HH512241.DOC 【名歌鑑賞14:鏡王女の降嫁2】 森 明 <万葉集巻二・相聞:93・94歌・(95歌)> <原文> 内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首 内大臣藤原卿の、鏡王女に報贈せし歌一首
<93歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系): 「玉くしげ」は「櫛箱」「化粧箱」の美称である。あるいは王女の名前にちなんで「鏡の箱」の意味が込められているかも知れない。要するにここは、転じて「女性の大切なもの=魂、操(みさお)」の寓意で、暗に王女自身が喩えられていると考えられる。「覆ふ」は「蓋」のことで、「(玉くしげの中の)隠されていること」「(玉くしげの中の=私の)秘密」の趣意だろう。「やすみ」は「簡単に」と「休んで、寝て」の二つの意味がある。「明けて」には「(玉くしげの、私の秘密の)蓋を開いて」と「(臥所をともにして)夜が明けて」の両方の意味が掛けられている。 上の句の意味は、「女性(私)の大切にしている秘密を簡単に暴いて(結婚して夜が明けて)」である。いつの世でも同じで、女性は常に神秘性を保持して置きたいのだろう。全てがあからさまになっては興ざめであり嫌われる原因にもなりかねない。この辺は女性の本能的な羞恥の仕草というべきかもしれない。それにプライドもある。 「君が名はあれど」は少々変わった言い方である。本当は「君の名は上がれど」と言いたい所なのだろうが、それでは自分を相手より高みに置く、しょった言い方になってしまう。それに鎌足はすでに名声を博しているのだから今更「名が上がる」必要はない。ここは「君(貴方)の名は変わらないかも知れないけれど」「君の名はそのままかも知れないけれども」と謙譲に述べたものであろう。鏡王女の奥ゆかしさを感じさせる、配慮された言葉遣いである。 93歌:「玉くしげ覆ふをやすみ明けていなば君が名はあれどわが名し惜しも」 やり取りからして二首はいざ結婚の挨拶歌と考えられる。普通は、男女の相聞歌は男性側から発するのが定法であるが、身分の違いからか王女から投げかけられている。といっても、唐突に王女が鎌足に歌を贈ったとは考えられない。まず、鎌足の方から王女への訪問が丁重に伝えられたのであろう。当然それは正規の使者を立てて行われたに違いない。そしてこの93歌は、その伺いに対する王女の返信と考えられる。 王女の立場としては、天皇の打診に対しては一応応諾の返事をしたものの、このことはまだ世間一般に知られているわけではない。それを(その秘密を)おおっぴらに鎌足が妻問いしたりすれば、あらぬ噂が立つかもしれない。その注意を仮定法で喚起しながら(構文の「〜ば〜する」は仮定法による婉曲表現である。)、つまり一応は注文をつけながら(羞恥の振りであって拒否ではない)、訪問そのものに対しては暗に了解を伝えている。 自分のプライドを保ちつつ応諾する。相聞の微妙な駆け引きが詠われている。この辺のニュアンスを散文で表現するのは難しい。しかし、歌には何かその雰囲気を楽しんでいるような余裕さえ感じられ、王女がそれ相応の年齢であったことを伺わせる。 <94歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系): この歌にも、「或る本」歌が紹介されている。本歌と或る本歌との違いは、「将見圓山(みもろの山)」と「三室戸山(みもろと山)」である。微妙な意味の差異はあるのかも知れないが、あくまでも呼称の言い換えで歌意そのものに変化は認められない。(強いていえば、「将見」の謂いには暗に「逢いたい」の込められているのかもしれない。とすれば、こちらの方が最初歌であったか?) 「玉匣 将見圓山乃 狭名葛」の「玉匣(くしげ)」は、前述したように「櫛を収める美しい箱」の意であるが、相手(鏡王女)に対する美称でもある。「将見圓山(みもろの山)乃 狭名葛」とは、「神々しい山(=三室の山=三輪山)の狭名葛」の意味だろう。尚、葛(かずら)は、定説ではマメ科のつる草となっているが、ここは桂(かつら)のことである。桂には雄木と雌木の二種類があり、家具材として用いられる。つまり、「玉匣」が桂(葛)製という設定と考えられる。 だから「狭名(さね)葛」とは実(核、さね)の生る雌木桂のことである。あるいはまた「狭名(さな)」には「高名な(桂)」「代表する(桂)」のような意味も暗に含まれているのかもしれない。贈歌で王女は「名」を気にしていた。上句の意味は「玉匣とは、あの三輪山を代表する(雌木)桂(=鏡王女様)のことですね」となる。 