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HH609031.DOC 【名歌鑑賞 17:宇治回想歌】 森 明 <万葉集巻一・7歌> <原文> 訳文1(新日本古典文学大系本):
すると自然に次のような疑問が湧いてくるに違いない。伝えることを目的にした作品なのに、では何故難解な(開示情報の不十分な)作品が存在するのか?という問いである。理由に、作品の出所が編纂時にはすでに不明瞭になっていたからという場合があるかもしれない。あるいは、作者の意図が充分に反映されなかった失敗作という場合もあるかもしれない。しかしそれだったら収録しなければいい。にもかかわらず、あえて掲載されているということは、作品が「あからさまに伝え難いことを伝えようとしているから」との見方も成り立つだろう。 7歌は多くの謎(問題点)を含んでいる。解釈のための情報が極端に少ないというかむしろ曖昧化(神秘化?)されている。だいたい作者にしてからが、「額田王の歌、未詳」になっている。だから上述したような穿った観点からすれば、歌には何か秘密の言い分が隠されていると憶測されるのである。当然それは歌の収録時にはタブー視されたある伝言に違いない。 作者はあるいは編者はもどかしさの中で何かを伝えようとしている。だから、作者は必ず作品の中にその解読の手懸かりを残していると考えるべきである。もし全く読み取り不能な呪文の羅列に過ぎないとしたら、歌集にわざわざ留める必要がないではないか。 7歌は未だ十分に解明されているとは言いがたい。訓読はされてはいるが意味上からは超難解歌の一つといえるだろう。歌意を一義的に定める行為は、あらゆる可能性の想定と様々の試行に基づく検証の結果なのである。ただ考えられる多くのケースの列挙となると論述がどうしても煩瑣になるきらいがある。 <7歌の解釈> そうかもしれない。しかし「秋」の意味だったら「秋」と書くだろう。何故「西」にも「夕」にも取れる紛らわしい「金(あき)」を使うのか?歌が後注にあるように斉明五年3月の比良行幸時の作詠とすれば、歌の季節と一致しなくなる。まあ、回想歌だから、昔の「秋」の行幸を懐かしんでいると考えればいいのかもしれないが。 ここは自由な発想が許されるところだろう。「金野」の「金」は、(第一感)私には「彼方(かなた)」の「かな」の意味のように受け取れる。「(時も場所も)今はもうはるかに遠くなってしまった、あの〜」というような意味で、その方が回想の歌に相応しいように思えるのである。具体的には下の句に「宇治の宮」とあるから、「金野」は「宇治の宮の野」つまり「宇治野」を指していることになる。(※注1:木梨軽皇子物語の「金門(かなと)」の用例について) それと、こじ付けかもしれないが、「金野」にはもう一つ「哀(かな)野」の意味が込められているように私には思える。もともと「かな(哀、悲、愛)・し」の語意は、辞書によれば「不可能の意を表す補助動詞「かぬ」と同じ語源で、身近なものに対する、おしとめがたい、せつない感情を表し、愛惜や悲哀を表す意味にも用いられる」とある。もっとも、無理にこの部分だけで意味を固定する必要はない。歌全体の中で捉えるべきである。ただ定訓で、「秋ののの〜」と「の」が三つ続くのはどうか。「秋野の〜」と四音で訓むべきだろう。 2)「美草苅葺 屋杼礼里之」:「御草刈り葺き 宿れりし」 この文節のもう一つのポイントは、「屋杼礼里之(宿れりし)」の主語である。つまり誰が「宿った」のかという問題である。もしここが「宿りし」であったならば、「宿る」のは私=作者=額田王(なお、「達」と複数系も考えられるが煩雑になるので、以下を単数系で論述することにする)で決まりかもしれない。しかし「宿れり+し」の場合は、別の第三者が主語ともなり得る。