HH510051.DOC 【名歌鑑賞15:三輪山惜別歌】 2006年12月15日 森 明 <万葉集巻一・雑歌:17・18・19歌> <原文> 反歌 19歌: 反歌 19歌: この額田王の有名な「三輪山惜別歌」とも言うべき歌は、18歌後注の類聚歌林が言うように、667年(天智六年)3月の近江遷都に係わる歌であることは間違いないだろう。ただ、歌が遷都のどのの段階で詠まれたのか、出発前なのか、途上なのか、あるいは遷都後なのかの議論がある。 また歌意も、井戸王の19歌を含めた統合的な解釈となると、未だ十分に解明されているとは言い難い。しかし、19歌後注にもあるように、三首はすでに旧本の段階で一つの連続歌として提供されていたことが伝えられている。とすれば素直に三首を一連のものとして掴み取ることが必要になるだろう。(18歌後注の類聚歌林云々は奈良時代の、19歌後注は古本編纂時の挿入と考えられる) 日本書紀には、近江遷都にあたって多くの反対があったことが記されている。天智六年の条「三月の辛酉の朔にして己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、遷都すことを願はずして、諷諫むく者多く、童謡亦衆し。日々夜々、失火の処多し」と。 一体この三輪山惜別の歌は何時の段階で、どんな目的で作られたのか?そして井戸王とは何者で、その歌とは何なのか?やはり歌の全容の把握には、遷都に係わる当時の政治情勢の理解が必要なのかもしれない。もっとも、近江遷都そのものの意味が現代でも定説を見ていない。英明と伝えられる天智帝のことだ、余程の理由があったと考えなければならない。きっと歌にはそのヒントが語られているはずである。 <17歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系本): 歌は平明といえるだろう。語句にそれほど解り難いところはない。分かち書きにしてそれぞれを検討して見よう。 (1)味酒 三輪の山 味酒は、三輪山の枕詞とされている。ただ、何故三輪山にかかるのかは明確でない。「三輪(みわ)」は「神酒(みわ)」あるいは「神杯(みわ)」に通ずる。「味酒である神酒(みわ)」なのか、「味酒を盛る神杯(みわ)」のなのか、何やら語呂合わせになってしまうが、とにかく「味酒」→「みわ」を導く詞であるとされている。 実は枕詞の起源は良く分かっていない。ただ枕詞が普通の会話や平叙文には使われないことから、やはり歌謡がもともとの発祥と考えるべきだろう。歌謡が耳で聞く文芸であることを考えると、日本語の聴覚上の要請から来ている(であろう)ということは容易に推察できる。 一つには、日本語の韻律は音数韻が主要な要素であり、歌謡ではその調整が必要になること。また、日本語は同音異義語が多いことから、聞き間違いのないよう、音声上の明確な判別が求められること等の理由が考えられる。例えば、「あおによし」と言えば自然に聴衆は「なら」を予測するといったように。枕詞とは、要するに先例の引用(再使用)による慣用句ということができる。 ただ枕詞も最初から枕詞として使われたのではない。枕詞も最初に使われたときには、その歌謡に相応しい意味を有していたと考えられる。しかし、単なる慣用句になると、対象語を引き出すための(あまり意味の無い)付随語になってしまった。だから、枕詞の本来の姿を解明するには、最初に使われた歌謡に遡ってその意味を掴み取る必要がある。 枕詞「味酒」の先例は、日本書紀の崇神天皇八年12月条の16・17歌に認められる。(ここでは「三輪殿酒宴歌」と名付けておく) この三輪殿酒宴歌の「味酒」は枕詞ではないだろう。この詞こそが歌のポイントになっており「美味い酒だなあ」の感嘆句ような印象を受ける。また17歌の「開く」には、「戸を開く」と「宴をお開きにする(終わりにする)」とが掛けられていると考えられる。(「お開き」の語源はここから来ているのかも知れない。) 歌を訳出すれば、 おそらく「味酒」の詞の発祥はこの三輪殿酒宴歌に由来すると考えられる。つまり作歌の順序は、三輪殿酒宴歌(書紀)→三輪山惜別歌(万葉)である。