下句の「佐不寐者遂尓 有勝麻之自」の「佐不寐者(さねずは)」には、「狭名(さね、実)のない葛=雄木桂=私、鎌足」と、「さ寝ずは」=「寝ないのは」の両方の意味が掛けられている。「遂尓(つひに)」には、「遂に」の「決して」の意味と「対に」の「一対に」「夫婦に」の意味が掛けられている。 94歌:「玉くしげ三室の山のさな葛さ寝ずは遂にありかつましじ」 なかなか複雑で凝った返歌ということができるだろう。歌は、葛(桂)に雄木と雌木のあることに託けて応えている。読み方によっては少々際どい表現もあるようだが、それはもう大人同士の洒脱さということで。贈答は「玉匣」を共有語にした正規の相聞形式に則っている。この2首は、万葉集上に現れた、作者名の分かる最初の相聞歌ということができるだろう。 どうだろう。万葉集巻二・相聞天智天皇代の冒頭に置かれた、一連の91〜94の四首の歌は、鏡王女の中臣鎌足への降嫁に係わる、(天智帝の働きかけから婚姻が成立するまでの)一部始終を述べた作品群であると断定していいだろう。当時、臣下身分が皇女を娶ることなど考えられないほど異例のことであった。鎌足が単に寵臣と言うだけでは説明のできない、並々ならぬ恩顧ということができる。いやむしろ(逆にそうせざるを得なかった)当時の政治的緊迫を斟酌するべきかもしれない。 <鏡王女の生い立ちと初娶の時期> これは極めて重要な情報である。とすれば当然、額田王とは面識があるどころか同じ職場の仲間であったことになる(からである)。もちろん、鏡王女は皇女身分だから、采女出身の巫女であったらしい額田王に比べれば位はずっと高かったであろうが。 何時頃からか?もう一度、あの日本書紀の記述「〜(天武)天皇初娶鏡王(女)、額田姫王生十市皇女。〜」を思い出して欲しい。鏡王女と額田王の二人は大海人皇子の「初娶」の愛人であった。とすれば、二人は若い頃から、斉明(皇極)女帝に属する後宮の巫女集団に居た、と考えるのが妥当ではないだろうか。 (そうすると、鏡王女が皇女身分であったにもかかわらず「鏡王」と名乗っていることも何となく腑に落ちるだろう。神の前ではあえて皇女を名乗る意味はなかったのだと。「〜王」は神に仕える女性、いわゆる巫女の呼称だった可能性がある。巫女には様々の階層の出身者が居た。といっても、「〜王」を名乗る者はそれなりの役割を担った高位の巫女であったと考えるべきかもしれないが。) おそらく、斉明(皇極)女帝に仕えていた頃、二人は相次いで大海人皇子に見初められたのだと私は推測する。しかし巫女が男性と通じることはタブーであったはずだ。がそこは息子、女帝は大目に見たのであろう。ただ、それはあくまでも正式の結婚の「納れる」ではなく、女帝の下に出仕しながら皇子から妻問いを受ける関係の「娶る」であったと考えられる。そして額田王には十市王女が生まれ、鏡王(女)には子供はいなかった。 では大海人皇子の、この「初娶」の時期は何時だったのか?私は、皇極女帝紀の642年(皇極元年)〜645年(皇極四年)の間が最もその可能性が高いと推量する。というのは、二人が後宮の巫女であったとしたら、本来天皇以外の人間が「娶る」ことなど絶対に許されなかったはずと考えるからである。だからそれが(公然と?)行われたとすれば、それは皇極女帝時代しか考えられない。唯一、女帝の場合で、しかも母親だったから大目に見られたのだと。 鏡王女達の年齢は?残念ながらそれを窺わせる記録は存在しない。だが、当時女性の結婚や宮廷出仕は13歳以上と決められていた。もし、二人が皇極紀に後宮に出仕していたとすれば、、最も遅い場合で、645年(皇極四年)13歳ということになる(この場合、633年(舒明五年)誕生ということになる)。もちろんこれは最も若く見積もった場合の年齢であって、おそらくそれよりは数歳年長であったと考えるのが自然だろう。なお鏡王女と額田王の長幼を推し量る資料は存在しない。ほぼ同年輩と考えなければならない。 「鏡王女、額田王は皇極女帝紀に出仕していた」問題はこの推論の妥当性だろう。これを裏付ける資料があればいいのだが…。しかし驚かされるのは、この確実かとも思われる事柄の、文献による証明が殆ど不可能なことである。残念ながら日本書紀には、二人の皇極紀の出仕を裏付ける記事は全く存在しない。唯一、万葉集のそれらしい記事を除いて。(※注1:万葉集7歌について) ただもし、二人の「初娶」が皇極紀(643〜645年)であったことが間違いないとすれば、歴史上のいくつかの未解決の暗部に光が当てられることになる。一つは、「二人の年齢および十市皇女の出生(年齢)の問題」である。