ここに歌の解釈上の重大な岐路が内蔵されている、と考えなければならない。 「宿れり+し」は二つの解釈が可能である。それによって下句の意味も変わってくる。 (B)もう一つは、尊敬の助動詞「る」の連用形として解釈する場合 3)「兎道乃宮子能 借五百磯所念」:「宇治のみやこの 仮庵し思ほゆ」 (A)「(額田王が、)宿れりし」と解釈する場合 では「兎道の都」とはどこか?二つ考えられる。 (A1)「兎道乃宮子」=「兎道の都」=「宇治の都」と解釈する場合 7歌釈文A1: この解釈では、歌は昔に行幸した、宇治の都での野宿(宿泊)の回想・懐旧歌となる。では何時の時点での作歌か(回想か)?ここでも二つ考えられるだろう。 どちらと判断するのは難しい。だが額田王達が(斉明女帝が)比良方面(宇治方面)に行幸したと明記されているのは、日本書紀によれば斉明五年3月の一回だけである。やはり(2)の飛鳥京での回想と考えるのが素直ではないだろうか。 ただどちらにしても、自分(たち)が宿ったのに「御(美)草」と尊(美)称を用いていること。万葉集の編纂方針からいっても、個人歌がここに置かれることは不適当と考えられる等を考慮すると、この解釈の場合は、額田王が斉明女帝の立場で作詠したと考えるべきだろう。 だが違和がある。いかにその人が高貴の身分とはいえ、個人の内面の感情を他人が代作できるだろうか?歌の本質からいって、私はこの考えには賛成できない。それに、行幸時の一時滞在に過ぎないのに「宇治の都」とは少々大げさすぎのように思えること、等々この解釈には問題がある。(※注3:7歌の後注および題詞問題について) (A2)「兎道の宮子」=「ささなみ道(近江道)の都」=「近江京」と考える場合 7歌釈文A2: この解釈では、歌は近江京(での生活)の懐旧の歌になる。この解釈の優位な点は、「借五百磯所念」には「磯所」の字が用いられ、いかにも「琵琶湖の磯辺」が表現されているように取れるところにある。当然この場合の作詠は、壬申の乱後、額田王(達)が飛鳥京に戻って、三輪山の麓に逼塞した日々のいずれの日かが相応しいだろう。 ただ難点は、やはり「近江京」での住いが仮庵であったことになってしまうことだろう。まあ近江京での生活は結局短期間の、言わば「仮住い」なってしまったのだから矛盾はないかも知れないが、「仮庵」とはいかにも「あばら家」の風情ではないか。たしかに遷都は急で、準備は十分ではなかったかも知れない。だが、曲がりなりにも京であり、それなりの家屋が用意されていたと考えれば少々大げさな懐古といえなくもない。 それとやはり「美(御)草」の美称が、自分たちの住いを仮庵と称していることとやや矛盾しているように感じられる。最大の難点は、関係のない川原宮代の歌として万葉集に収録されていることだろう。もっともこれらは歌意のカモフラージュのためとも考えられるから、この解釈は一解として成立しているかも知れない。ただこの場合は、額田王個人の感懐というよりは、近江朝所縁の人々を代表した作品と見るのが適当だろう。 (B)「(兎道の宮子が、)宿れりし」と解釈する場合 (B1)「兎道の宮子」=「宇治の宮子」の場合 (B11)「宇治の宮子」=矢河枝比売を当てる場合 物語は一種の玉の輿伝説である。それによれば、宇治の宮主である矢河枝比売が木幡村の巷で応神天皇と出会い、見初められて、いろいろの経緯の後、結局迎えられて妃となることになっている。そしてこの場合の「仮庵」は、結婚のために新設された「住まい」ということになる。 7歌釈文B11: この解釈では、歌は「矢河枝比売」に対する額田王の感懐歌(愛惜歌)となる。ただ問題は、何故額田王が、この物語に係わって7歌を作詠するに至ったのか?の動機と経緯の説明だろう。