明らかに額田王は先行するこの酒宴歌を知っていて三輪山惜別歌を作っている。書紀歌謡の「味酒 三輪の殿戸〜」は、廷臣の誰ひとり知らぬ者のない愛唱歌だったと考えられる。 だが、三輪山惜別歌(万葉17歌)の「味酒」にはもはや「美味い酒だなあ」の意味は無い。しかし、単に枕詞としてそれを使っているとも考え難い。額田王は元歌の三輪殿酒宴歌全体、つまり「三輪殿での楽しい酒宴」を思い起させようとして使っているのではないか。いやもしかしたら、三輪山惜別歌の披露の場は、今現在の三輪殿での酒宴の席上だったのかも知れない。だとしたら、まさに「こんなに楽しい味酒の三輪山」と人々には聞こえたことだろう。(※注1:味酒の由来について) (2)青丹よし 奈良の山の 枕詞「青丹吉」の先例としては次の歌がある。 この歌では、磐姫皇后は奈良山から奈良盆地全体を眺望して「青によし 奈良」と詠っている。ということは「青によし」とは、「奈良の(展望)視覚上の何らかの印象」の表現と考えるのが妥当ということになる。 詠われた季節が、記載どおり秋9月であるならば、この歌謡の「青によし」は「青丹よし」で、例えば「青葉と紅葉の美しい」とか「青と赤のコントラストが見事な」が本来の趣意だった可能性が高くなる。「吉(よし)」は誉め言葉である。少なくとも「良質の青土の産出する」の意味とは考えられないだろう。 (だから、続く「小楯 倭」も、真意は「峰(丘)立て 倭」のような意味だったのではないか。「峰、丘(を)」とは「大和三山や甘樫の丘」を指しており、「それらが小楯のように立っている」の意と思われる。しかし「小楯」は以後引用されることが無かったため枕詞にならなかった。) 「青丹よし」の意味が歌謡の内容に合致していることからも、恐らく「青丹よし」の詞の初出は、この磐姫皇后望郷歌(書紀54歌)と考えて間違いないだろう。問題はこの解釈が、額田王の三輪山惜別歌の「青丹よし奈良の山」(万葉17)にうまく該当するかどうかである。 だがしかしだ、三輪山惜別歌が秋の歌かどうかはっきりしない。というよりも、遷都の直前であれば春1〜3月、書紀の言う三輪山祭祀の時であれば冬12月、仮に新嘗祭の時としても冬11月であって、どう贔屓目に見ても秋の歌とは言い難いのである。ということは、三輪山惜別歌の「青丹よし」の訳に、本来の「青葉と紅葉の美しい」の意味を当てはめることはできないことになる。 では何故、季節外れにもかかわらず、額田王は「青丹よし奈良の山」と詠ったのか?意味を取り違えたのか?単に枕詞として「奈良」を導き出すためなのか?それともこうした推理自体が間違っているのか?いや間違っていない。額田王は承知で使っている。ここは、「あの磐姫皇后が、青丹よしと詠った、奈良の山を〜」の引用と解釈するべきなのである。 恐らく、磐姫の「つぎふね 山代川〜」(書紀54歌)の歌も当時の官人の全てが知っている有名歌だったのであろう。「青丹よし」といえば直ちにこの磐姫の歌を思い出すぐらいに。留意するべきはこの磐姫歌が望郷歌であることである。しかも奈良山から倭方面を俯瞰する視点で詠われている。ということは、三輪山惜別歌と全く同じ状況設定ということになる。額田王は計算して使っている。「青丹よし〜」と詠うことによって、人々に故郷を思い出させるように。 三輪山惜別歌の「味酒」や「青丹よし」は単なる「三輪」や「奈良」に懸かる枕詞ではない。額田王は、それを使うことによって、聴衆に、三輪殿酒宴歌や磐姫望郷歌を想起させることを目論んでいる。これらの詞によって先行する公知の二首が引き寄せられ、三輪山惜別歌は、(後代の本歌取りとも異なる、)あたかも重奏する複合歌の様相を呈している。 (3)山の際に い隠るまで 解釈上の問題点としては、5〜6.「〜つばらにも見つつ行かむを、しばしばも見放けむ山を〜」にある。この「〜むを、〜む山を」の「む」は、未来および未確定の事態についての推量が原義であって、「〜しようとしている」である。とすれば、17歌はやはり出発前の歌と読むべきではないか。「を」は「のに」「係わらず」の意味である。 (7)心なく 雲の 隠さふべしや 17歌が未来の仮想上の歌であるとすれば、現在(披露時)の天候は何でもいいことになる。