そしてもう一つは、「天智・天武兄弟問題」である。(※注2:「初娶」の時期からの歴史考証) <鏡王女の降嫁(その時期と理由)> だいたい、天智朝(662〜671年)での結婚と言っても、663年(天智二年)の白村江の敗戦、664年(天智三年)の島皇祖母命の薨去、665年(天智四年)の間人皇后の薨去と、国家(皇室)に一連の不祥事が続いたから、慶事ともなれば、あの大友皇子と十市皇女が結婚したと推定される666年(天智五年)以降としか考えられない。 実は、それを解明する重要なヒントが歌に隠されていると私は見る。92歌の「秋山の木の下隠り〜」の謂いの中に。そしてここで気付かないか、額田王がかの春秋優劣判別歌で「〜秋山我は」と詠っていたことを。もしかしたら、王女の言う「秋山」には暗に額田王の歌が意識されていたのではないのか?と。どうだろう、そうすると歌の作詠された時期が自ずと浮かび上がってくる。と同時に「秋山の木の下隠り〜」の歌のもう一つの姿が見えてくる。 春秋優劣判別歌は666年(天智五年)の春、2月ないし3月の作歌と推定される。とすれば、鏡王女の92歌「秋山の〜」の歌は同年の秋と判断していいのではないだろうか。したがって、王女の藤原鎌足への降嫁は、同666年(天智五年)の秋か、遅くとも冬ということになる。鎌足は、王女を「三室戸山(三輪山)のさな葛」と呼んでいる。もし、翌667年(天智六年)の大津京遷都以降だったらこのようには詠えないはずである。王女の降嫁は、ほぼ666年(天智五年)末と判断して間違いないだろう。とすれば、先述した女性の出仕年齢から推測して、この時鏡王女は34歳以上と算出できる(上限は、天智帝の3歳年下と考えれば38歳。尚、中臣鎌足は53歳ぐらい)。 国家(天皇家)祭祀主宰(権)者と当時の鏡王女の立場: 斉明・天智朝の時代は、未だ祭政が分離しておらず、(もちろんこの頃はすでに政が優位ではあったが、)政策は神意の了解(追認)を得ることが必要であった。当然、為政の長たる天皇と祭祀主宰者(皇命?)とは密接な間柄であることが求められる。だから、祭祀主宰者には皇后かそれに準ずる、天皇に最も近しい女性皇族が任命されたと考えられるのである。この意味では、当時の後宮とはすなわち神事祭祀をもっぱらとする集団であったと言えるかもしれない。 国家(天皇家)祭祀主宰者の系譜は、〜→宝皇后(斉明天皇、〜661年)→間人皇后(中皇命、661年〜665年)→(倭姫王?)→倭姫皇后(668年〜)→十市皇后?(672年?)→鵜野讃良皇后(673年〜)→大伯皇女(伊勢斎宮、675年〜) この系譜での問題点は、665年の間人皇后(中皇命)の薨去から、668年の倭姫の立后までの間、誰が祭主(皇命)であったか不明なことである。一体この間誰が祭祀主宰者であったか(になったか)?空位であったかもしれない。だがもし、祭主権者が指名されていたとしたら、668年(天智七年)に立后した倭姫王が、すでにその立場にあったと考えるのが最も自然ではないだろうか。 とすれば、666年(天智五年)は、天智朝にとって重要な結婚(後宮人事)が続いた年であった可能性がある。 では、鏡王女はこの頃後宮(祭祀集団)にどのような立場で関わって居たのか?鏡王女が斉明(皇極)女帝以来、その下で祭祀に携わっていたとしたら、その身分、年齢からいってもかなり高位の役割を担っていたと考えなければならない。 そういえば鎌足は王女を「(三諸戸山の)さな葛」=「(後宮の?)高名な葛」と呼んでいた。「戸」には、「刀自、管理する」の意味が込められているようにも受け取れる。とすれば一般の巫女たち(三輪山=後宮)を束ねるような職掌についていたと考えるのが妥当ではないだろうか。斉明紀から天智紀の初期にかけて、後宮に斉明女帝・間人皇后(中皇命)−鏡王女(管掌)のラインが形成されていた可能性が高い。そうすると、二人の結婚は言わば外廷(中臣鎌足)と内廷(鏡王女)の重鎮同士の宥和という一面も持っていたことになる。(※注3:大安寺縁起について) 降嫁の理由: ところで王女は天皇の指示を受け入れながらも、意味深長ともいえる言葉を吐露している。もう一度92歌を検討してみていただきたい。 この、「秋山の木の下隠り逝く水の我〜」の謂いからは、誰もが王女の自虐と屈託の心境を感じ取るに違いない。もし「秋山」が、先述したように、額田王を意識しているとすれば、あたかも額田王の下風に立って密かに苦しんでいたようにも聞こえてくる。しかしそれは考え難い。十市皇女の件で羨ましいとは思っていたかもしれないが、まさか、当時の王女の地位そのものがこの言葉どおりだったとは考えられない。