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【名歌鑑賞16:熟田津の歌】

                                             森 明

<万葉集巻一・雑歌:8歌>

<原文>
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮
額田王歌
8歌:
「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜」
にきたつに ふなのりせむと つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎでな

右・山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午 天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅 御船西征始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首
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<釈文>
斉明天皇代
額田王の歌
8歌:
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出な」

右は、山上憶良大夫の類聚歌林をかむがふるに曰く、「飛鳥岡本宮に御宇めたまひし天皇の元年己丑の九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午、天皇と大后と、伊豫の湯宮に幸したまひき。 後岡本宮に宇馭めたまひし天皇の七年辛酉の春正月の丁酉の朔の壬寅、御船西に征き、始めて海路に就き、庚戌、御船、伊豫の熟田津の石湯の行宮に泊りき。天皇、昔日より猶し存する物を御覧たまひ、當時忽ちに感愛の情を起こし、所以に因りて歌詠を製りて哀傷を為したまひき」といふ。即ちこの歌は天皇の御製なり。但し、額田王の歌は別に四首有り。

訳文1(新日本古典文学大系本):
「熟田津で船に乗り込もうと、月の出を待っていると、潮も満ちて船出に都合よくなってきた、さあ、今こそ漕ぎ出ようではないか」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「熟田津で 船出しようとして 月の出を待っていると 潮も幸い満ちて来た さあ漕ぎ出そうよ」

古来この歌は、661年(斉明七年)、前々年に滅亡した百済の復興運動を支援するための征西の軍船団が、熟田津(現在の四国松山港付近)を進発する際に、額田王によって詠まれたものであり、それに相応しい格調と雄渾を有する名歌中の名歌とされてきた。

ところが近年、歌は軍事とは関わりない、単なる「船遊び」か「安全祈願神事のための船乗り」の歌ではないかとの提言がなされ、解釈を二分する有力な説になっている。 その説の主な理由を挙げると
1)「船乗り」であって、「出航(船出=出陣)」とは言っていないこと
2)夜間の出航(航行)は危険ではないかということ
3)類聚歌林(後注)が「斉明女帝の感愛の情の歌」といっていること
4)後代の「船乗り」に係わる歌、例えば、
巻一・40歌「あみの浦に船乗りすらむ乙女らが玉もの裾に潮満つらむか」(柿本人麿)
巻三・323歌「ももしきの大宮人の飽(熟)田津に船乗りしけむ年のしらなく」(山辺赤人)
等、いずれも「船遊びないしは神事」の歌として詠われていることなどによる。

実際はどうなのだろうか?私はやはり軍団進発の歌と見る。以下にその理由を論じよう。ただ歌の解釈には当時の船や航行法についての知識がどうしても必要になる。現代の常識とは異なる、昔の航海の知識で補わなければこの一首の意味を正確に読み取ることはできないだろう。

<当時の船の航行の実態>
(1)船の推進力
当時の船の推進力は、人力、海流(潮流)、風力の三つである。それらは目的によって組み合わされて用いられたと考えられる。

船の主たる動力源は、人間が櫂で「漕ぐ」人力であった。ただ、効率と連続性に難点がある。推進力を増すために漕ぎ手を多くすれば、重量が増え船体も大きくしなければならない。連続走行するためには交代員も必要になる。だから大型化には限界があったし、非力だから海流や風に逆らっての航海は殆ど不可能であった。ただ、港の出入や海流の停止あるいは凪状態での移動は絶対に必要になるから、必ず搭載していなければならない基本動力である。

海流(潮流)は自由度に乏しい欠点はあるが確実な推力であった。特に瀬戸内海における船の運航は、まさにこの潮汐流の利用であった(と考えられる)。ただ、潮流は一定時間間隔で逆転するから、そのたびに「潮待ち」が必要となり、悠長な船旅となる特徴(欠点)がある。

(日本書紀・神代下・十段の条に、彦火火出見尊が、海神から潮満玉と潮涸玉を授かって潮流を自由に操ることを教えられたと記されている。古くから(弥生時代からあるいは縄文の時代から)瀬戸内海航路の潮汐の利用が知られていたことが分かる。)

強い海・潮流に逆らえるのは風力だけであったかもしれない。外洋の航海には帆を備えた大型の帆船が用いられたと考えられる。ただ風は不安定で、強すぎても無くても漂流の危険がある。特に、日本近海の「大西(おおにし)」と呼ばれる偏西風は遭難の原因で怖れられた。当時は、高度な気象学的知識や帆船技術を望むべくもなく、時に急変する風は神頼み的で補助的な動力であったと考えられる。(実際古代に描かれた東洋の帆船を見てもいささか貧弱なもので主たる動力にはならなかったであろう)