ただその場合の問題は、何故わざわざ「曇り状態」を詠んだかとういことになるだろう。だいたい三輪山が見えるか見えないかといっても、三輪山はそれ程高い山ではないのだから、よっぽど低い雨雲がかから無い限り見えなくなる状況は考えにくい。この歌はやはり、遷都の是非に関して、三輪山神ないしは天皇の神意を確認するための寓意の歌と考えるべきである。 問題は、「心なく 雲の 隠さふべしや」の問いを、誰が誰にしているかである。二つ考えられる。(A)額田王が群臣に代わって(を代表して)、天智天皇に奏問していると、(B)額田王が三輪神に神問していると、である。 (A)額田王の天智天皇に対する奏問としての解釈 (B)額田王の三輪神に対する神問としての解釈 もう一度歌を読んで理屈を確認して欲しい。少々捻られているが、 歌は、群臣(百姓)が望まないことを理由に遷都反対意見があったことを伝えていると考えられる。尚、歌は(A)(B)両方の意味を兼ねていると考えるべきだろう。というのは反歌が二つ用意されているからである。反歌はそれぞれの問いに対する応答と予測できる。 <18歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系本): この歌は何句切れに読むべきなのか?短文節の連結のような歌になっている。上の句の「三輪山をしかも隠すか雲だにも〜」の「しかも」は、「しか(副詞)」+「も(係助詞)」〜「か(疑問の助詞」の用法で、「なんだって、三輪山を隠すだって?」。「雲だにも」の「だにも」は、「〜に過ぎないのに」「〜のくせに」「〜の分際で」の意味だろう。だからここは、「なんだって、三輪山を隠すだって?雲の分際で!」となる。 下の句も倒置法で意味が強められている。「心あらなも、隠さふべしや」の「心あらなも」は願望で、「心から願って」「願望の意思をもって」。「隠さふべしや」は原文「可苦佐布倍思哉(かくさふべしや)」の表記に注意する必要がある。ここは珍しく(長歌とは違う)歌謡風の一音字表記になっている。「かくさふべし」には、「隠さふべし」と「かく、沿(そ)ふべし」が掛けられていると読むべきだろう。「べし」は、「意思をもってそうする」の意味。 結句の「や」は、少なくとも長歌の「や」(反語)とは明らかに異なる用法である。ここでは、確認したり、呼びかけの時に発する「〜だな」や「〜のか」のような。全体では相手への強い不快感を表す言葉になっている。(私にはこの「や」には「オイ」のような恫喝の意味が含まれているように思える)通訳では「本心からそのようにするの、だな」や「隠そうとする、のか」となる。 18歌:「三輪山をしかも隠すか、雲だにも、心あらなもかくさふべし、や」 この歌は異様な迫力に満ちている。悲嘆の心情に溢れる長歌に対して、一転、倒置法を駆使して、雲に対して、叱り付けている口調である。「心あらなも」には、「自分が本心からそう思っているのか」あるいは「雷同しているだけなのか」「誰かの扇動に乗っているのか」の誰何のように聞こえる。 17長歌が、単なる曇り空の嘆き歌ではなく、遷都の是非についての、天皇(の意思)への伺い歌(訳文A)であるとするならば、この18歌はそれに応えた天智天皇の詔勅歌と考えなければならない。すると意味は少し違って、「隠す」は「反対する」、「雲」は、「遷都反対者」の暗喩ということになる。 意訳すれば、言葉は少々荒くなるが次ぎのような意味になるだろう。 歌は、遷都に躊躇している人々には、天皇の叱責、怒号と聞こえたに違いない。ところで、この二首の歌の遣り取りから、直ちに興味深い二つのことが導かれる。 <19歌の解釈> 訳文1(新日本古典文学大系本): この19歌は、最初の題詞からすれば、井戸王の和歌ということになる。 (イ)三輪神話上の糸巻き「綜麻(へそ)型」としての解釈 その活玉依姫神話に従えば、歌を次のように解釈できる。 問題は、結句「我が背」の「我」は誰で、「背」とは誰かということである。幾つか考えられる。