HH512241.DOC 【名歌鑑賞13:鏡王女の降嫁】 2006年06月15日 森 明 <万葉集巻二・相聞:91・92歌> <原文> 鏡王女奉和御歌一首 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 鏡王女の和し奉りし御歌一首 2首は、巻二・相聞の部立て天智天皇代の冒頭に置かれている。してみれば、天智帝(中大兄皇子、皇太子)と鏡王女はかって愛人(恋愛)関係にあったということになる。歌は、天皇歌にも関わらず「御歌」となっていることから天智帝の皇太子時代の作品と考えるべきだろう。興福寺縁起によれば、いずれの日か不明であるが、鏡王女(女王)は藤原鎌足の正室として降嫁したことが分かっている。するとこの2首は、続いて置かれている93、94歌が王女と鎌足の相聞歌であることからしても、その降嫁の前に交わされた贈答歌ということになる。 ところで、91歌には別に一云歌が伝えられている。そして本歌と一云歌とでは(単なる言葉の置き換えに止まらず、)歌の意味が大きく変わっているように見受けられる。これはどうしたことであろうか?というのは、天皇が前歌を取り消して(あるいは推敲して)再び贈り直したとは到底考えられないからである。それに、二首を男女の相聞歌と見るには幾つかの不審点がある。歌意から想定される贈答の時期が題詞のそれと合致しないことや、二首が本来の相聞歌の形式に則っていないこと等である。歌の再検討が必要だろう。 <91・一云歌の解釈> 一云歌訳文1(新日本古典文学大系): まず一云歌を検討して見よう。従来の解釈では、天皇の皇太子(中大兄皇子)時代、都が飛鳥京になかった、孝徳紀の難波宮時代に遡る歌と考えられている。もちろん鏡王女は大和のどこか(平群郡説が多い)に住んでいたと推定されており、「大島の嶺」は、生駒山地の信貴山ないしは高安山が比定されている。つまり歌は、皇太子の鏡王女との言わば遠距離恋愛を嘆く相聞歌と解されている。 ただ、下の句の「大嶋嶺尓 家居麻之乎」の「家」が「皇太子の家」なのか「王女の家」なのか議論がある。定訓では「皇太子(私)の家」に統一されているようだ。 しかしこの歌が、両訳文の通りであったとしたら、相聞歌としてはやや問題があるのではないか。というのは、「大島の嶺に自分(皇太子)の家があったらいい」との願望は愛の告白としてはやや不適切に聞こえるからである。なぜなら、それ程想うぐらいなら「(早く)自分の家を大島の嶺に建てればいいのに」と突っ込まれないか。相手にとってはあまり嬉しくないのでは? もっとも、逆に「大島の嶺に相手(王女)の家があったらいい」というのもおかしいかもしれない。それぐらいなら直ぐにでも王女を近くに呼び寄せればいいということになるから。いずれにしても気持ちは分かるが、(同居できない止むざる事情があったのかも知れないが)少々理屈上の弱点を有した相聞歌ということになるだろう。 だからというか、この歌の私の解釈は異なる。「妹之當 継而毛見武尓」の「妹之當」を親しみの「呼びかけ」と私は読む。つまり「妹之當」の通訓「妹のあたり」を、「妹の家の付近」のことではなく、「妹のような存在」「妹のような人」「妹にあたる人」の意味と捉えるのである。 ではこの、皇太子の言う「妹のような存在」とは一体誰か?二つ考えられる。「恋人」か、「兄妹の妹(いもうと)」か、である。が、当然この場合は後者でなければならないだろう。だいたい「恋人」に対して「恋人のような人」等という呼びかけがあるはずがない。 つまりここは、直截に「おーい妹(いもうと)」と呼んだと私は読む。当時、実際の兄妹の「妹(いもうと)」をどのように呼んだかを知らない。がもう一度、原文の「妹之當」を見直して欲しい。「妹(いも)のあたり」よりも、もっと単刀直入な「いものと」の訓の方がはるかにぴったりに見えて来ないか。(※注1:「妹之當」の訓について) この場合「継而」は、「継ぎ手」で「跡継ぎ、子供」の意味と採る。つまりここは、「(貴方の)跡継ぎが見たいので」の意味である。もちろん「見む」の主語は「私(皇太子)が」である。 そして問題の「倭の大嶋の嶺」は藤原鎌足の愛称と私は考える。