何せ鏡王女は皇女身分なのだから。 では、王女のこの鬱屈ともいえる心境の原因は何だったのか?それには666年(天智五年)に何が後宮に起こったのか?を考えなければならない。 というのは、大津京への遷都そのものが、新国家、新律令体制の建設が目的であったらしいからである。当然、後宮の職制刷新も企図された可能性がある。このことは天武朝に行われた祭政分離の初期段階をと捉えることができるかもしれない。(※注4:唐制を参考にした後宮組織) <92歌のもう一つの意味> 92歌:「秋山の木の下隠り逝く水の我こそ益さめ思ほし(御思ひ)よりは」 歌からは、当時の鏡王女の複雑で孤独な心境を察することができる。親しかった母や姉が相次いで逝き一人残されてしまった。そして押し寄せている変革の波にうまく乗れずに閉塞している自分。かって同じ人に愛されながら額田王には十市皇女という子供に恵まれたのに自分には居ない。しかも、今や十市皇女は天智帝の愛子大友皇子の妃となり、妊娠さえ伝えられている。喜んでいる周囲に比べて、自分はと言えば、相変わらず独りぼっちで、もう若くはなかった。 何時の世でも、組織社会は陽のあたる存在とそうでない陰を作り出す。そして誰もが、突然訪れる境涯の変化に、目標や希望を見失い、比べてはならないと思いつつ他と比較して傷つき、自己卑下的な鬱情にかられることがある。かっての同僚や若い世代が輝き、見事に適応している様子を、傍らでじっと眺めていなければならない者の思いには辛いものがある。 いささか自嘲気味なのは、王女の心細さと寂しさの現れであろう。素直に周囲の慶事を祝う気持ちになれず、落ち込んだ心境にいたと考えられる。おそらく額田王らに対する羨望と嫉妬に苛まれて人知れず苦しんでいたのではないだろうか。「秋山の木の下隠り〜」の謂いには、華やかに紅葉した秋山(今を時めいている木々)の陰に、一人疎外された気持の、いじけていると自覚する、惨めな思いの王女がいる。 天智天皇の思惑には、大津京遷都に伴う、(倭姫の立后も含めた)将来の大友皇子−十市皇女体制が念頭にあったに違いない。いずれ若い夫妻中心の宮廷となれば、当然後宮も二人に相応しい姿に改編されるはずである。そうなれば、いかに身分が高貴であっても(逆に高貴すぎて)鏡王女は浮き上がった存在になりかねない。 であるなら、たとえ降嫁であっても自分の城を持たせてやりたいとの、兄としてまた天皇家の長としての思いやりが生じたとしても不思議はないだろう。とすれば、まだ若い今をおいてない。当時の時代情勢、立場を考えれば、個人の意思(願望)に基づく結婚は望むべくもなかった。だから、あまり僻んだり、邪推したり、政治の裏を詮索せずに素直に「妹の継ぎ手(跡継ぎ)が見たい」との好意を受けておくべきではないだろうか。 鏡王女も分かっていたのだろう。新旧の交代の時期が来ていたことを。そしてすでに自分の春秋の時代は過ぎてしまったことを。鏡王女の中臣鎌足への降嫁は(当時としては異例だったかもしれないが)、鬱屈する気持ちに苦しんでいた王女には、新天地をもたらす、むしろ渡りに舟の朗報だったのではないだろうか。歌にその気持ちが表れている。92歌の応諾にはそうした背景があったものと推量されるのである。 それにどうだろう。92、93歌の詠いぶりからは、鏡王女はどちらかと言えば女性的で内に向く性格のように見受けられないか。もしそうだとしたら、宴席での接待とか内廷を切り盛り(管掌)するような新たな役柄には、むしろ活発で物怖じしない額田王の方が適任だったのではないだろうか。 <鏡王女降嫁のもう一つの理由、時の政治情勢> というのは、こうした恩寵は、天皇の意思がどこにあるかを群臣に知らしめる統治手法(政治手法)の一つであったと思料されるからである。このような事例は今回が最初ではない。かって征西(百済復興支援戦役)にあたって、天智帝は弟の大海人皇子に対して自分の娘(大田皇女、鵜野皇女)を与えてその活動を全面的に肩入れ・支援していたではないか。当時大海人皇子は大将軍として征西の軍事責任者であった(と私は見る)。 663年(天智二年)の白村江の敗戦以来、唐・新羅連合軍の侵攻を恐れて国内の防衛体制の整備に追われていた天智政権に、唐使が訪れたのは665年(天智四年)であった。おそらく対高句麗戦に絡んだ和平使節だったのだろう。その結果倭国政府内に二つの路線の選択が生じたと考えられる。一つは和解の態度を疑い(和解を拒否し)、あくまで戦争を継続しようとする大海人皇子ら軍部と、その機会を生かし、交渉によって危機を打開しようとする中臣鎌足らの和平路線である。 天智天皇(当時は皇太子)はどのような立場であったか?