の皇器の移譲と一子葛野王の養育を託し、湖西方面に避難させたのは、岳父の大海人皇子がたとえ自分を認めなくても、娘や孫まで恨む(危害を加える)とは考えられなかったからである。そこには、皇器と共に葛野王を預ける(暗黙に皇位の継承を委ねる)ような深慮が込められていたと私は推測する。 もちろん母親の額田王にはその後見を依頼したであろう。そして、同年7月23日、書紀によれば、大友皇子は「走げて入らむ所無く」山前で自決したという。本当は一箇所行くべきところはあった。しかしそこは決して帰ってはならないところであった。 乱後、飛鳥京に戻った十市皇女−額田王母娘は、(おそらく天智後宮の一同も)三輪山の神域に篭もりひたすら喪に服したのではなかったろうか。祭主は倭姫大后と十市皇女であり、従う女官達の宰領は額田王(吹黄刀自)が執ったと考えられる。 ところがその僅かな安寧の日も長くは続かなかった。当時貴人の喪は三年であった(と考えられる)。その喪明けの年にあたる675年(天武四年)の正月、22歳を迎えた高市皇子が突如として十市皇女に求婚したのである。 しかも着々とその実現のための施策が積み重ねられて行く。伊勢神宮への参詣も再婚を推し進める一環として皇女には写ったかもしれない。吹黄刀自の三首の歌によってか、皇女の拒絶の意思を知った天武天皇はさらに3年の喪の延長を裁定した(ようだ)。だが、皇女達の安堵も束の間、678年執拗にも高市皇子は再び求婚したのである。しかも今度は刀自の歌に対抗するかのように三首の歌を詠んで。 ◆675年(天武四年):2月/吹黄刀自の歌 ここまで来ると何やら高市皇子の執念のようにも感じられる。求婚に皇子の強い思慕があったことを否定しない。だが拒んでいるのに何故こうも執着するのか?やはりそこには極めて政治的な意図が絡んでいたと考えざるをえないだろう。例えば、大友皇子(天皇)や十市皇女(皇后)の即位を認めず、その権威の失墜とひいては葛野王の皇位継承権を奪うような。当時は、現代のように個人の恋愛感情が婚姻の基準となる時代ではなかった。 高市皇子は明らかに吹黄刀自の三首を意識して歌を作っている。こうして見ると、さながら歌合戦の様相を呈しているではないか。歌垣のように、3年前に十市皇女の廻りに張り巡らされた斎界の防壁を、高市皇子側は今神の名を持ち出してまでも破ろうとしている。してみれば、高市皇子の三首も、各個に作られたのではなく、あの698年3月にまとめて作詠された可能性が高い。 歌を作らない十市皇女の代わりに吹黄刀自(額田王)は歌を作った。とすれば、高市皇子のそれは本当に実作なのか?私には何かしら、皇子の後ろに、額田王にも匹敵して余りある、とある大歌人の影が見えてくるのである。そしてさらにそれらを引導しているとてつもなく巨大な影が…。(※注7:もう一度、高市皇子の十市皇女挽歌について) 結局、皇女の自死という悲劇で結末を閉じることになってしまった。かって皇女は夢の中で亡き夫と逢うことを願っていた。しかしそれも果たせなくなった今、自らが継橋を渡って逢いに行くしかなかったのである。(※注8:十市皇女の死について) 当時歌こそが主張であった。彼等は己の生存をかけて歌を詠んだ。万葉集歌に胸に迫る名歌が多いのは、こうした土壌で育まれた作品であったからに違いない。 十市皇女推定年賦:(生年?〜678年) 本稿 了。 次回、【名歌鑑賞13】 ※注1:「真野の浦の淀の継橋」について 柿本人麻呂の、巻一・31歌(近江荒都歌第二反歌)に「ささ浪の志賀(比良)の大わだ淀むとも昔の人にまた逢はめやも」の歌がある。「志賀(比良)の大わだ」とは琵琶湖のくびれの部分であり、丁度「真野の入り江」地域に相当する。この付近は東対岸への渡し場になっていたのであろうか。柿本人麻呂のこの31歌は明らかに刀自の490歌を念頭に置いて作られている。 ※注2:夢見の民間信仰について ※注3:当時の(戦乱時の)十市皇女のもう一つの居場所 ※注4:葛野王の誕生 葛野王の誕生を推定するには、まず大友皇子、十市皇女二人の結婚が何時であったかを想定しなければならない。ここでもう一度前に戻って、額田王の春秋判別歌「秋山の〜」(巻一・16歌)の宿題を検討してみよう。何時の歌か?という問題である。まず年次についてであるが、あの白村江の敗戦が663年(天智二年)であることを考えると当初は詩宴等という余裕は無かったと判断しなければならない。