「大(おお)」はもちろん美称。「島」は鎌足のあだ名で、鎌足の領地だった摂津の「三島」に由来するか、飛鳥の「島」と呼ばれる地域に住んでいたか、ないしは「頼む人」「大臣」「柱石」のような意味から来ていると考えるのである。ここでは鎌足を鏡王女に推挽する立場で詠われていることを考慮して「(倭)国の柱石」ぐらいに訳しておこう。(※注2:「島(嶋)」について) 「嶺」は「ね」である。「姉(ね)」や「兄(ね)」と同じ用法で、親しみを込めた尊称である。(今で言えば「〜姉」とか「〜兄」とかあるいは「〜さん」というような)何やら判じものめいているが、当時としては普通に使われた呼称だったと考えられる。 (もちろん、歌がもし単独で置かれた場合は、この解釈は殆どこじつけに近い感じになるが、鏡王女が中臣鎌足に降嫁している史実、あるいは続く93・94歌に王女と鎌足の相聞歌が並べられていることからこのように推測できるのである。) だから、「家居麻之乎」は「家居(を)らましを」で、文字通り「(大臣の)家に居てほしい」「住んで欲しい」の意味。もっと言えば「家刀自になって欲しい」、「降嫁して欲しい」と同義である。 91一伝歌:「妹のと、継ぎ手も見むに大和なる大嶋の嶺に家をらましを」 どうだろう。この一云歌は、天智天皇(皇太子)が、鏡王女に対して、藤原鎌足に降嫁するように(鎌足家の家刀自になるように)促した音信歌である。そして鏡王女は天智帝の実の妹ということになる。この歌は、広い意味での相聞歌かもしれないが恋愛上のそれではないだろう。天皇家の族長としてのあるいは親代わりの長兄としての、妹に対する自然な通信と読むべきである。 <91・本歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系): では次に、91本歌を考えてみよう。改作は二箇所にわたって行われている。 (1)初句の「妹之當」→「妹之家毛」の改訂 (2)結句の「家居麻之乎」→「家母有猿尾」の改訂 したがって、改作後の歌意は次のようになる。 何と、この本歌は一云歌とは全く別の歌になってしまっているではないか。この本歌は明らかに男女の相聞歌に変わってしまっている。本来の天智帝の贈歌はどちらだったのか?一云歌なのか本歌なのか?次に置かれた鏡王女の答歌がそれを決定してくれるだろう。 <92歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系): 「秋山〜」といっているので返歌は秋に行われたのであろう。上の句の「秋山之 樹下隠 逝水乃」「あきやまの このしたがくり ゆくみづ」とは、面白い表現である。ここは「我(王女)」の状況(心境)を、自然の姿に擬えて説明する修飾句になっている。「逝水(ゆく水)」とは、スムースに流れて行く水ではなくて、流れが止まって(終わって)停滞している状態の言葉である。王女の「くすぶっている状況」を寓意で述べたものであろう。 「まさめ」は、詞の前後に掛かっている。「逝水のまさめ」=「(滞った)水が溢れる」と、「まさめ思ほす」=「勝って(思ふ)」の両方にである。「(滞った)水が溢れる」とは、暗に「降嫁して外に出る」ことの喩えになっている。「勝って(思ふ)」とは、「(天皇の)御念以上に(自分も思う)」の意味である。だから、原文「御念」は、定訓の「思ほす」よりも「思ほし(思し召し)」ないしは「御思ひ」の訓の方がここでは適切だろう。 92歌:「秋山の木の下隠り逝く水の我こそ益さめ思ほしよりは」 どうだろう。この答歌が、先のどちらの贈歌に相応しいかは一目瞭然であろう。天皇と鏡王女とは、91・一云歌と92歌の贈答を行ったのに違いない。そして、王女の答歌は、天皇の降嫁の指示(促し)に対して応諾した返信と解するべきである。二首は普通の贈答歌であって恋愛上のそれではない。二首が、正規の相聞形式(例えば、共有語を必ず読み込むなど)をとっていないのはこのためである。(もっとも、「嶺」と「山」が共有語という考え方があるかもしれない。歌は同意になっているので) (もう一度定訓との違いを確認していただきたい。歌は、天智天皇と藤原鎌足の特別の関係、厚誼と恩寵の証としてここに置かれていると考えるべきだろう。