しかし、17長歌が天皇(訳文A)および三輪神(訳文B)への問いの歌あって、18歌が天皇の詔勅歌であるならば、当然、19歌は訳文Bに対応した三輪大物神の神託歌と考えるべきだろう。このことは、19歌が(額田王ではなく)井戸王の歌になっていることからも肯ける。井戸王が神託を述べる役割の人物と考えれば納得できるからである。とすれば、「我」=大物神であり、その「背」=天智天皇と比定できる。 19歌:「綜麻形の 林のさきの さ野榛の 衣に付くなす 目につく我が背」 (ロ)地名「綜麻(へそ)方向の」としての解釈 原文「林始乃 狭野榛能」は、定訓では、「林の端のさ野榛の」と読まれているが、ここでは「林の先の、狭野、針の」と訓む。古田金彦氏は近江地方に「狭野(さの)」「針」「林」等の地の存在することを指摘している。つまりこの解釈では、歌は「綜麻」→「林」→「狭野」→「針」と、近江地方の地名の羅列から成る歌ということになる。(※注3:近江地方の地名について) 下の句の「きぬにつくなす目に付く我が背」の「きぬにつくなす」は「端のほうに見える」のこと。「目に付く我が背」の「目に付く」は「はっきり目に見える」「特別に目立つ」の意味である。「目に付く」とは、前18歌の天皇の(滞留する雲に対する)叱声によって、「雲が晴れ、遠くまで見通せるようになった」のような設定なのだろう。ここでの「我が背」の、「我」=三輪大物神であり、「背」=「近江地方」と考えるべきである。 19歌:「綜麻形の 林のさきの さ野榛の 衣に付くなす 目につく我が背」 19歌は、(イ)、(ロ)どちらかの意味というのでは無く、両方の意味が込められた歌と読むべきである。つまり二つを融合すれば、天智天皇の衣には三輪大物神の針と糸が付けられており、「天皇の行く先が、大物神の在所=近江の地でもある」という考えが主張されていることになる。 19歌は、17長歌の神問に対する、(井戸王によってもたらされた)三輪山大物神の神託歌であり、天皇および近江遷都への祝い歌、賛歌、寿ぎ歌と言うことができる。ここでは、神の命令を天皇が遂行するのではなく、天皇=三輪神=「神の意思の履行者」「神に特別に祝福された存在」「神の化身」の、天皇神格化のイデオロギーが提示されていると考えられる。 歌自体は、解ってみれば、現代の人間(信仰のない私)には、なにやらたわいない語呂合わせのように聞こえる。ただ歌で大義名分を述べるのは難しい。神託歌などいうものは、くどくどしい理屈をこねるよりも、やはり神話に基づいて作るのが最も作りやすいし、また人々にそれを感得させる意味で必要なのだろう。この歌は神話を近江遷都という政治問題に結びつけているところに新規性(面白さ)がある。 <三輪山惜別歌の全容> この一連の歌謡劇は、三輪山神話と人々の心情と皇権と近江遷都の肯定を調和させた、並々ならぬ苦心の作品であり、その密接に関連した構成からいっても、いずれもが額田王の作品と読むべきである。なぜなら、19歌が存在してこそ歌物語が完結するからである。その重要な結末を、井戸王の偶然の奉和に期待する(頼る)ことなどありえない。だから、19歌は額田王が予め用意して同僚のだれか(井戸王)に復唱させたと考えなければならない。おそらくそれを謡う人物は巫女役でありさえすれば誰でもよかった。 興味深いのは、井戸王という王を名乗る人物が三輪神のお告げ(神託)を述べていることである。井戸王とは若い頃の額田王の自己投影であるような印象を受ける。(井戸王の役割はかっての額田王のそれであったのだと。)神と人間の仲立ちをして、神のお告げを伝える存在(職務)としての。(※注4:井戸王とは誰か?19歌のもう一つの解) この連作は(成功しているかどうかは別にしても)従来の古歌謡劇とは一線を画する、斬新な作品になっていると言えるだろう。何よりも、現実の問題を題材にして、今を生きている人々の関心事に積極的に係わり、その是非に応えている(応えようとしている)。 この歌は様々な連想を導く。 (2)歌謡を政治の広報活動に利用している。 (3)当時、額田王が天智朝の帷幕に深く係わっていたことの証拠になっている。 (4)額田王は書紀歌謡や古事記物語を利用して歌を作っている。 