推測としては間人大后の喪明けの666年(天智五年)が最も可能性が高い。この年は近江遷都の前年でもある。(【名歌鑑賞 3】参照) 次の問題は、では作詠はその年の春か秋かの設問である。答えのヒントは歌の結句「〜私は秋山だ」の判定にあると私は考える。 作詠時が秋であれば、歌は「(今は秋だ。そして)私は秋山だ」という意味(判定)になる。一方作詠時が春であれば、歌の意味(判定)は「(今は春だ。けれども)私は秋山だ」ということになる。もう一度「春秋優劣判別歌」を読み直してみてほしい。歌の趣旨は断然後者だろう。ということは、「春秋優劣判別歌」は、666年(天智五年)春、おそらく二月ないしは三月の作詠と推測できる。すると少しせっかちかもしれないが、二人の結婚は同年の夏の線が浮上する。葛野王の翌667年(天智六年)誕生説も捨てたものではないだろう。 葛野王の命名は次ぎの歌に由来すると思われる。 この命名は極めて興味深い。というのは、かって中大兄皇子(天智帝)は、蘇我造媛との嫡子に建王(658年薨)と名前をつけていたからである。建王はもちろん倭建(物語)からの諱名と考えられる。このことは建王に武人として期待していたことをうかがわせる。当時は唐との戦争をも想定していた時期であった。対して孫葛野王の命名はひたすら平和と繁栄とを願うものになっている。この頃の唐および新羅との外交交渉に関する記事がそれを裏付けている。 ※注5:懐風藻「大友皇子伝」 ・年甫(はじ)めて弱冠、 太政大臣に拝され、 百揆を総(す)べて試みる。 皇子博学多通、 文武の才幹有り。 始めて万機を親(しら)しめすに、
群下畏服し、 粛然にあらずといふことなし。 年二十三、 立ちて皇太子と為る。 広く学士沙宅紹明 ・ 塔本春初 ・ 吉太尚 ・ 許率母 ・ 木素貴子等を延(お)きて、
賓客と為す。 太子天性明悟、 もとより博古を愛(この)ます。 筆を下せば章と成り、 言に出せば論と為る。 時に議する者その洪学を歎かふ。 未だ幾ばくもあらぬに文藻日に新し。
壬申の乱に會ひて、 天命を遂げず。 時に年二十五。 歴史は常に後代によって書き留められる。私は、日本書紀の、大友皇子に係わる記事は概ね削除され、また天武天皇即位前紀は、実は大友(弘文)天皇紀を消して挿入されたと考える立場である。後代に都合の悪い前代の記録は、常に削除や改竄の憂目に遭って来たことは歴史の常識である。 ※注6:壬申の乱勃発時の大友皇子の選択 大友皇子の対応の諮問に、一臣(中臣金あたりか)が「遅く謀らば後れなむ。如かじ、急く驍騎を聚へ跡に乗りて遂はむには」とまをす。皇子従ひたまはず、とある。何故皇子はこの当然で絶好のチャンスを逃したのか?宋襄の仁か?懐風藻の大友皇子伝には、「皇子博学多通、 文武の才幹有り。」とある。それが判からなかったはずがない。 私は、大友皇子の念頭には、あの蘇我倉山田石川麻呂事件の悲劇があったのではないかと推測している。あの事件では、中大兄皇子は岳父を誅した結果、最愛の妃蘇我造媛(持統天皇の実母)を悲しみのうちに病死させてしまった(と記録されている)。おそらく大友皇子は同じ立場にいる妃の十市皇女を重ね合わせてその案に同意しなかったのではなかろうか。だからまたそれを知っていた皇女は夫を裏切ることはできなかったのだと。 (上記は私のやや甘い観測であるが、大友皇子が先攻できないしがらみに縛られていたことは間違いない。私怨になりにくい形での決着を望んだのであろう。私は、壬申の乱には滅ぼされた蘇我氏の怨念が絡んでいたと考えている。いずれ乱の全容はもっと解明されるべきである。) このことは大友皇子の若さの露呈であったかもしれない。権力闘争の何たるかを知らず情実に流されたと。しかしどうだろう、実際大友皇子を非難するのは酷というべきではないだろうか。懐風藻には(鎌足の助言の形で)皇子の当時の戦略が語られている。その方針はある意味徹底しており、大津京にいた吉野側の人間の誰一人にも危害を加えていない。(このことは、天武朝において近江朝の皇子たちが生き永らえる要因になったろう)そして自分が選んだ態度に後悔の色を見せていない。むしろ禍根を断たずに次代に背負わせた前代にこそ責があったのではないだろうか。 大友政権に特に失政は見当たらない。むしろ吉野側が着々と実績を積みつつある相手に脅威を覚えたのではなかろうか。