(2)船の種類と停泊
舟と船とを区別しなければならない。船の大型度は、船体の大きさだけでなく、帆(マスト)、甲板(船倉)、櫓や碇の有無や、あるいは操船のための搭乗員の人数によっても等級付けられていたであろう。

舟は、概ね一人漕ぎの小舟(底舟)をいい、甲板や帆や碇を持たない。あくまでも、内・近海の移動、漁労、小運搬用である。舟の停泊は、砂(陸)の上に引き上げるか、あるいは川に遡上させ、船着場を設けてとも綱で岸に括りつける。

船は、外洋の航行が可能な大型構造船のことで、普通帆や碇を持つ。甲板が敷かれ、その下は船倉になっている。長期の航行上、風雨を避けるための櫓が設けられる場合もある。操行は左右の舷に配置された複数の漕ぎ手と後尾の舵取りの連携によって行い、停泊は風や潮流を避けて、波静かな入り江に碇を下ろして行う。

(白村江の戦いにどのような船が使われたかは良く分からない。普通に考えれば目的の違いによって設計が変わっただろう。復興支援戦役では、あくまでも陸上での勝利が求められることから、主として資材や兵員の輸送に重点が置かれた設計だったのではないか。100人以上は乗れる大型船であったと想像できる。だから、漕ぎ手の防御や旋回機能など、どれほどまで考慮された設計になっていたかは疑問である。)

<8歌の解釈>
1)「熟田津(にきたつ)に」の意味
熟田津が地名であることには誰も異論がないだろう。日本書紀斉明七年正月条の注にも、「熟田津は?枳柁豆(にきたつ)という」と明記されており、その固有名詞としての存在を尊重しなければならない。

「津(つ)」とは船着場・港のことである。伊予松山には、西側に三津浜、北側に和気浜がある。現代の松山港は三津浜にある。ただ不思議なのは、これほど有名な場所にも関わらず、未だに此処が塾田津と特定できる場所が見出せていないことである。

理屈上は、「熟田津」は「熟田+津」ないし「熟+田津」の二つの読み方が可能である。「熟田+津」の場合は、海に面した「熟田という場所(地)にある港」という意味にとれるが、「熟田」の場所がはっきりしない。「熟田」は普通には稲穂の密生した田圃をイメージする。だから固有名詞というよりも、たまたま季節的(一時的)に「熟田=豊かに稲穂の実っている地」ともとれる。だがこの歌の詠まれた時期は旧暦の3月であって、仮に田圃があったとしても、それは田植え前の苅田であったろう。だから、稲穂の繁る現実の様を見て、額田王が「熟田」と詠ったとは到底考えられない。

(あるいは「和気浜」には「和(にき)」の意味があるので、「和(気)田津」であったのかもしれないが明確でない。もっともこのような語呂合わせで考えるならば、「三津」は「御津」で、大御船と称した天皇の御座船の停泊地とも考えられるのである。興居島の由良湾が入り江になっていてそこに相応しい。)

一方「熟+田津」と考えた場合、「田津」とは田圃の中に設けられた港とイメージできる。田圃の中の港とは変に思うかも知れないが、前述したように碇を持たない小舟は、通常浜に引き上げるか、川を遡上させて岸に繋いで置く。つまり田畑の中に船着場があってもおかしくないのである。

古代の伊予松山の地図を見ると、そうした用の河川としては権現川、大川、久万川、宮前川等が目に付く。特に大川は、特別に開削された運河の様子を呈しており(水門もある)、しかも、所々に馬木池、高木池、志津川池、角田池等の溜池が設けられている。思うにそれらの池こそがまさに田津ではなかったか?舟の停留池であると同時に、通常は農水用の溜池を兼ねていたと考えられるのである。

田津が一箇所だけでなく複数必要であったことは、当時の状況を思い巡らせれば容易に理解できる。例えば、陸に待機する10000人の軍勢を乗船させることを仮定してみたまえ。まず100人搭載できる大型船が100艘必要になる。乗組員や軍需物資の運搬を考慮外(予め積載)においても、兵員を一挙に(短時間に)乗船させるとなれば10人乗りの小舟延べ1000艘が必要な計算になる。何回か往復するにしても、多数の舟着場(田津)が設けられていたと想定しなければならない。

このように考えて行くと、熟田津とは「熟+田津」であったとの思いが強まってくる。つまり田津とは川あるいは運河沿いに設けられた、田圃中の舟着場の総称のことなのだと。となれば個々の田津を区別するために「〜田津」と呼んだ可能性がある。(※注1:「熟+田津」の可能性について