これはなかなか難しい質問である。どのような想像(空想)によって結び付けられるか? 一つの解としては、例えば作詠の時期として、やはり斉明五年の比良行幸時と考えるのが自然ではないだろうか。「矢河枝比売物語」が当地で演じられた(語られた)後に、この7歌が披露されたとしたら、一応符合するのではないか。宴席歌(歌謡)の反歌として披露された歌がここに収録されていると考えるのである。 (実は非常に興味深い事実がある。古事記「矢河枝比売」が日本書紀では「宅媛」と書かれ、大友皇子の実母の「伊賀采女宅子娘」に極めて名前が類似していることである。とすれば7歌は、もしかしたら、古事記・矢河枝比売物語に名を借りた「伊賀采女宅子娘」の顕彰・哀悼歌との様相を呈してくる。伊賀采女宅子娘と額田王は、子供同士が結婚したことによって縁戚となったこと、また同じ采女階級の出身者として親しかったことが想像できるのである。) もっとも矢河枝比売物語は古事記にしか伝えられていない物語である。また名前も単なる偶然の類似なのかもしれない。それに、矢河枝比売自身は(たとえ大友皇子の実母の伊賀采女宅子娘が象徴されているにしても)特段高貴の存在ではないので、万葉集のこの位置にその追懐歌が置かれるのはやはり不自然感を免れないだろう。 (B12)「宇治の宮子」=宇治若郎子(兎道稚郎子)と考える場合 7歌釈文B12: 作詠の時期は、矢河枝比売物語と同様斉明五年の比良行幸の時と推定するしかないが、ただこの解釈には無理があるだろう。不具合は明らかである。宇治の都は宇治稚郎子の京であってみれば郎子の住いが仮住いであったとは考えられない。それに額田王が宇治稚郎子を追懐し、かつその歌をここに置く理由が何一つ見当たらない。 (B2)大友皇子の哀悼歌としての解釈 日本書紀によれば、壬申の乱での最終段階では 7歌釈文B2: どうだろう。意味は通りそうである。それを裏付ける証拠は?それらしい記述がある。「借五百磯所念」の「磯(し)」の表記文字である。実は、「磯」は、底本では「火ヘンに幾」の字であるという。とすれば、(平和時というよりは、)戦火に遭遇して野宿する仮庵が表現されていると見るほうが相当ではないか。 そうすると、「御(美)草」と刈り葺いた草にまで尊(美)称を付けていたことも、主語が大友皇子であってみれば、内容に相応しい表記と納得できる。となればあるいは「金野」も、大友皇子の死が7月末であったことを考慮するならば、「秋野」としての解釈が復活するかもしれない。 書記には、大友皇子は山前で自決したとある。「山前」の場所は諸説あって、未だ決していないが概ね山城の山崎と考えられている。だがもしかしたら、宇治稚郎子皇子の伝説になぞらえるならば、あるいは山前は(宇治太子の墓所と言われている)朝日山の麓であったと、7歌は伝えているとも推察できるであろう。 <歌の全容の点検> (1)斉明五年の比良行幸の回想歌としての解釈 (2)近江京の回想歌としての解釈 (3)古事記・矢河枝比売(あるいは大友皇子実母)の懐古歌としての解釈 (4)日本書紀・宇治稚郎子物語の宇治稚郎子の懐古歌としての解釈 (5)宇治稚郎子物語になぞらえた、実は大友皇子の哀惜歌としての解釈 さて、このうち最も相応しい解釈はどれだろうか?歌自体は、「宇治の宮子」の謂いや後注の「比良行幸」から言っても、それらにかこつけた作品になっていることは間違いない。だがそれを真に受けてはならないだろう。この判断は、万葉集(旧本か)の編集者の立場からの、もっと別の(政治的)要素も加味してなされなければならない。 a)何故歌はここに置かれているのか?b)何故作者を未詳としなければならなかったか?c)何故歌意を悟られないように難解化(神秘化)し、あるいはカモフラージュしなければならなかったのか?d)そして作主として何故額田王の名が冠せられているか?