作詠(披露)の場所と時期: 三首は遷都に先立ち、十分なる意図と準備のもとに創作された政治的歌劇と考えるべきである。おそらくその披露の場は、有力な廷臣達の集まる三輪山祭祀の後の、直会のような酒席であったと考えられる。 強いて日付をこじつけるならば、遷都前年の暮れ、666年(天智五年)12月20日のことではなかっただろうか。もう一度三輪殿酒宴歌(書紀16・17歌)を思い出して欲しい。この日本書紀崇神紀12月条の記述は、宮廷年中行事と関係があって、古来、三輪山神の祭事(大祭)は、毎年12月20日に催されていたことを示唆しているとも考えられるのである。尚、もう一つの有力な候補は11月の冬至に催される新嘗祭の日である。 三輪山信仰について: 一言で神話と言っても様々ある。それらを分析すれば、概ね、原始自然神話→氏族(祖先)神話→統合神話→宗教的(理念的、精神的)神話へと発展するものと考えられる。三輪(神)山そのものを神体とする三輪神話は原始自然神話の形態を強く残している。 (神話は一定の史実を伝えていると考えられるが概ね複雑で解り難い。日本書紀や古事記自体は支配者(特に最後の勝者)の歴史書であり、神話はそのイデオロギーで粉飾されていると考えなければならない。おそらく「やまと国」を支配し、また領土を拡大する過程で、各地、各氏族の神話を習合・改編あるいは変形して複雑な様相を呈して行ったと考えられる。) 三輪山神が、「やまと」の先行する古神と認識されていたことは、文献上からも明らかである。高橋活日が書紀15歌で「やまと(耶麻騰)成す大物主神」と詠んでいる。日本書紀によれば、崇神紀以前に大物主神がすでに祀られていたことが分かる。更に遡れば、神武天皇は大物主神の女の姫蹈鞴五十鈴姫を后にしたという伝説(一書)がある。また神武天皇の名前は「神日本(倭)磐余彦天皇」で、「神(三輪)山処の磐余の地に即位した天皇」の意味と読める。このことは「神(三輪)山」が神武天皇よりも古く「神山」として存在していた(と認識されていた)ことを示している。 (尚、姫蹈鞴五十鈴姫の「蹈鞴(たたら)」は、通説では「ふいご」や「祟り」のように解釈されているが、糸を縒るときに使う道具である「たたり」とも読めるのである。すると姫蹈鞴五十鈴姫とは、「小さなたたりで丁寧に(あるいは沢山)糸を縒る姫」の意味になり、やはり機織女的な姿が浮かび上がってくる。) 「やまと」とはもともとは、「(神)山処(やまと)」(処(と)はまた所、台あるいは門、戸など)ではなかったろうか。万葉集では「やまと」を概ね「山跡」や「倭」と表記する。ただ、「やまと」を「倭」に当てるのは「倭(わ)人の国」と呼んだ中国文献の付会であろう。もともと「やまと」とは三輪(神)山山麓に発祥した「くに(邑、屯)」の意ではなかったろうか。(※注5:魏志倭人伝の「邪馬台国」について) (三輪(神)山は、「やまと」氏族が発生する前段階の集落社会の神であったと考えられる。もっとも三輪山周辺の数ある山々の中で、何故三輪山が神山なのかという疑問は残る。これはその山容と立地条件、巻向川と初(泊)瀬川に囲われた領域が人々の信仰の地として相応しかったと言うしかない。ただ日本書紀における、三輪(大物)神の実体は不明で、強いて言えば蛇ということになるのだが。) 「やまと国」の発祥そのものが、三輪山に深く係わっている。興味深いのは、崇神紀七年の記事に、「国が荒廃したため、天照大神や倭大国魂を祭ったが効果が無く、大物主(三輪)神を大田田根子に祀らせることによって治まった」とあることである。このことは、大物主(三輪)神が土着氏族統合の象徴神あるいは聖地として信仰の対象であったことを証言している。以来一貫して「やまと国」を統治する者は、たとえ王統が変わろうとも、三輪山を、王権(国家)の象徴(守護)神として、丁重に祭祀して来たと考えられる。 当然、天智朝当時も、引き続いて国家(皇室)の信仰の対象であり、また諸氏族にとっても(まさに卑弥呼以来の)精神的な拠り所であったと推測される。額田王らの嘆きは、長年住み慣れた祖先伝来の故郷の地を捨てて、遠い鄙の地に立ち去ることの計り知れない不安や怖れだったのだろう。