ただ、「熟(にき)」の意味が判然としない。場所としてのとある「田津」を特定しているのか、何かの様子を表現しているのか。その意味するところが今ひとつイメージできない。やはり歌の全容から把握するしかないだろう。

2)「船乗りせむ」の意味
「船乗りせむ」とは、「大型船に乗船する」待機行為を言っていると考えられる。それには、先ずは岸から小舟に乗り、沖に停泊している大船に乗り継ぐのである。だから8歌は、まさに岸から小舟で「漕ぎ出す」時の、瞬間の状景を詠っていると考えるべきである。 ただ、大型船に乗り終えてもすぐに出航するのではない。ここが重要なポイントで、瀬戸内海航路では適切な「潮流、潮汐」を待たなければならない。熟田津は丁度航路の中間点にあたり、九州方面へは常に「下げ潮」を利用して航行するのである。

その九州方面への航海ルートは、後代の天平八年(736年)の遣新羅使の辿った航路が参考になる。それに(万葉集・巻十五3578〜3655歌に)従えば、屋代島→上関→祝島→姫島→分間の浦(九州中津?)のルートで九州東岸に至ったと想定される。ただ熟田津からそのルートに乗るには二つのコースが考えられる。熟田津→由利島→屋代島か熟田津→中島→屋代島かである。八木孝昌氏は前者のコースを進航したと推定している。

3)「月待てば」の意味
「月待てば」は「月明を待つ」の意味である。深夜、沖に停泊している大船に間違いなく辿りつき、行き交うであろう、多数の小舟による安全な乗船行動には、満潮と月明の両方が必須の要件であった。陸上では、篝火を焚いて灯かりをとることは可能であるが、海上では火は禁物である。

潮の干満は、雲があっても無くても、必ず予定どおり来るから暦によって予測可能である。だが、月明りはそうは行かない。月出の有無は、当日の天候(雲の多少)によって左右される。だから、出航予定日(大潮で満月日)の晴天が何としても希求されたのである。

ただ疑問はある。潮汐は一日に二回来る。だから昼間の満潮も必ずある。その最も安全と考えられる昼間でなく、何故わざわざ問題の多い夜間に乗船しなければならなかったのか?である。理由としては夜間も航行するためと考えるしかない。航行に最も適した(効率の高い)大潮の期間を最大限に利用するには、危険な夜間の航行も決行する必要があったのだと。

航行に必要な「引き潮」の時間帯は、昼夜合計で12時間/1日ということになる。だが、もし夜間の航行が不可能で昼間だけだとすれば、6時間/1日だけの航海に半減してしまう。つまり一日あたり3/4の18時間は待機していなければならない。思うに、満月の時には(ただし晴天である必要があるが)夜間も航行したということだろう。というよりも不自由な船上生活はできるだけ短期間にしたいというのが本音だったと思量するのである。

ではずばり出航の日は何日だったのか?(歌は何時詠われたのか?)八木孝昌氏は様々な検討の結果、その日は661年(斉明七年)3月15日(満月)の夜であったと推定している。ただ運航にどの程度の月明が必要だったかだろう。できるだけ短時日に目的地に着くという要請からすれば、大潮時は最も航行に美味しい期間であった。だから満月の日だけではなく、(晴天でありさえすれば)その前後±2日(十三夜〜立待月)ぐらいは夜間も航行した(できた)のではないか。とすれば3月13日ないし14日も乗船の候補日であった可能性が出てくる。まあその程度は純粋に経験的なもので、船頭の判断に任されていたと考えられるが。

4)「潮もかなう」の意味
「潮が適う」は「潮が適当になった」であり、「(乗船するのに適当な)満潮になった」の意味だろう。小舟を繰り出して、つつがなく乗船活動するためには「潮流の停止=満潮」が必須である。もちろん、操船には「月明かり」も必要要件である。「潮もかなう」には「潮の流れと月明が乗船に適当になった」の意味が含まれている。

だが「かなう」には、この「適う」の他に、もう一つ「叶う」の意味がある。「〜もかなう」の謂いには、「祈願も叶う」の意味が含まれていると考えるべきである。この表現には、額田王達の「月出(=乗船に必要な晴天)」の願望(祈り)が込められている(存在した)と考えなければならない。

5)「今は漕ぎ出な」の意味
これまで述べて来たように、小舟に乗り込み、漕ぎ出すことを言っていると考えられる。漕ぎ出して沖に停泊している大船に乗り換えるのである。尚、細かいことだが、「今者許藝乞菜」は、「今は漕ぎいでな」が現在の定訓になっている。しかし「今は漕ぎでな」の訓も可能なのだとしたら、私は「こぎでな」と訓みたい。まあ、これはそれぞれの好みの問題かもしれないが。