等々あれこれを考え合わせると、次第に歌の真意は、(5)の大友皇子への哀惜・鎮魂にあったように私には思えてくるのである。とすればその作詠の時期は、額田王達が近江京から飛鳥に帰り、三輪山の麓に逼塞したいつの日かであろう。もしかしたら、その命日の、内輪の会合の場での作歌であったかもしれない、等々想像が果てしなく広がってくるのである。(※注6:もう一つの歌の解釈案について) <本歌取り> 「仮(刈)庵」とは秋の収穫(刈穂)のために寝泊りする即席に設けられた「あばら屋」のことである。歌意は、その屋根を葺いた「苫(とま):草を編んで作った筵」の目が粗すぎて、衣が露に濡れてしまった、の意味である。 問題は、実作ではないのに、何故天智天皇の名が冠せられているのか?である。一般には意味不明としながらも「農民の苦労を思いやって詠った」と考えられているようである。この解は天智十年(671年)5月、宮中に田舞いが創始されたことに由来するのかもしれない、が今ひとつ釈然としないものが残る。 ところでこの歌は、 そのように考えると、「我が衣手は露に濡れつつ」は、「私の衣の袖は涙の露に濡れています」「涙にくれています」「悲しんでいます」の寓意にとれる。そして何やら「仮庵」とは近江京遷都の喩えに思えてくるではないか。 さすがに語調は申し分ない。ただ歌は天智帝の象徴歌として見た場合、あるいは抒情歌としても、率直に言って、日本書紀の記事の皮相をなぞった、王朝貴族のたわいない座興歌のように私には見える。しかし、「残した禍根への悔悟と愁嘆」と言う意味では変に当たっているようにも思えるから妙である。いずれにしても、7歌が大友皇子(あるいは近江朝)への哀傷歌であったという本論の推定を補強しているだろう。 本稿 了。 次回 【名歌鑑賞 18】
允恭天皇が崩御した。本来は皇太子の木梨軽皇太子が皇位に就くべきであったが、太子は同母の軽皇女と恋愛関係に陥ったことから人望を失い、群臣は同母弟の穴穂皇子(後の安康天皇)の擁立に向かう。軽太子は軍を催して退勢を挽回しようとするが、逆に攻撃を受け、たまらず太子は物部大前・小前宿禰の屋敷(領地)に逃げ込む。雨が降り始める中、穴穂皇子の軍は大前宿禰の屋敷を取り囲む。そして歌を詠う。 穴穂皇子の歌 この場合の「金門陰」の意味は、「彼那処(かなと)陰」「彼那門(かなと)陰」と考えられる。「金」は「彼那(かな)」、つまり「彼方」「彼岸」のことで「向こう側の」「彼方の」「手の届かない遠い」の意味に使われている(ように見える)。大前・小前宿禰は物部氏であり、言わば物部氏の「彼那門(かなと)陰」とは、「権門の陰」「手の届かない権門の陰」「手出しのできない権門の陰(傘)」の意味と考えられる。 訳文案: 当時の氏族社会では、その領地は殆ど独立国家であったから、権勢のある氏族の領域には、王権といえども濫りに介入できなかった。古来、物部氏の石上神社は神域で「駆け込み寺」のような役割を果たしていたことが知られている。 すると、大前宿禰が身振り宜しく門に出て来て歌を詠む 「足結いの小鈴」は宮中で行われていた風習なのであろうか。人が近づいて来る事を知らせる、言わば「立ち聞き防止」の意味があった可能性がある。この場面は、大前宿禰と穴穂皇子の間で密かな談合が交わされたことを暗示する歌謡劇になっている。 訳文案: (密約が交わされ)穴穂皇子は囲みを解いて軍を引き上げる。その後、軽皇子は宿禰の家で自死する。(古事記物語では、大前宿禰が太子を捕らえて差し出し、太子は伊予に流される。その後追いかけて行った軽皇女と心中するという悲恋物語に改変されている。) ※注2:兎道(うじ)の場所について もう一ヶ所は、7歌の比定地でもある、淀川を遡った山背の「兎道」である。