今回は、全面的に鎌足らの献策を採用したと私は推量するのである。天皇は、これ以上の交戦は無理と考え、唐との和親を図ろうと決断したのであると。無理もない、それまで多大の犠牲を払って準備したかけがえのない国富(人材、資材)が一瞬のうちに海の底に沈んでしまったのだから。しかも何時果てるとも知れない防衛体制を整備しなければならない。現実の国力と情勢では、最早半島の利権の回復は諦めなければならないと判断したのだと考える。逆にこじれれば本土への侵攻さえ招きかねないとも。 (百済戦役の現地責任者は大海人皇子であったと推量される。だが敗戦の結果は具に報告され、徹底的に究明されたのであろうか?敗戦の直接の原因は、のっぴきならない現地での、不利な条件での戦闘を強いられたことにあったのかもしれない。情報が筒抜けで、上陸作戦にはなによりも大切な奇襲の状況が失われていた。(というか、敵は来ることを知っており、味方は待ち構えていることを知らなかった最悪の状況。)そして資材や人員を満載した鈍重な輸送船団の身で、地の利を得て十分に準備し待ち構えている敵と交戦しなければならなかった。 おそらく実際に現地で戦った者と、内地で捷報を期待していた者との間には、現状認識や言い分の点で齟齬が生じたことは十分に考えられる。情報不足で、敗戦の事情が呑み込めない国内待機組に危機や嫌戦の思いが強まったとしても何の不思議もない) 結果、天智天皇は、半島の失地回復をあきらめ、新たな国是を、和平、国内建設(新律令国家の建設)に切り替えたと私は推測するのである。それらの方針転換は、交渉・内政派の中臣鎌足らの献策を入れた結果であったかもしれない。だから鏡王女の降嫁は、鎌足らの和平路線に対する、天皇の支持・加担の意思表示であったと私は考えるのである。 (当時の唐使との交渉を見るとその経過が明らかである。書紀によれば、665年の最初の来使に対して、倭国政府は不思議な対応をしている。正使でない旨をもって上京を許さず、太宰府からそのまま退去させる一方で、内臣の中臣鎌足は饗応使を派遣している。両様の対応がなされたことは国内に両様の意見があったことをうかがわせる。 来使を引き取らせたのは軍事路線派であり、接待したのは内政(交渉)派であったと。おそらく対応について激論が戦わされたであろう。そして両様の応接をして様子をみたのであろう。しかし、翌年の唐正使の再来は、倭国政府(天皇)に決定的に和平に向かわせる契機になったと推察できる。) 改めて当時のそうした政治的観点に立てば、鏡王女の降嫁には、天智天皇の並々ならぬ政略が秘められていることが分かるだろう。666年(天智五年)は国家の極めて重要な方針転換が決意された年であったのだと。だから鏡王女降嫁の目的にはもう一つの理由を加えなければならない。 鏡王女の転出は、天智朝における広くかつ長期的な国家建設、機構改革、人事構想の一環であったと考えられる。王女の降嫁は一石三鳥もの効果を狙った政治的奇策であった可能性が高い。等と言えば人間を政策の道具にしか考えないと、非難を浴びそうである。だが、当時の氏族社会制度や支配(為政者)階級に属する王女の身分であってみれば、それは止むざる措置ではなかったろうか。それは王女も承知(覚悟)していたものと考えられる。とはいっても、政略だけを結婚の理由にされては当事者にとって身も蓋もないのも事実であろうが。 かくして鏡王女の後任には額田王が指名された(と考えられる)。これによって、額田王は近江朝廷の政治中枢に係わる、後宮の高官「紫のにほへる存在」に就任した、と私は推量する。そしてこのことは翌年の大津京遷都にあたっての「三輪山惜別歌」、さらに「蒲生野遊猟歌」の作詠へと繋がっていく。 <万葉集巻二・95歌:鎌足のもう一人の妻> <原文> 訳文1(新日本古典文学大系本):
本来采女は天皇の所有物であったから、臣下が勝手に娶ることはできない。とすれば、安見児は天皇から特別に拝領した(賜った)と考えなければならない。それは何時のことであったか?「安見児」の謂いからはまだ少女のような娘が想像されるし、歌体からいっても鎌足がまだ若かった頃の作品を髣髴させるものがある。如何に寵臣とはいえ、鎌足がそんなに大勢妻を拝領したとは思えないのだが。 藤原鎌足の妻女としては、正室の鏡王女の他もう一人、車持与志古娘子が知られている。尊卑分脉によれば、車持国子の娘で長男定恵、次男不比等の母親とある。長男の定恵の出生が643年(皇極二年)であることから、少なくとも車持氏との結婚は、642年(皇極元年)前後ということになるだろう。問題はこの車持与志古娘子が安見児なる采女かどうかということである。 