とすれば、遷都にあたってこの神をどう扱うかが重要課題になったはずである。おそらく神主たる三輪氏とも事前に調整が図られたと考えなければならない。その結果、19歌で語られているように、分祀することで妥協がなったと推定される。日吉社禰宜口伝抄によれば、遷都の翌年天智七年3月3日、三輪神が日吉神社に勧請されたことが記されている。 <近江遷都の意義> 遷都の地: このことは、当初より大津京は当座の仮都であって、ゆくゆくは恒都としての「ひさの野京」ないし「日野京」が目指されていた証拠と考えられないか。つまり二段遷都法のような。ということは、額田王はそれを知っていて歌を作っていたことになる。このことも、額田王が天智朝の帷幕に繋がる高官になっていたことを証明しているだろう。 大津京はそれ程大規模な都城でなかったと推測される。最初の遷都地として大津が選ばれたのは、おそらく水運(大和川−淀川系)を考慮したためだろう。飛鳥→飛鳥川、初瀬川、蘇我川→大和川→難波→淀川→(宇治川→瀬田川→琵琶湖→)大津のルートである。ただし(宇治川→瀬田川→琵琶湖)間は大きく迂回しており、宇治木幡から大津までは陸路で下った可能性がある。大津は「ささなみ道」(近江街道)の果て(行き止まり)の地になっている。 近江遷都の目的: 少なくとも人心の掌握には欠かせなかったと考えるのである。いくらなんでも「三輪山の歌」だけで人々が納得したわけがないだろう。例えば孝徳紀の大化の改新の施策理念が何ページにもわたって記述されているのに比べても。天智紀の記事は極めて乏しい。 天智紀は日本国の有史古代における最も劇的な時代(大化の改新、百済戦役、近江遷都)であった。大化の改新によって、現代にも繋がる、中央集権国家が目指された紀であった。歴代天皇の申し送り事項であったらしい、半島の失地回復を企図した乾坤一擲の介入が、百済復興戦役によって一つの決着を見た紀であった。そしてその敗戦によって、その後の国家戦略が改めて練り直された節目の紀でもあった。 それにしては、天智・斉明紀におけるこれら重要施策に関する記事・資料が貧弱過ぎる。私は、天智・斉明紀の肝心な記録が、それを望まない者によって改竄され、(復元されないよう)その原資料も故意に湮滅(焚書)されたと考える立場である。 先述したように、白村江の敗戦以後、深刻な路線の対立が倭国政府内に生じていたと考えられる。端的に言えば、軍事態勢の継続か和親政策への転換かであった。その対立は、その後の経過を見ると、おそらく和平派(文治派)は、中臣鎌足、蘇我氏らであり、軍事派は大海人皇子、大伴氏らであったろうか。天智帝(中大兄皇子)は前者の和平路線を支持していたものと考えられる。 だが急速な路線変更(軍部の縮小)は言うに安く行うに難い。人事や軍需産業の利権が絡み、はては責任問題や軍部の解体にまでに及ぶとなると、巨大な社会不安を引き起こしかねなかった。というのは、長年に渡って、国を挙げて軍備に邁進した結果、大海人皇子を大立者とする軍部が異常に肥大化しまっていたからである。飛鳥京自体、まさに専門化し、殆ど私兵化した軍事勢力(東漢氏、大伴氏ら)の重圧下にあった。 一般には「近江遷都は、外国の侵攻を恐れた防衛的、消極的な施策であり、民衆の負担を省みない暴挙であって壬申の乱はそれによって起された。」と解されている。違うだろう。上述した状況を鑑みれば、遷都は国内軍事派を睨んでの、主として国内事情に因る施策であった可能性が高い。唐とは和平交渉が進んでいたのである。(もちろんこの遷都は唐にも伝えられ、捕虜の無条件返還などの外交カードに利用されたかもしれないが。) 近江遷都の大義名分は何であったか?(1)人心の一新、(2)対外和平、(3)新律令国家の建設そして(4)東国の開発ではなかったろうか。(私は、日本への国名変更は近江朝によって為されたと考える立場である。倭(やまと)の地から離れ、琵琶湖畔に立って可能になった。)従来の軍事路線からの大転換には旧い豪族の番居する倭の地を離れる必要があった。そこは、新政策に反対する守旧派・軍事派の温床であり、下手をするとクーデターや暗殺の危険があった。 (このことはずっと後代になるが、鎌倉幕府成立時の事情が参考になる。