この地域は「宇治」とも呼ばれ、記紀によれば宇治稚郎子や矢河枝比売の宮があった。なお「兎道」を直訳すれば「兎の(出る)道」の意味になる。これを拡大解釈すれば、古代の「兎道」は「ささなみ道(近江道)」(現在の36号線)をも指したのではないかとも推測されるのである。 ※注3:7歌後注および題詞問題について このうち、前半の「右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰く、『一書に、戊申の年に比良宮に幸したまひし大御歌なり』といふ」の部分は明らかに奈良時代の挿入だろう。しかし後半の「紀曰く〜」の部分はどうか。というのは、奈良時代の挿入であれば、他の例でもそうなっているように、「日本書紀に曰く〜」と書かれるはずだからである。 したがって、もともと原本(古本あるいは旧本)の段階では、 (この議論は、些細なことに拘泥しているように思われるかもしれないが、7歌の秘密を解き明かすために、原本がどうなっていたかを知る上で大切なのである。例えば、歌の真意をカモフラージュする工作があったかどうか等を究明する意味で。) ところで、類聚歌林が(山上憶良が)7歌を大御歌(斉明女帝の歌)としたのは何故であろうか?思うに、一介の額田王の個人的回想歌がこんなところに置かれるはずが無いとの判断からであろう。憶良が主張するように、7歌が大御歌(額田王の代作としても)であるならば作詠(回想)は斉明五年(659年)3月の比良行幸時になされたと考えるべきだろう。 というのは、女帝はそれからまもなくして(斉明七年7月に)崩じており、その時(斉明五年)以外に作歌のチャンスがなさそうだからである。当然、歌はその時点での回想ということになり、(類聚歌林が言うように)さらに遡っての、戊申の年の比良行幸の存在(一書)を想定しなければならなくなる。 だが本来、(この)歌は(作者が提示した)最初のありのままの姿に向かい合うべきである。そして作者(編者)の意図を汲み取るべきなのである。無用の書き込みは(またそれに頼ることは)、その真意を曇らせる(読み取りにくくする)恐れがある。 <題詞問題> 日本書紀によれば、このころは一代ごとに宮地が変わるのが普通であった。 このようにみると、斉明天皇の川原宮代はわずか元年の(655年の)一時期に過ぎず、殆どが後岡本宮に住んだことになる。ここで問題が発生する。つまり、斉明二年(656年)以降の作品は、本来全て後岡本宮代に収録されてしかるべきはずなのに(そして実際、斉明四年の歌は後岡本宮代に収録されているのに)、斉明五年の後注のあるこの7歌だけは、何故か分離されて、川原宮代として特別に囲われていることである(皇極紀の板葺宮でないことに注意を要する)。やはり編者には何か特別の思惑が働いていると考えないと説明が付かない。こうしたことも7歌の存在を謎めかせている理由である。 4:矢河枝比売物語について そして、「其の家を飾りて、候ひ待てば、(応神天皇は)明くる日に入りましき。故、大御餐を献りし時に、其の女矢河枝比売命に大御酒盃を取らしめて、献りき〜」とあり、家を飾り、歓待した様子が描かれている。なおこの物語は古事記・応神天皇記にだけあって、日本書紀には存在しない。 応神天皇の歌(古事記・42歌): 訳文(新編日本古典文学全集・古事記本): 歌謡の解釈: A)晩餐に供せられた、蟹(料理)と隣の栗(料理)との掛け合い歌としての解釈 (すると何と) 17、そんなようであった良いなあと思っていた食べ物 B)晩餐での、客の敦賀男(蟹男)と接待役の木幡女(栗女)との掛け合い歌としての解釈 (すると何と) 17、そんな人がいたらなあと思っていた女性 歌は、要するに(敦賀)男と(木幡)女の宴席掛け合い歌になっている。