藤原定恵の孝徳後胤説について: ところで藤原(中臣)定恵は出家後の名前で俗名は「真人」というらしい。「真人」と言えば、真っ先に思い出すのが、684年(天武十三年)の「八色の姓」の制定である。この時「真人」は姓の第一位に定められた(ちなみに「朝臣」は第二位)。「真人」は皇族出身氏族にのみ与えられたから、「貴種」、「王族」のような意味があったと考えられる。ただ定恵の「真人」は、この「八色の姓」制定のはるかに先行する事柄である。だから、「真人」の命名に果たして「皇族」のような意味が込められていたかどうかは判然としない。 だが真人定恵の、その後の数奇な運命、時の重臣の長男としては異様な、若年(11歳)の出家と唐への留学、そして帰朝後の死等々の境涯を辿ると(孝徳天皇の政治的浮沈と奇妙に一致する)、やはり孝徳後胤説を裏付けているように思えてくるのである。藤原真人(定恵)の孝徳後胤説はかなり可能性が高い事実であったのではないだろうか。(ちなみに孝徳天皇の第一子の有馬皇子(母親は正妃の阿倍小足媛)は640年(舒明十二年)の出生である。定恵よりも3歳年長ということになる。) とすれば、伝承の孝徳天皇妃(元亨釈書)=車持与志古郎女(尊卑分脉)=采女安見児(万葉95歌)という等式が導かれることになる。もっとも後の等号については確かめる方法はないが。ただ、万葉集編者が、「鎌足は二度妻を拝領している」事実を伝えようとして、ここに95歌を置いていることは間違いない。となれば、歌が鏡王女歌の後尾に配置されているからしても、安見児=車持与志古娘子のことと考えるのが普通だろう。 采女の拝領は天皇の特別の恩寵による。もし、642年(皇極元年)ないしは翌643年(皇極二年)に中臣鎌足が結婚した車持与志古娘子が、この拝領による「安見児」なる采女で間違いないとすれば、軽皇子の要請により皇極天皇から与えられたことになる。(あるいは軽皇子が皇極天皇から与えられたのを更に下賜したということになる。)いずれにしても、軽皇子は時の皇極女帝の同母の弟であったから采女を妻にすることが許されたのであろう。この所業は、この頃大海人皇子が鏡王女や額田王を「初娶」したのと符合する。それにしても現代では考えがたい、当時の采女身分の不安定を物語る話ではある。(※注6:95歌作詠の時期) 藤原不比等の天智後胤説について: 藤原不比等の死は720年(養老四年)で、懐風藻その他によれば63歳とある。するとその誕生は、逆算して658年(斉明四年)(ただし659年説あり)となる。一方これまで見てきたように、鏡王女の降嫁は666年(天智五年)と想定されることからして、不比等が鏡王女の出生ではありえない。尊卑分脉には不比等の母親は定恵と同じ車持与志古娘子(同母)と記されている。 やや不審な点といえば、次男不比等の誕生は、長男定恵から遅れること15年後にあたるから、同母の息男とすれば少々間が開きすぎのように思えないでもない。だがその間は恐らく女子の出生が続いたのだろう。鎌足猶子の中臣意美麻呂の妻や大友皇子の妃(耳面刀自)等は、おそらく不比等の同母の姉であった可能性が高い。 ところで、尊卑分脉によれば、不比等は若年に「憚ることあって」山科(山階)の田辺史に預けられたと伝えられている。ではこの「憚ること」とは一体何で何時のことであったか?推測するに、鏡王女の降嫁の時(666年)と考えるのが最も自然ではないだろうか。用心深い鎌足のことだ、身辺をきれいにして王女を受け入れたのであろう。とすれば、不比等9歳のときである。 本稿 了。 次回、【名歌鑑賞15】
もっとも「明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇」を皇極天皇代と確定するには、史実的には若干問題があるかもしれない。というのは、日本書紀には、皇極紀の宮都としては「明日香板葺宮」が記録されているからである。ただこの齟齬については、「明日香川原宮」とは正確には「明日香川原板葺宮」であったとされ、現在ではほぼ定説になっている。とすれば「額田王は皇極天皇代に出仕していた」とほぼ断定していいのではないか。尚、この7歌についてはいずれもっと解明する必要があるだろう。 ※注2:「初娶」の時期からの歴史考証 <十市皇女の推定年齢> 尚、十市皇女の出生を、同じ女帝時代といっても斉明紀(655〜661年)に繰り下げることは、次の理由であり得ない。一つは十市皇女が仮に655年生まれとしても、大友皇子との結婚のあった666年(天智五年)は弱冠12歳の少女であったことになる。