大友政権の体制が固まる前に戦乱を起こさなければならなかった。軍兵の動員には日時がかかる。恐らく天智帝の陵墓造営のために、人員の徴を発したその機会を狙ってそれを収奪したのだろう。反乱はそこに焦点を合わせた極めて計画的なものだったと考えなければならない。想像するに、反乱の中核を担ったのは、軍部を押さえていた大海人皇子の大皇弟時代の繋がりによる不満分子と、妃の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)の滅ぼされた蘇我本宗家の残党勢力だったのではないだろうか。 ※注7:もう一度、高市皇子の十市皇女挽歌について この歌中の人物は、156、157歌でははかばかしい回答が得られない自分の焦燥を訴えている。しかし一転、158歌では事が進展しない理由として、(皇女本人の拒否を)吹黄刀自ら周囲の反対にすり替えている。 どうだろうか?客観的に見てその判断は明らかに誤認、いや曲解だろう。当時皇女が戦乱の痛手を蒙り、失意と傷心の状態にあったことは誰の目にも明白である。刀自の連作歌は正確に皇女の心情を写していると判断して間違いない。 にもかかわらず、この歌の人物は、皇女の苦悩にも、悲嘆の心情にも一切思い遣ることをしない。この歌の人物は、自分の焦燥だけを主張し、あげくの果てには、刀自の22歌を曲解して、あらぬ難癖、言いがかりをつけている。この歌の人物は、刀自の三首の歌を見て、それに対抗することだけを目的にして歌を作っている。 (【名歌鑑賞11】をもう一度参照して欲しい。この歌中の人物の主張は、22歌解釈案(2)の、「刀自らが皇女に寡婦を強要している」に相当していることがわかるだろう。このように歌は、受け取る側の主観(都合)によって、常に誤解ないし曲解を受けるという宿命を背負っている。) 三首の歌自体は力強く見事な作品にちがいない。が少なくともこの歌の人物は、皇女に対して愛情の一片も持ち合わせていない。この人物の目線は皇女に注がれておらず、事の決裁者、おそらく天武天皇に向けられている。この高市皇子三首は、皇女への求愛歌ではないし、もちろんその死を嘆く挽歌でもない。この歌は高市皇子のために作られた、そして吹黄刀自(額田王)らから皇女を引き剥がすことを目的にした、天武天皇への訴状歌と考えるべきである。 高市皇子三首は皇子の自作ではない、と私は思う。もし皇子が少しでも皇女に愛情を抱いていたとしたら、決してこのようには詠わ(え)なかったであろうと考えるからである。またこの歌がとある代作者の手に成るものとしても、皇子がそれを頼んだのでもないだろうとも思う。何故なら、もしそうだとすれば代作者は皇子に作品の是非を必ず尋ねるだろうから。私は、代作は、高市皇子の後に居る引導者の指示によると推量するのだが…。 こうした結論に違和を感じる向きには次のことを想起してもらいたい。もし求婚の歌として、この歌が皇女や刀自達に届けられたらどうなるかということを。少しでも相手の心を打つことができるだろうか?この三首は(特に三首目は)彼女達に、単にその傲慢、非情、悪意、無粋や自惚れを伝えるだけであろう。高市皇子三首は、(刀自の三首が皇女のために作られたのと同じように)あくまでも皇子を応援する、皇子のための作歌である。 ※注8:十市皇女の死 158歌:「山蕗の立ち儀(よろ)ひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく」 とすれば、歌が言うように、皇女の意思を確認し、あるいは説得するためには皇女を吹黄刀自(額田王)らから引き離す必要がある。恐らく4月、高市皇子ら再婚推進派は、嫌がる皇女を独り浄御原の宮中に隔離したのだと私は推量する。そして結果、追い詰められた皇女は自らの尊厳を護るために死を選ぶしかなかったのであると。三首が挽歌として置かれているのも肯けるではないか。 十市皇女は日本書紀には赤穂に葬られたとある。しかし赤穂の場所については現在も特定できていない。ただ、赤穂を赤尾(忍坂の、粟原川を挟んだ対岸一帯)とする説があり、私は魅かれている。というのは、その地続きの並びにある粟原寺から、近年「姫朝臣額田」の署名のある粟原寺銘盤が出土しているからである。私には「姫朝臣額田」は額田王その人に間違いないように思えてくるのである。 (2006.03.15.M.A.) <参考文献> |