恐らく歌は、招待客が晩(正)餐に供せられた酒肴(名物の蟹と栗料理)を目の前にして詠うのであろう。自分を蟹男(蟹料理)に擬え、接待役の栗女(栗料理)を茶化した、からかい歌、戯れ歌に仕立てられている。 ささなみ道(近江道)は日本海と難波、大和地方を結ぶ古くからの幹線道路で商売上の往来も盛んだったのではなかろうか。当然木幡は宿場として古くから拓け、商売人の宿泊も多かったことが推測される。越前蟹(ずわい蟹)は季節としては冬が旬である。恐らく昔からの名物で木幡地方まで商われ正(晩)餐に饗せられたのであろう。あるいは歌は、昼間は農作業の正業に従事しながら、夜は化粧して接待役に早代わりする女性達を揶揄した歌なのかもしれない。この歌は、もともとは木幡地方の民謡だったのではないか。それが何時の日か応神天皇の行幸物語に取り込まれたと考えられる。 さて問題は、この物語(歌謡)と7歌とがどんな関連があるのか?である。こじ付けかもしれないが、私は古事記の矢河枝比売物語(歌謡)は斉明五年3月の比良行幸時に創作されたか、現地で演じられた可能性があると考えるのである。歌の内容が、冬3月の越前蟹の季節と合致している。歌謡自体は木幡地方の民謡を取り入れた戯れ歌に過ぎないのかも知れないが、この時の座興として7歌が詠われたと。この場合、7歌は、(前回行幸の)回想の歌というよりも(故事・伝承の)懐古の歌と解することになる。 僻地に行幸してその土地の名前と故事に由来する歌謡を作る(演じる)。それは一種の土地誉め、氏誉めになるが、実際には現地の氏族を慰撫する政治の一環であったと推量される。歌謡および7歌が、(土地の有力者も臨場していたであろう)宴席で披露された作品の可能性があると想像する所以である。 (極めて興味深い事実を論評無しに紹介しておこう。この長歌の続き(片割れ)と思われる歌が、記紀の違う物語(髪長姫物語)に存在することである。それは大雀皇子(仁徳天皇)の歌としての、 歌中の、「道の後古波陀嬢子」とは、まさに長歌の「ささ並み道の(終点の)木幡嬢子」に他ならないではないか。間違いなく、この長・短歌はもともと一体の歌謡劇であった可能性がある。それを分割して、異なる物語(矢河枝比売物語と髪長姫物語)の、しかも異なる人物(応神天皇と仁徳天皇)の歌として取り込んでいる。また、古事記は歌謡の全てを掲載しているのに対して、日本書紀はその半分を載せるだけである。つまり、この部分に関する限り、古事記の方が本来の姿を(ありのままに?)提供していることになっている。) ※注5:宇治稚郎子物語について 応神天皇には後を継がすべき三人の男子があった。天皇は宇治稚郎子を皇太子とし、兄の大山守皇子に山海を統治させ、大雀(大鷦鷯)皇子(後の仁徳天皇)には皇太子を補佐させることにした(古事記では食国(皇室の屯倉か)を治めさせることにした)。宇治稚郎子は応神天皇の愛子であり、王仁を師とし学問に優れていた。 ところが応神天皇の死後、大山守皇子は父の処遇に不満を持ち、皇太子の宇治稚郎子を殺そうとするが、皇太子は大雀皇子からの情報(密告)でそれを知り、逆に大山守皇子を宇治川の渡りで討ち果たす。物語ではその後、太子と大雀皇子とが皇位を三年間譲り合い、結局宇治稚郎子は自死して(古事記では早死にする)、大雀皇子が皇位に就く。 さて、大山守皇子の亡骸を見て宇治稚郎子太子は次の歌を歌う。 訳文1(新編日本古典文学全集・日本書紀本): 分かち書きすると、 途中は省略するが、私は次のように歌を解釈する。通釈との主な違いは、枕詞とされる<ちはや人>や<梓弓>を意味のある語句と読むことである。 それにしてはこの歌は不思議な歌だ。「ちはや人」とは誰なのか?「君」や「妹」は誰を指し、「梓弓真壇」とは一体何の象徴なのか?