二つは、それでは高市皇子より年少となり、日本書紀の天武二年条「〜天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女、次納胸形君徳善女尼子娘生高市皇子命〜」に矛盾する。高市皇子は扶桑略記によれば654年(白雉五年)誕生である。 <「天智・天武兄弟論争」へのアプローチ> 一方、天武天皇の年齢を推定せしめる記事は書記には一切見当たらない。ただ、舒明天皇の二年条に「二年の春正月の丁卯の朔にして戌寅に、宝皇女を立てて皇后としたまふ。后二男一女を生みたまふ。一を葛城皇子と曰す。二を間人皇女と曰す。三を大海皇子と曰す。〜」とあって、天武天皇(ここでは大海皇子)は天智帝の同父母の弟と位置づけられている。当然、天智帝よりも数歳年下と考えるのが普通だろう。 ところが、原典が不明ながら中世の資料によれば、686年(天武十五年)の天武の死に65歳崩御説(622年(推古三十年)誕生)や73歳崩御説(614年(推古二十二年)誕生)が存在する。そしてこれから計算すると、天武年齢は、日本書紀の天智帝の年齢と逆転してしまうのである。不思議なことに、それら中世資料の多くは、(書紀との矛盾に気付いてか)天智年齢を改訂して兄弟関係が覆らないように工夫している。つまり、書紀の舒明天皇十三年条(天智年齢)よりも舒明天皇二年条(同父母兄弟)を優先していることになる。 近年この点に着目して、従来の(日本書紀の)天智(兄)・天武(弟)の同父母兄弟説を疑い、非兄弟説を打ち出したのが佐々克彦氏であった。その後、多くの史家や作家(小林恵子、大和岩雄、井沢元彦各氏等々)が発言し、異父兄弟説や非兄弟説、果ては天武天皇の外国人説等々が提唱されるにいたっている。 ただこれらの説はいずれも現在の学会では認められていないようだ。要するに、正史である日本書紀の記事に比べて、それら中世の(後世の)資料には、それを覆すに足る信頼を置けないというのがその理由につきる。 (この問題は難問である。一般論として、ある史料が、もし本気で隠蔽しようとした事実があったとしたら、それはどのようにして明るみに晒され得るのか?その史料だけをいくら詮索しても真実を見出すことは困難であろう。一定の矛盾は指摘しえても記事の内容そのものを改変するのは難しい。可能性があるとすれば、それよりも古くかつ確実な別資料によってその覆いを取り去るしか方法がない。実際、中世資料が存在しなければ、書紀の記事が疑われることは無かった。 ただその史料が最も古い正史だったとしたら?それに、正史以前の資料が故意に湮滅されていたとしたら?覆す証拠は望めなくなり、その歴史的完全犯罪を暴くことは殆ど不可能ということになってしまうだろう。「真実を見出さない限り、史家は真理を手にすることはできない」) 本稿では、万葉集から得られた幾つかの新しい知見から、この「天智・天武兄弟論争」に少し関わってみようと思うのである。 論を進めるにはもう一つの仮定が必要になる。 そして、この「皇極紀の天武推定年齢」こそが、いわゆる「天智・天武兄弟論争」にアプローチするための私の論拠なのである。
1)表は大和岩雄氏の「天智・天武天皇の謎」所収の記事を基に誕生年に変換した。 上述の表によれば、資料は幾つかの類型(A〜E群)に区分できることがわかるだろう。それぞれについて検討して見よう。 (A) 資料(1)「日本書紀」の検討 一方この時大海人皇子は何歳だったか?書紀の舒明天皇二年条「大海人皇子は天智帝の次の次の弟」(葛城皇子→間人皇女→大海皇子)からすれば、常識的には天智の3〜5歳年下と考えるべきだろう。仮に中をとって4歳年下であったとして、皇極紀の642〜645年に大海人皇子は13〜16歳という計算になる。ぎりぎり2歳年下と考えれば15〜18歳。当時の年齢は満ではなく数えであった。すると現在ではほぼ中学生(ないしは高校生)に相当する年齢で、鏡王女と額田王の二人を「娶り、子供を生ませた」ということになる。 このことは矛盾であるか?私は大いに矛盾であると考える。十代で鏡王や額田王を「娶る(恐らく妻問う)」には二つの点で疑念がある。一つは結婚そのものの可能性と、もう一つは出会いの可能性である。当時男子は21歳が出仕年齢であった。母親の所とはいえ、はたして大海人皇子は未成年で後宮に自由に出入りできたのであろうか?少なくともそんな身分で、後宮の深窓に居住する巫女の「娶り」が許されたのだろうか?普通は考え難いだろう。(確かにこの頃、中大兄皇子は、十代で蘇我石川麻呂の娘の蘇我造媛を「(自分の宮に)納れて」いるがこれとは同一視できない。) (B)資料(2)「興福寺略年代記」の検討 それにしても、この資料に記された天武622年誕生説(没年65歳説)は何に由来するのであろうか?