以上の検討から歌を解釈すると次のようになるだろう。
8歌:「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出な」
訳文「熟田津で(沖に停泊している大船に)乗船しようとして(月の出を祈って)待っていると、潮も満ち月の出も叶えられた。さあ今こそ漕ぎ出そう」

なるほど気迫に満ちたすばらしい歌だ。…だがしかしだ…。この訳文(概ね両訳本と同じである)に今ひとつ物足りなさを感じるのは私が欲張りだからであろうか。それは何処から来るのか?引っ掛かりは二つある。
(1)「熟」の意味が分からないので「田津」の様子がイメージできないこと、
(2)額田王達がただ漫然と(心の中で祈るだけで)乗船を待っていただろうか?
の疑念である。あるいはこの微妙な違和感こそが、この歌の解釈に違い(軍団進発か、神事ないし遊戯かの)が生じる原因ではないのか、とも。

だいたい下の句の緊迫度に比べて、上の句の「熟田津で乗船しようとして月を待っていると〜」がやや平板で、月出を求める切実さが今ひとつ響いてこないのだ。前述したように、「潮も叶ないぬ」の謂いからいっても、本来、上の句には「月出=晴天」を念ずる祈り(祈願)の言葉が欲しいところ。それなのに、単に「熟田津で待つ」だけでは、少々言葉不足のように(王の歌にしては物足りなく)思えるのである。

「月の出」こそが夜間乗船の成否を決定していた。とすれば額田王達は、単に手をこまねいて「月の出=晴れ夜」を待っていただろうか?斉明女帝の周囲は、祭祀を執り行う巫女的な雰囲気に包まれている。とすれば、出航の成功の鍵を握る重要な「月出」を、彼女達がただ漫然と待っていた、とは私には到底考えられない。(※注2:女帝周辺の巫女的雰囲気

<もう一度「熟田津」の意味について>
「熟田津」には(単なる場所だけではない)もっと別の意味が込められているのではないのか?これが私の発想の原点である。「田津」は分かっている。問題は、「熟(にき)」が何を意味しているかだ。

実は、万葉集の底本では、「熟」は「就火」(縦書の一字で、上部が就+下部が火、の複合文字)で、もともとは「就火(にき)田津」であるという。とすれば、状況がまだ寒い春三月の夜間であったことを考えれば、「就火(にき)田津」とは、田津の周辺で火が焚かれて赤く映えている場景を表現しているのではないのか?

(「就火」を「熟」にあてるのは幾つかの写本による。その根拠は前述した日本書紀の記事に基づくようだ。ただ「就火」を「にき」と訓み得るか、という問題が生じるかもしれない。少々当て字気味であるが「にき」は「丹気」ないしは「丹木」で「あかあかと燃える炎」ないしは「あかあかと燃える木」のような意味と理解することができる。)

ここまで来れば、空想(?)はさらに広がるだろう。一般に(神に)物を捧げる行為を「献(た)つ」「奉(た)つ」と言う。とすれば「にきたつ」は、また「就火(にき)献(た)つ」あるいは「就火(にき)奉(た)つ」とも読める。女帝や額田王達が巫女集団であったことを重ね合わせてほしい。「にきたつ(の迎え)」とは火を燃やして「月出」を祈る儀式であったと私は推量するのである。(※注3:「にきたつの迎え」について

<作詠>
斉明七年1月6日、難波三津を出港した征西の大御船は、同月14日、熟田津の沖合いに停泊した。そこで女帝一行は下船し、中大兄皇子や大海人皇子らはそのまま先陣を率いて、前線基地の九州に渡ったと考えられる。その後二ヶ月、命令を奉じた後続の軍団が続々と熟田津に集結していた。おそらく3月に入って、中大兄皇子は女帝の迎えと後陣の軍団を率いるために、伊予に戻ったと私は推測するのである。 そして中大兄は、再び那大津に戻る熟田津の出発予定日を、3月満月の日(旧暦3月15日あるいは余裕をもって3月13日ないし14日)の夜と決定していたのであると。(※注4:大御船の廻船

事の成否は、当日夜間乗船に必要な晴天が得られるかどうかであった。その日、額田王達は懸命に月出と安全航海の祈願神事に勤しんでいたと思われる。想像するに、熟田津での天皇や皇太子の御座所は、小高い台地の上に置かれ、一帯を一望のもと眺望できる場所にあった。

目を外にやれば、時あたかも、参集した征西の軍団は、川沿いの各田津周辺に所狭ましと宿営していた。しかも春といってもまだ肌寒い3月の夜であってみれば、軍営には、篝火や暖をとるための火が盛んに焚かれていたと考えるべきだろう。それは田津一帯を覆いつくし、稀に見る壮観を呈していたと想像される。
もとより、篝火や焚き火は軍団の暖と灯かりをとるためのものである。しかし、額田王達には、野を埋め尽くして焚かれるその煌々たる火こそは、あたかも「田津」全体が月の出を祈願する、壮麗な「就火献つの迎え」の儀式のように見えたのではないだろうか。