当時にあっては皇女の臣下への降嫁など全く異例のことであった。) では一体、91歌は何故、何時、誰によってかくも違う歌に改竄されてしまったのか?この改作が明らかに天皇のものではない以上、後代の編集に携わった何者かによって行われたと考えるしかない。改作には、贈答歌を(恋愛)相聞歌らしく仕立て上げようとする(小賢しい?)作為が認められる。とすれば、相聞編の創設の時か? ただ言えることは、この贈答歌は、次に並ぶ鎌足−王女相聞歌(93・94歌)との関係から言っても、原本(旧本か?)にすでに91〜94首の四首一連の姿で並んで置かれていたであろうことは間違いない。とすれば、この改竄の目的は何か?理解に苦しむところである。(※注3:改作の目的) 万葉集には他に8件の「妹之當」の使用例が見られる。それらはしかし、全て「妹(恋人)のあたり」であって「妹(いもうと)」として使われている事例はみあたらない。結局、この改作と、続く人麻呂の二首の歌(136、137歌)が、以後の「妹之當」の使い方を規定したのであろう。(※注4:「妹之當」の他の用例について) とすれば単なる勘違いによる改作か?わからない。だがこれ以上の詮索は無用だろう。良かれと思ってした単純な誤解であったとしておこう。もちろんこの場合は、改作者が鏡王女の降嫁の経緯を知らなかったということになる。(※注5:一伝歌について) <鏡王女について> 日本書紀の、673年(天武二年)2月、天武天皇即位条には「〜天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女〜」とある。そしてここに「鏡王女」と読める記述が存在することに気付くだろう。問題はこの項が鏡王女と関係があるかどうかということである。 この文節は二つの読み方が可能である。 しかしこのA案の問題点は、 B案:「天皇初娶鏡王女、額田姫王生十市皇女〜」 この読み方は、鏡王女を特定できるので、万葉集には都合の良い読み方である。だがこのB案にも問題がある。 (2)それにもう一つ問題がある。日本書紀には、女性皇族の呼称に「〜王」「〜女王」あるいは「〜内親王」の例はあっても、「〜王女」の用例が(殆ど)存在しないのである。 実はここに重大な証言がある。もともと日本書紀の原本(底本)は、「天皇初娶鏡王額田姫王生十市皇女〜」であって、「鏡王女」の「女」は存在しない(しなかった)という説である。(※注6:原本は「鏡王」という説) 魅力的な新説である。だが残念ながら今私にはそれを確かめる術がない。しかし例えば、日本書紀からの古い転記らしい薬師寺縁起(1333年(元弘三年)の書写)にも もし、日本書紀の本来の記述が、「天皇初娶鏡王、額田姫王生十市皇女〜」であるならば、B案の訓の正しさを証明していることになる。そしてここに記載された「鏡王」なる人物は、天武天皇が娶ったといっているのだから女性であることは間違いなく、当然「鏡王=鏡王女(鏡女王)=鏡姫王」は全て同一人物ということになるだろう。(※注7:鏡王=鏡王女について) さてA、B案どちらが適切だろうか?というか、どちらかを選ばなければならない。私はB案の原本「天皇初娶鏡王、額田姫王生十市皇女〜」説を選択する。理由は、現時点における全般的な妥当性による判断というしかない。(この真の解決は偏に原本を調べることである)以下本稿ではこの立場に基づいて論議を進めることにする。もし間違っていればいつか必ず矛盾が生じるはずであり、その時に見直せばいいことだ。 では、日本書紀の本来の記述が「天皇初娶鏡王、額田姫王生十市皇女〜」であるとして、新たに分かったこと、およびそれによって再び発生した問題点を整理しておこう。 分かったこと、 だがこれらの知見は、また新たな問題を提起している。 この理由は判然としない。強いて答えの一つを謂えば、同格と受け取られることを避けたため、ぐらいしか思いつかない。二人の間の何らかの差別、身分違いや従属関係の存在を表現していると考えるのが最も自然ではないだろうか。皇族でなく「王」を名乗る女性には「姫王」と表記したのだと。とすればこのことは「額田王」の出自を暗に物語っていることになる。