何らかの伝承があって書き留められたとしか考えられない。それにこの天武622年誕生説は、次に述べる意味で注目に値する。これによれば、「皇極紀の天武推定年齢」が丁度21〜24歳に相当するからである。 繰り返すが、当時、男子は21歳をもって宮廷への出仕が許された。だからこの期間に大海人皇子が宮廷に勤務したとすれば、母親の関係で後宮に出入りする機会があったとしてもおかしくないし、深窓にいる鏡王女や額田王との交渉が生じたとしても不思議はない。つまり、後宮への「出入り」と「出会い」の二つの難問が一挙に氷解するのである。 後の大海人皇子の武人的性格からすると、最初の出仕は衛士のような職務ではなかったろうか。例えば女帝が身辺警護のため呼び寄せたとか。もっとも中大兄皇子の実弟にあたる高貴の身分で宮廷に出仕することなど考えがたいが、当然この場合は真の同父母弟ではないことになる。 問題は、この「興福寺略年代記」なる資料の出自と信憑性だろう。私は文献学者ではではないので当該資料の詳細について全く知識がない。が、ただ「興福寺」といえば、鎌足嫡妻の鏡女王が創設した山階精舎に由来する藤原氏所縁の寺院である。とすれば、もしかしたら日本書紀に先行する一級の資料足りえる可能性があるのではないだろうか。文献の精査が必要であろう。今後の研究を乞う次第である。 (C)群資料(3)〜(5)の検討 この資料群は、明らかに「興福寺略年代記」(あるいはその原本)を根本資料にしていると考えられる。ただ、それでは天武が年長になってしまう矛盾に気付き、天智年齢を潤色したのだろう。潤色に二種認められる。一つは単純な年齢操作と思われる資料(3)と、二つは、それに理由付けをした(おそらく、日本書紀の開別皇子の「舒明崩御時」誄を→「舒明即位時」に一支繰上げ)資料(4)(5)とである。 したがって資料としての成立は、B:「興福寺略年代記」→(3)→(4)(5)という順番になる。この改鋳では、天智年齢を固定して天武年齢を改訂する立場もあったかと考えられるが、さすがに根拠に窮したのであろう。それだけ、天武没年の伝承が有力だったともいえる。 (D)群資料(6)〜(8)の検討 要するにD資料は、B資料:天武622年生説(天武65歳崩説)→C資料:天智614年生説(天智58歳崩説=天智は天武の兄)→D資料:天武614年生説(天武73歳崩説=天智と同年双子兄弟)と、机上操作によって作り出した芋ずる式の三次情報の可能性が強い。 何故こんなことをしたかと言えば、やはり天武年長の伝説が払拭できなかったからであろう。しかし天武614年生説では、「皇極紀の天武推定年齢」は30歳前後となり、二人を「初娶」したにしては少々年長に過ぎることになる。十市皇女より年上の子供が数人いてもおかしくなさそうである。違うだろう。 (E)資料(9)「近年の倒錯説」の検討 結論 非常に興味ある結論であるが、あくまでも仮説による推論の結果であるから通説を覆すところまでは行っていないかもしれない。問題の鍵は、現在のところ「興福寺略年代記」が握っていると考えられる。が、果たしてそれだけでこれまでの根強い定説(日本書紀)を清算できるかどうか。今はこれだけのことしか言えない。だがそろそろ我々は、「天武年長説」を受け入れる準備が必要なのではないか。 ※注3:大安寺縁起について ここに登場する人物を、当時の状況で(舒明天皇との関係で)比定するとすれば明らかだろう。 ※注4:唐制度を参考にした後宮組織 ※注5:「多武峰略記」の記事 ※注6:95歌作詠の時期 蝦夷の歌では、河をこれから徒歩で押し渡ろうとする準備と心構え(決意)が詠われている。歌はTPOや悪意の解釈によっては不遜・威嚇と取られかねない。実際書紀では蘇我氏の専横の証拠として記録されている。地位や年齢、立場や状況の違いとはいえ、蝦夷の歌と、恩寵にひたすら喜ぶ鎌足の歌の対比が面白い。 それにしても、他人の子供を身ごもっている相手にこうして手放しで大喜びできるものか現代の感覚では解せない面もある。それだけすばらしい女性だったということか、あるいは半分は演技なのか。いやここにこそ鎌足の真骨頂があったのかもしれない。少なくともこう詠って傷つく者はいないだろう。車持与志古娘子は永く鎌足の正妻の地位にあったことからしても、鎌足に愛され大切に扱われたことは間違いない。ただ、歌が天智天皇代に置かれていることから、作品が皇極紀のものかどうか(ということは、鎌足本人のものであるかどうか)は不明という他はない。 (2006.09.15.M.A.) <参考文献> 個別書: |