頃はよし、おもむろに斉明女帝は傍らに控える額田王に歌を詠むように命じた。
8歌:「就火田津(就火献つ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出な」
訳文2「あたかも『就火献つの迎え』の儀式のように、盛んに火を焚いている田津で(月出を祈りながら)乗船の時を待っていると、潮も満ち月の出も叶えられた。さあ今こそ漕ぎ出そう」

「潮もかないぬ」という言葉に、神への祈念(月出と航海の安全と戦勝)が天象の祝福によって叶えられた、一同の充足と安堵の思いが込められている。命令が下り、満を持して待機していた隊列が動き出し、次々と舟に乗り込んでゆく。勇みだった軍団進発の雄景が目に浮かんでくるではないか。

<古代瀬戸内海航路の日程>
さて、日本書紀の記事と熟田津の出港の予想日から、斉明七年の征西の日程をまとめみよう。 ◇年表:661年(斉明七年)
1月6日、難波三津大伴を出発(日本書紀:御船、西に征きて、始めて海路に就く)
1月14日、伊予熟田津に到着(日本書紀:御船、伊予の熟田津の岩湯行宮に泊つ)
〜熟田津での待機・逗留〜
3月15日、熟田津を出発(万葉集8歌:八木孝昌氏による推定、満月の日)
3月25日、那大津に到着(日本書紀:御船、還りて那の大津に至る)

このことから、当時(飛鳥時代)の難波津−那大津(博多)間の航行の日数は、難波津→(9日)→熟田津→(11日)→那大津(博多)で、丁度合計20日間(程度)であったことが分かる。なお鶴岡泰夫氏は、全600kmの航程を、4時間/1日の操船で25km/1日と計算し、計24日と算出している。(平均30km/1日とすれば丁度20日になる)

魏志倭人伝の記事に対する若干の見解:
こうした事例から言っても、魏志倭人伝の言う水行20日とは、まさに瀬戸内海航路の北九州(伊都国)と畿内(邪馬台国)間の所要日数と合致するのである。
ただ例示は難波津→那大津間の下りのデータであった。しかし逆の上りルートであっても、(一方向の海流と違って、)瀬戸内海航路が可逆的な潮汐に基づく潮流利用であってみれば、ほぼ同日数の航程と判断して差し支えないだろう。

(所要日数に最も影響が大きかったのは、天象(風や天候)による夜間航行の可否であったかもしれない。例えば、同じ水行10日でも、夜間航行のできない場合は6時間/日×10日=60時間/10日であるし、そのうち5日間の満月時の夜間航行が可能であれば、6時間/日×10日(昼間)+6時間/日×5日(夜間)=90時間/10日と5割も違う結果になる。したがって厳密に言えば、水行10日といっても都度状況によって到達地点は違ってきただろう。)

以上、魏志倭人伝を本論の倒錯説に従って改めて読めば、記事の言う方角は概ね一貫していると判断できるだろう。(絶対方角ではなく、狗耶韓国から松浦に至る方向を南とする方角ということで)
とすれば、
原文「〜其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王〜」
「その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。」の狗奴国については、文面から「奴国の南」の意味で九州南部と、また
原文「〜女王國東渡海千餘里復有國皆倭種〜」
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」の国は、恐らく北海道のことを言っていると自然に比定される。

ただ新たな不審が発生している。投馬国=出雲で間違いないとして、では邪馬台国の官人は、何故魏使に最短距離の日本海航路を言わずに、大きく迂回する(困難な)瀬戸内海航路を示したのか?の疑問である。投馬国への行路は「東、投馬国に至る、水行十日(例えば)。五万戸余り」のような謂いが最も簡潔な表現であったはずである。不思議である。ここに当時の「やまと国」と出雲国との微妙な関係(屈託・含み・敬遠・疎外等)を見て取るのは考えすぎだろうか? そういえば紀記には古代やまとと出雲の葛藤が述べられている。
いずれにしても、今後こうした問題や邪馬台(やまと)国建国の主体等が解明されるであろう。

本稿 了。 次回、【名歌鑑賞17】

※注1:「熟+田津」の可能性について
この「熟+田津」の考え方の根拠の一つに、斉明女帝の歌がある。伊予風土記によれば、熟田津逗留の際の斉明女帝の歌に「美枳(みき)たつに〜」という歌があったという。女帝の歌は初句が残るだけで全ては分からないから、「みき」が何を意味する言葉かは分明でない。ただ「みき」の候補としては「御幸」「味酒」「三木」「御城」等の地名が考えられている。いずれにしてもこのことは「みき+田津」であったことの証拠になるだろう。