北条氏政権が確立するためには、鎌倉周辺の有力豪族を駆逐して周囲を自身の勢力圏に組み入れなければならなかった。こうした見地に立てば、近江の地は天智朝の首都として自然な選択であったことが分かるだろう。近江は継体天皇以来、息長氏の根拠地であり、中大兄皇子にとっては安心できる古くからの領国であった。) 近江遷都は誤りであったか?理念としては先進的であったと考えるべきだろう。天武天皇の軍政も、結局大陸反攻を果たし得ず、律令国家の建設に向かわねばならなかったことを鑑みれば明らかだろう。しかし、結果として近江遷都は時期尚早であった。考えてみれば、倭国(日本国)はまだ旧来の氏族社会を脱していなかった。旧氏族は飛鳥に地盤を有しそこに還ることを望んでいたのである。 新しい国家官僚は、広い地域からそして広い階層から、満遍なく公平に選抜されることが望ましい。後代、一定の律令制度が経験され、藤原氏を中心とした新興律令官僚の出現を見て初めて倭(飛鳥)の地からの脱出が可能になった。それにはまだ50年(平城京)〜100年(平安京)の歳月を経なければならない。 本稿 了。 次回【名歌鑑賞16】 ※注1:味酒の由来について 須恵器は1200℃の高温で焼かれ、800℃程度で焼成される従来の土師器に比べて硬質であることが特徴である。土師器は水漏れてしまって長期間の液体の貯蔵には適さないが、須恵器ではそうしたことはないという。とすれば、須恵器は酒の醸成に適した土器ということになる。恐らく三輪山醸造の酒は、よく熟成した、アルコール度の高い味酒だったのだろう。 ※注2:三輪山神話について この活玉依姫物語は、最初に「みわ(神)」の言葉があってその付会物語のような印象を受ける。「みわ」→(活玉依姫物語)→「三輪(匂)」である。この伝説は、いかにも(若い)女性好みの空想的な物語になっており、後宮で発生した比較的新しい神話ではなかったろうか。興味深いことは、666年(天智五年)の段階で、この物語が公知のものとして額田王によって詠われていることである。このことは、古事記成立の由来を考える上での一助になるだろう。 一方、日本書紀の崇神紀には、(上述した活玉依姫物語は存在せず)倭迹迹日百襲姫物語が語られている。百襲姫は大物神の妻となったが、夜だけ通ってくる夫の姿を、禁を破って確認したところその正体は蛇であった、という説話である。この物語はその結末(蛇は人間の姿に変わって三輪山に帰り、姫は陰部を箸で突いて死ぬ)から言っても、男性作家が創作した神話のように私には思える。 ところで、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)とはやけに長たらしい名前ではある。倭迹迹日百襲姫の「百襲」の「襲(そ)」は「衣」で、「沢山の衣」の意味である。思うに「迹迹日」の「迹迹」は「疾疾(とと)」で「非常に速い」、「日」は機織道具の「杼(ひ)」で、「素早い杼さばき(操る)」の事ではないのか。つまり、倭迹迹日百襲姫とは「倭の、素早く沢山の衣を織る姫」の意味と考えられる。姫はまた憑依して崇神天皇に大物主神を祀るように告げたりもする。 ここに、古事記の活玉依姫と共通するものがある。両者共、巫女的であると同時に機織女的である。巫女と言っても普段は機織などの労働に従事していたのかもしれない。(興味深いのは神代の天照大神が機織所を営んでいることである)いずれにしても三輪山領域は古くは、機織(や酒造)の地であったことを伝えていると考えられる。 ※注3:近江地方の地名について (1)次の長忌寸奥麻呂の歌が参考になる。 この歌だけからは「狭野の渡り」が何処に存するかはわからない。だが、前後を志賀(263歌)、宇治川辺(264歌)、近江の海(266歌)の歌で囲われているのを見ると、この265歌もやはり近江国のある場所を詠っていると推測されるのである。例えば、「神之埼」が近江神崎郡を指すとすれば、愛知川、日野川あるいは野洲川の付近に「狭野の渡り」があったと考えられる。(もっとも、「神之埼」は「三輪山の先」という説もある) (2)あるいは、次の歌の「左野方」がそれに該当するかもしれない。 