(※注8:日本書紀と万葉集の表記の違い) (2)では額田王は何故「王」なのか? まあ額田王が何世かの王族であった可能性もないではない。しかし後に中臣大島と結婚しているらしいことからしても違うだろう。何せ臣下と王皇族の通婚は殆どできない時代だったのだから。「王」が職務上の呼称であったとすれば、額田王の本名は「額田」であったということになる。例えば粟原寺銘板の署名には「姫朝臣額田」とある。もし、「姫朝臣額田」が額田王その人であるならば(その蓋然性は高いが)、このことを裏付けているだろう。 (3)それにしても、(鏡王(女)はともかくとして、)日本書紀に額田王の父親(父系、氏族)が記録されていない(省略されている)のは何故だろうか? 鏡王女について話すつもりがすっかり額田王の話になってしまった。さて、鏡王女に関しても新たな疑問が発生している。では何故王女は中臣鎌足に降嫁することになったのか?そもそもそれは何年のことなのか?それに、れっきとした皇女であるのに何故王であり、王女なのか?等々まだまだ問題は尽きない。 本稿、了。 次回【名歌鑑賞14】 ※注1:「妹之當」の訓について ここの「妹之當」は「いものと」で兄妹の「いもふと」の慣用句であった可能性が高い。もっとも、同母妹は「いもと」、異母妹は「いものと」のような区別があったのかもしれないが。 鏡王女(鏡女王)の墳墓は忍坂の舒明天皇稜の域内に置かれており、舒明天皇とは極めて近しい親族(皇女ないしは皇孫)であったと推定されている(河村秀根、中島光風氏ら)。鏡王女(鏡女王)は天智帝の実の(異母ではあろうが)妹と考えて間違いないだろう。鏡王女の降嫁前の92歌は「御歌」とあり、このことと矛盾しない。 ※注2:「大島嶺」について 例えば「嶋(島)」の用語については次のような前例を見ることができる。 ※注3:改作の目的 ただ事情を知らない後代(奈良朝)の改作かと思われる所以の一つに、石川郎女の大伴宿奈麻呂への贈歌129歌の事例がある。 この改作では、歌意の大意に変化は認められない。だが、歌の微妙なニュアンスが変わってしまっている。人によって違うかもしれないが、私としては原作の方が良かったと考えている。本件については別の機会に論じるつもりである。 ※注4:「妹之當」の他の用例について (1)83歌:「海底 奥津白波 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武」 だからといって、天智帝の91歌まで「妹のあたり」と訓まなければならない理由はない。それは何よりもそれが最初の使用例であること。そして「妹のと」の訓がそこでは適切だからである。尚、8首のうち、「妹の當(あたり)」の最も早期の使用例は、柿本人麻呂の(2)136歌と(3)137歌であることは興味深い。以後この歌が使い方を規定したのであろう。 ※注5:一云歌について ※注6:原本は「鏡王」という説 ※注7:鏡王の名前について ※注8:日本書紀と万葉集の表記の違い 興味深いことに、次のような事例が存在する。日本書紀の、天武十二年の条には、「天皇幸鏡姫王之家、訊病。庚寅鏡姫王薨」とあって、天武天皇が病気の鏡姫王を見舞っている。ここで「鏡姫王」と表示されていることに注目するべきである。何故ここでは「姫」が挿入されているのか?何故即位条と同じく、「天皇幸鏡王之家〜」と記されないのか? やはり降嫁によって生じた身分差のためと考えるべきだろう。つまりここの「姫」は、鏡王が臣下になった(皇族で無くなった)のことの証の表記なのだと。尚、万葉集でもこの身分差については厳然と守られている。万葉集では鏡王女は一貫して王女である。しかし鎌足に降嫁する前の作品は「御歌」(92歌)となっているが降嫁後のそれは単なる「作歌」に変じている。もちろん額田王のそれは全て「作歌」である。 (日本書紀天武紀の記録者は同一人物と考えるのが自然である。ただ書紀全体にわたっては、多くの「姫王」の事例が認められるが、必ずしも統一的なルールによって記述されているようには見えない。今後の研究を待たなければならない。) ※注9:額田部氏について (2006.06.15.M.A.) <参考文献> 個別書: |