※注2:女帝周辺の巫女的雰囲気
日本書紀・皇極紀元年八月の条、「八月の甲申の朔に、(皇極)天皇、南淵の河上に幸して、跪きて四方を拝み、天を仰ぎて祈りたまふ。即ち雷なりて大雨降る。遂に雨ふること五日、天下をあまねく潤す。〜」とあり、皇極女帝(斉明女帝)は自ら雨乞いを行っている。卑弥呼以来なのであろうか、女帝が魏志倭人伝の言う鬼道?(祈念の神事・祭祀や吉凶占い)に長じていたことがわかる。 時に額田王たちが、「月の出」の祈願(もちろん「海路の安全」と「戦勝祈願」を含めて)の儀式を行っていたに違いない、と考える所以である。そしてそれは、夜間の祭事であってみれば、当然神饌を捧げ、多数の灯明を点す行事であったろう。

※注3:「にきたつの(迎え)」について
はたして「熟田津(にきたつ)」には本当に「就火献つ」の言葉が掛けられているのだろうか?いやその前に「にきたつの迎え」なる儀式が実際に存在したのかどうか。私は「存在した」と考える。それは「山たつの迎え」という、言葉の類例が認められるからである。

<万葉集巻一・90歌(記・88歌)>
<原文>
古事記曰 軽太子・軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時歌曰
90歌:
「君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待(此云山多豆者是今造木者也)」
きみがゆき けながくなりぬ やまたづの むかへをゆかむ まつにはまたじ

<釈文>
古事記に曰く、軽太子、軽太郎女を?み、故にその太子伊予の湯に流されき。この時に、衣通王(軽太郎女)、恋慕に堪へずして追ひ往きし時に、歌ひて曰く
90歌:
「君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを往かむ待つには待たじ」(ここに「やまたづ」と云ふは、今の造木(みやっこぎ)をいふ)

訳文1(新日本古典文学大系本):
「君の旅は日数を経て久しくなった。(やまたづの)お迎えに行こう、いつまでもお待ちはいたしません(ここに「山たづ」とあるのは、今の造木(にわとこの木)である)」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「あなたの旅は 久しくなった (やまたづの)お迎えに行こう とても待ってはいられない(ここに「山たづ」とあるのは、今のにわとこの木のことである)」

この万葉集90歌は、もともとは古事記・允恭天皇紀に載せられた木梨軽太子・軽大郎女悲恋物語(以下「軽物語」と略称)の中の、軽太子の帰りを願う、軽大郎女の歌である(記・88歌、日本書紀には存在しない)。万葉歌と違って、実際の作者が分からない古事記歌謡が、万葉集にも収録されているのは、磐姫皇后歌(実は但馬皇女作歌)の万・85歌の元歌と考えられたからであり、恐らく奈良朝になってからの挿入であろう。

<歌の解釈>
「君が往き」とは軽太子がタブーの同母妹と通じたために伊予に流されてしまったことを言っている。「日長くなりぬ」は「月日が経ってしまった」の意味である。
問題は、下句「山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待」「やまたづの迎へを往かむ待つには待たじ」の意味である。定訓では「山多豆乃(やまたづの)」は「迎え」の枕詞とされ、「(やまたづの)お迎えにゆこう、待ってばかりはいられない」と訳す。実際の物語でも、軽郎女は待ち切れなくなって、自ら伊予に逢いに出向くことになっている。

しかし、歌が「(やまたづの)迎えに行かむ」でなく「(やまたづの)迎えを往かむ」であることに注意する必要がある。「〜の迎えに行かむ」と「〜の迎えを往かむ」とでは意味が異なると私は考える。文法的な根拠は不明であるが(というのは辞書には的確な用例が見当たらない)、前者の「迎えに行かむ」は「迎えに行こう」であり、後者の「迎えを往かむ」は「迎えの(ための行為を)続けよう」ないしは「迎えの(ための行為を)続けさせよう」の意味と私には読めるのである。

前者の「やまたづの迎えに行こう」であるならば、確かに「やまたづ」は「迎え」の枕詞と呼んで差し支えないかもしれない。だが、後者の「やまたづの迎えを往かむ」の場合は、実際は「やまたづ」は「山た(献)つ」のことで、「山献つの迎え(の儀式)」と私は解釈するのである。そしてそれは、「帰りを祈る」、お呪いか術祖、神事の儀式のようなものであったと推量するのである。