「都久麻(つくま)」とは近江の坂田郡筑摩のことである。「左野方」は植物名であろうとする説もあるが、地名とも取れるところである。 (3)尚、670年(天智九年)天智帝が新都候補地として視察した「ひさの野」も、「佐野」の名前に近い感じがする。「ひさの野」は東西を野洲川と日野川に護られ、北方は琵琶湖が天然の堀となり、背後は三上山を楯とする宮都としては絶好の場所である。東国への発展も飛鳥よりは立地に恵まれている。 ※注4:井戸王とは誰か?19歌のもう一つの解 それにしても、天智天皇に対してこれほど親しみを込めて詠う(詠える)存在としての、井戸王なる人物は歴史上全く不明で不可解という他はない。一体井戸王とは何者なのか?状況から言えば、明らかに(額田王の創作にかかる)架空の存在なのだが。それにしても何故井戸王でなければならないのか? ここでもう一度古事記の活玉依姫神話を思い出してほしい。そして活玉依姫とは「魂(憑)依姫」とも「(糸)玉縒り姫」とも読めることを思い出して欲しい。とすればこの井戸王は糸王が本義ではなかったか?この考えが正しいとすれば、井戸王=(糸王)=(糸玉縒り姫)=活玉依姫の等式が得られることになる。井戸王には活玉依姫が擬されている。 このように考えると様々の疑問が氷解する。容易に次の図式が導かれるだろう。 したがって19歌の解釈は次のようになる。 歌は、古事記神話になぞらえて、現代の活玉依姫すなわち井戸王(糸王)による、現代の三輪大物神すなわち天智天皇への相聞歌になっていることが分かる。この考え方によれば19歌は、「三輪神と天皇とは同一の存在である」ことを述べた天皇賛歌ということができる。 ※注5:魏志倭人伝の「邪馬台国」について (尚、魏志倭人伝は、西晋の陳寿(233〜297)によって著された歴史書であり、3世紀中頃の倭国の状況を客観的に(当時の中国人の視点で)記録した貴重な資料である。) もとより文献に改鋳を加える行為の重大さは承知の上で、(上記の理由から)最小限のそれで最も合理的に理解できる道を探るならば、私は、倭人伝の記述には次のような錯誤があると考えるのである。 原文「〜南して投馬国に至る水行二十日。五万余戸ばかり。〜南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行1月、七万余戸ばかり。」は、 こう考えるには根拠がある。というのは、倭人伝の水行の日数に信憑性があると判断するからである。飛鳥時代、那大津(博多)−三津大伴(難波)間は丁度20日ぐらいの航程であった。これは、当時瀬戸内海の航行が主に潮汐の利用であったことから来る日数であるが、こうした自然力が動力源であって見れば、技術の劣る弥生時代であってもその数値にあまり変わりが無かったと想定されるのである。 どうだろう、このように読めば、陸行の日数が記録されていないことからも、邪馬台国とは畿内の「やまと国」でぴったり一致するではないか。また投馬国への水行10日も、瀬戸内海航路の丁度半分の尾道辺りと考えればこれまた全く違和がない。さらに陸行1月は、そこから上陸して中国山地を横断することを言っているのだろうから、投馬国は出雲を指していると容易に推定できる。 陸行1月は少々かかり過ぎのようにも思える。しかし、中国山脈を越える徒歩行は道の不整備な古代にあっては意外と日数がかかったのかも知れず、また取材を受けた倭国の官人自身、投馬国(出雲)に行った事が無く凡その見当を伝えたと考えれば、それほど隔絶した数字ではない。(1月は旅程の距離よりも困難さを表現した数値と考えるのである。)また「南して〜」とは、九州から瀬戸内海に入るには、関門海峡を通って一旦周防灘を南下することを言っていると理解できる。 どうだろうか、倒錯の理由については、女王(やまと)国の方が投馬国より遠方にあるとの誤解、によると考えるしかないが取材紀行には往々にして有り勝ちなことではないか。三世紀の前半、倭国の共立王卑弥呼は、三輪(神)山の麓(やまと)に君臨していたと見て間違いないだろう。 (2006.12.15.M.A.) <参考文献> 個別書: |