歌謡の意味が全くといっていいほど物語の内容と乖離している。大山皇子を討ち果たした後の歌なのに、歌は逡巡・躊躇の歌であり、すでに死んだ者に対して詠うには適切でない内容になっている。 このことは何を意味するか?この歌は、もともとは全く別個の独立歌であったと考えなければならない。おそらく「物語が初めに在りき」で後に歌謡が挿入されたのであろう。とすれば、物語はあくまでも建前で、歌謡にこそ真実(本音)が隠されていると言うべきである。 そうした観点から、改めてこの長歌を読むならば、私には「ちはや人」とは宇治稚郎子太子になぞらえた大友皇子のように思えてくるのである。もちろん「宇治」には「治世」と「討ち」の二つの意味が掛けられている。何やら壬申の乱前の、大友皇子のハムレットの心境歌のようではないか。分かっていてもどうにできない。歌謡は懊悩する大友皇子の姿を詠っているのだと。あの時、大海人皇子・鵜野讃良皇女夫妻を討ち果たすには、あの、出家(を自演)して吉野に退散する時点が最後のチャンスだったはずである。 (梓弓真壇(あづさゆみまゆみ):梓は、かばの木科の落葉高木で呪力を持つ神聖な弓の材料とされた。また真壇(檀)も、にしきぎ科の落葉低木で強い弓を作る材料になる。ということは、現在はただの「立ち木」ではあるが、将来は「弓引く存在」に豹変することの喩えになっている。) 梓弓真壇とはまさに大海人皇子・鵜野讃良皇女夫妻の象徴に他ならないだろう。鵜野讃良皇女(後の持統天皇)は斉明女帝が親代わりであったこともあってか、天智帝の子女の中では最も尊貴の存在であった。書記が伝える、夫妻を宇治に見送った時に群臣の一人がつぶやいたという「虎に翼をつけて野に放つ」とはまさにこのことを言っていると考えられる。 この推理が当たっているとすれば、壬申の乱の勝敗はここで決していたと考えられる。勝利は、要は怨念の強いほう、というか非情になれた方に傾いたのであると。大友皇子夫妻には、岳父の大海人皇子や姉の鵜野讃良皇女を恨む理由は何一つ無かった。そして結局、決断に到る大義名分を見出す(作り出す)ことが出来なかった。しかし一方の大海人皇子は自らの(屈辱的と思った?)前半生の抹殺と軍政の復活を切望していたし、鵜野讃良皇女にとっては自らの一族を滅亡させ、その地位を奪った憎むべき片割れ(仇)であった。つまり二人は相手を倒さなければ道が開けない「梓弓真壇」だったのである。 おそらくあの時、状況から言っても和解を最も願っていたのは額田王・十市皇女親娘ではなかったか。だからこそ、大友皇子もその願いを無視することは出来なかった。そしてまたそれを承知していればこそ、額田王の大友皇子に対する哀惜の念は深かったと考えるのである。 この長歌(宇治逡巡歌)は何時作られたのか?7歌と同様、近江朝滅亡後の比較的新しい作品と考えなければならない。そして密かに記紀・宇治稚郎子物語の中に潜ませられたのであると。もしかしたら、記紀・宇治稚郎子物語には大友皇子に係わる何らかの反映があるのかも知れない。 ※注6:もう一つの歌の解釈案について 理由を挙げると、 壬申の乱は、当時の官人にとっては天地驚倒に値する大事件であった(に違いない)。彼等はいやおう無く岐路に立たされ、どちらかの陣営の選択を迫られた。中でも額田王はいずれの側にも深く係わっていたから、その苦悩は大きく、かつその帰趨が注目されたであろう。 しかし、少なくとも残されている歌を見る限り、額田王親娘は、一貫して近江朝側に属したと推定される。7歌は大海人皇子に係わる歌ではない、と断言していいだろう。額田王という女性は、あの困難な時代を、明確な自覚のもと(娘の幸福の立場?政権の正統意識?天智帝への恩義?)、毅然とした態度で生き抜いた人物であったことが知れるのである。 2007.06.15 M.A. <参考文献> |