万葉集90歌(記・88歌):
「君が行き日長くなりぬ山献つの迎へを往かむ待つには待たじ」(軽大郎女の歌)
訳文「君の旅は久しくなります。『山献つの迎えの儀式』を続けよう(続けさせよう)。ただ漫然と待っているばかりではいられない」
どうだろうか。歌は、恋人との永い別離に、焦燥にかられて居ても立ってもいられない郎女の姿(=女性の気持)を映し出しているのだと。

問題は「山献つの迎え」とはどんな儀式であったか?だろう。この場合「山(やま)」が何を意味するか解り難いが「山の幸を献つ」か、あるいは「やまたつ」に「山多豆」の文字が当てられていることを考慮すると、「五穀を山のように盛る」のような意味ではなかったろうか。

ただ、古事記の軽物語では続いて (衣通王が)追ひ到りましし時に、(軽の太子が)待ち懐ひて歌ひたましく
「隠国の 泊瀬の山の 大峰には 幡張り立て さ小峰には 幡張り立て 大峰にし 仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ」(記・89歌)
の歌が置かれている。

とすれば、歌では「泊瀬の山の 大峰には 幡張り立て さ小峰には 幡張り立て〜」と言っていることから、「山献つ」の儀式とは「山に幡を立てる」行為とも受け取れるのである。「献つ」「奉つ」はまた「立(た)つ」でもある。まあ、歌ではいかにもこれ見よがしに「幡を立てる」となっているが、初めに「隠国(こもりく)の泊瀬の山の〜」と言っているので「密かに、隠れて」の意味なのだろう。(あるいは、この記・89歌は挽歌的な雰囲気を持っており、亡き霊を迎えるような行事にもとれる)

このように考えて行くと、「やまたつ」と「にきたつ」とは語源的に極めて近い言葉であり、同じ「迎え」の儀式であるとの思いが強まってくるだろう。一般に、「〜た(献、奉)つの迎え」とは、諸々の物を献じて、(人間の願望を)神に祈念する儀式を指していると考えるのである。どうだろうか。「熟田津(にきたつ)」には「就火献つの(迎え)」の意味が掛けられていると考えても間違い無いだろう。

ところで、この軽大郎女の「やまたつ」の歌の意味が本論の通り「待つ歌」であったとしたら、実は、極めて興味深い事実を提供していることになる。というのは、古事記の軽物語では、軽郎女はこの歌を詠った後、伊予に流刑の身の、恋人である軽太子に逢いに出かける筋書きになっているからである。つまり「待つ歌」ではなく「逢いに行く歌」として採用されている。これは明らかに歌の誤用ではないだろうか。(※注31:「待つ歌」について

この短歌の意味と物語の筋との乖離は何を意味するか?とりもなおさず、歌と物語とは別途に作られた、全く違った作品であったことを証明していることになる。このことは先行する「詠み人知らずの古歌集」の存在を暗示している。そしてそこから歌が古事記・軽物語に流用されたと考えるしかない。つまり古事記・軽物語とは、その内容から言っても、日本書紀・軽物語と古歌集歌によって(恐らく後宮で)合作された比較的新しい作品と判断できるのである。(※注32:古事記と日本書紀の軽物語

さらにもう一つ興味ある設問が生じている。では一体、額田王の「にきたつの歌」と、「やまたつの歌」とはどちらが先行する作品であったかという問いである。正直この判定は難しい。しかし、額田王の「にきたつの歌」の方が複合され意味を有すること。「迎え」が省略されていること、さらに伊予で詠われていること(=額田王は古事記・軽物語を知っていた可能性が高い)などから推測すると、作詠の順番は、「やまたつの歌」(古歌集)→古事記・軽物語→「にきたつの歌」(万葉集)ということになるのだが、果たしてどうだろうか。
(なお、「注書き」の「造木(にわとこの木)〜」云々は、意味不明の書込みという他はない。)

※注4:大御船の廻船
日本書紀によれば、斉明七年(661年)3月25日の条に、「御船、筑紫那大津に還る」とある。「還る」の意味はいろいろ取れるが、普通は「迎えに行って還る」の意味である。大御船には天皇か皇太子しか座上出来ない。女帝たちが熟田津に逗留している間、中大兄皇子は那大津に渡り、諸々の準備を済ませた後、再び女帝一行と終結した後続の軍団を収容するため熟田津に戻ったと推量する所以である。

※注31:「待つ歌」について
このように読めば、この軽大郎女の「山たつ」の歌は、女性特有の「待つ歌」の典型歌になっていることが分かるだろう。女性の立場は宿命として「待つ」ことであり、宮中(後宮)の女性たちに持てはやされた一首だったのではなかろうか。「山たつ」の歌は単純に「待つ」でなく「それを行動で現す」と言う意味で、一層の願望の強さ・切実さ・哀れさが表現されている。

古歌集には、詠み人知らずの多くの「待つ歌」が存在したことを想像させる。たとえば
「居り明かし君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜は降るとも」(万・89歌、古歌集)
「あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに」(万・107歌、大津皇子)
等の例歌をすぐに挙げることができる。
この大津皇子の歌は、男性が女性を待つ立場で詠ったところに面白さがある。が恐らく同様の類歌が存在したのだろう。

※注32:古事記と日本書紀の軽物語
古事記の軽物語は、允恭天皇の同母の兄妹、木梨軽太子と軽大郎女(衣通王)の悲恋物語である。当時、同母兄妹の婚姻は固く禁止されていたが、その禁を犯し二人は恋愛関係に陥り通婚してしまう。発覚して軽太子は伊予に流罪になる。残された軽郎女は、帰りを待ちあぐねて伊予の太子に逢いに行き、そこで二人は心中する筋書きになっている。この「やまたつ」の歌は、太子に逢いに行く前に郎女が詠った歌である。

一方、日本書紀の軽物語は全く筋書きが異なっている。書紀の物語では、同母兄妹相姦の事が発覚しても、木梨軽皇子は太子であったために罪されず、逆に軽大郎女(皇女)の方が伊予に流されてしまう。しかし太子自身はそのことをきっかけに人望を失い結局滅亡することになる。軽大郎女(皇女)の歌は一切存在しない。

こうした物語が実際の史実に基づくかどうかは不明という他はない。ただ比較からもわかるように、古事記の軽物語が軽大郎女に焦点が当てられた恋愛物語であるのに対して、日本書紀の方は軽太子が主役の没落譚になっている。言わば、前者は女子向け、後者は男子向けの、もともとは子女の同母兄妹通婚禁止の説話として語り継がれたのであろう。

(2007.03.15.M.A.)

<参考文献>
一般書:
1.「万葉集全講」  武田祐吉  明治書院  1955
2.「萬葉集」  日本古典文学大系  岩波書店  1957.05.06
3.「古代歌謡集」 日本古典文学大系 岩波書店 1957.07.05
4.「万葉集評釈」 窪田空穂 角川書店 1966.04.15
5.「記紀歌謡」 日本詩人選1 益田勝実 筑摩書房 1972.05.25
6.「斎藤茂吉全集  評釈」  斎藤茂吉  岩波書店  1973.09.13
7.「萬葉集私注」  土屋文明  筑摩書房  1976.03.05
8.「万葉集」 古典文学解釈講座  古典文学教材研究会編 管野雅雄監   三友社出版 1994
9.「萬葉集」 新編日本古典文学全集 小学館  1994.05.20
10.「万葉集釈注」  伊藤 博  集英社  1995
11.校訂「萬葉集」  中西 進  角川書店  1995.01.31
12.「万葉集」  和歌文学大系1  稲岡耕二  明治書院  1997
13.「日本書紀」 新編日本古典文学全集 小学館 1998.06.20
14.「萬葉集」  新日本古典文学大系  岩波書店  1999.05.20
15. セミナー「万葉の歌人と作品」  企画編集/神野志隆光、坂本信幸 和泉書院 1999.05.30

個別書1:
1.「悲劇の王妃」壬申の乱の犠牲者十市皇女 若浜汐子 近代文藝社 1985.04.07
2.むらさきのにおえる妹 「額田王」 日本の作家1 菊池威雄 新典社  1989.06.10
3.「万葉王族歌人群像」 北島徹  世界思想社  1992.11.20
4.「沼の司祭者 額田王」 吉田金彦 毎日新聞社 1993.03.05
5.「額田姫王」 精選復刻紀伊国屋新書 谷馨 紀伊国屋書店  1994.01.25
6.「月と潮との照応」万葉集八番「熟田津」歌考 八木孝昌 萬葉学会159巻1  1996.09
7.紫のにほへる妹 「額田王の実像」 向井毬夫 集英社  1997.03.19
8.「万葉入門考」五番歌と軍王の秘密を尋ねる 鶴岡泰夫 四国新聞社 2001.11.21

個別書2:
1.「邪馬台国論争」 岡本健一 講談社 1995.07.10
2.「倭人伝の国々」 小田富士雄他 学生社 2000.05.20
3.「魏志倭人伝を読む上・下」邪馬台国への道 歴史文化ライブラリー 佐伯有清 吉川弘文館 2000.10.01
4.「検証 邪馬台国論争」 ベスト新書 関裕二 KKベストセラーズ 2001.09.01
5.「邪馬台国と大和朝廷」 平凡社新書 武光 誠 平凡社 2004.05.14