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【名歌鑑賞18:宇智野遊猟歌】

                                2007年09月15日  森 明

<万葉集巻一雑歌:3・4歌>

<原文>
天皇遊*内野之時中皇命使間人連老獻歌
3歌:
「八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝*尓 今立須良思 暮*尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里」(「*」は獣ヘンに葛の字)
やすみしし わがおほきみの あしたには とりなでたまひ ゆふべには いよりだたしし みとらしの あづさのゆみの なかはずの おとすなり あさがりに いまたたすらし ゆふがりに いまたたすらし みとらしの あづさのゆみの なかはずの おとすなり

反歌
4歌:
「玉剋春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野」
たまきはる うちのおほのに うまなめて あさふますらむ そのくさふかの
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<釈文>
天皇の内野に遊猟したまひし時に、中皇命の、間人連老をして献らしめし歌
3歌: 「やすみしし わが大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり」

反歌
4歌:「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」


「宇智野遊猟歌」は初期万葉歌の中でも屈指の名歌とされている作品であるが、多くの問題を含んでいる。一読、皇権(王権)賛美の歌になっているが果たして舒明紀はそうした時代であったのか?蘇我氏全盛の時代ではなかったか?また題詞にある中皇命なる人物が唐突で歴史上の誰を指しているのかが良くわからない。現在では間人皇女説がほぼ定説になっているが、当時皇女はまだ幼い少女ではなかったか?

<3歌の解釈>
天皇の内野に遊猟したまひし時に、中皇命の、間人連老をして献らしめし歌
3歌: 「やすみしし わが大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり」

訳文1(新日本古典文学大系本)
「(やすみしし)我が大君が、朝には手にとって撫でいつくしまれ、夕べにはそのそばに寄り立たれた、御愛用の梓の弓の、中弭の音が聞こえる。朝狩に今お発ちになるらしい、夕狩に今お発ちになるらしい。御愛用の梓の弓の、中弭の音が聞こえる。」
訳文2(新編日本古典文学全集本)
「(やすみしし)わが大君が 朝には 手にとって撫でられ 夕べには そのそばに寄り立っていらして ご愛用の 梓の弓の、中弭の 音が聞こえます 朝狩に 今お発ちになるらしい 夕狩に 今お発ちになるらしい ご愛用の 梓の弓の、中弭の 音が聞こえます」

以下のように行別けして検討して見よう。
1. やすみしし わが大君の
2. 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし
3. みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり
4. 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし
5. みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり

(1)「やすみしし わが大君の」
「八隅知之」は「天下(四方八方)を隈なく統治している、知らしめている」の意味か。この表現は万葉集の初見で、しかも舒明天皇に冠されていることに注意を要する。以後「八隅知之」は大君(大王)の慣用修飾語として使われることになる。舒明天皇の陵墓(改葬)から八角形が採用されていることと何か関係があるのかもしれない。「我が大君の」は次行以下の主語であるが、親しみを込めた呼びかけになっている。
→訳文「天下を隈なく統治していらっしゃる、我らの大君の」

(2)「朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし」
「朝(あした)」は「朝(あさ)」というよりは、「起きている時」「昼間」の意味だろう。だから、「夕(ゆうべ)」は「夜間」「眠っている時」の意味である。「取撫賜」は「手に持って愛玩している」「いつも手にしている」。もちろんこの行の主語は「大君」である。

「伊縁立之」「い寄り立てしし」の主格はやはり大君で「〜しし」は使役動詞と考えるべきだろう。意味は「(大君が、すぐ手に取ることができるように弓を)傍に立てておく」になる。

「朝〜、夕〜」は古代の慣用的対句で「いつも〜」の表現に使われる。要するに、ここは、(大君が)起きている時も、眠っている時も「肌身離さず手許に置いて愛用している(弓を)」の意味である。
→訳文「(大君が)起きている時にはいつも携え、眠っているときも(すぐ手に取ることができるように)傍に立てておく」(=片時も肌身離さず手許に置いている)

(3)「みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり」
「御執乃」は「ご愛用の、佩用の」意味だろう。「梓弓之」は当時の弓は梓製であったことからくる。問題は「奈加弭乃 音(なか弭の 音)」とは何かということである。私は、状況からいっても、「弓の空撃ちの音」と考える。「弓の音」とは当然「弓弦」の振動の音か、「鞆(とも)」にあたって鳴る「鞆音」のことである(鞆とは、弦の打撃を防ぐために弓手の籠手に装着する革製の防具)。

大君が愛用の「弓の空撃ち」をするということは、弓を点検していることであり、すなわちそれは即大君の「出猟」ないしは「出陣」の意志表示ということになる。(※注1:「なか弭の音」について
→訳文「ご愛用の梓の弓の空撃ちの音がするぞ(聞こえるぞ)」

(4)「朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし」
一貫して主語は大君である。ただし、「〜らし」と様子を伺っているのは、もちろん大君に仕える従者達である。つまりこの行は、従者の立場から詠われている。昼夜を別たず、緊張しながら近侍して、大君の動静に耳を澄ましている状況が表現されている。

「夕(暮)狩」は普通考えにくい行為である。が「午後からの狩」の意味なのだろう。狩猟は一種の軍事訓練である。後世、武士の生活が「夜討ち朝駆け」といわれて常時臨戦態勢にあったことを思えば納得できだろう。恐らくは、かって戦場で培われた主従関係が狩猟歌謡という形で残り、宮中行事の一つとして語り継がれていると考えられる。

ここで思い出すのは、倭王武(ワカタケル大王、雄略天皇)の上表文「祖彌〜」や、稲荷山鉄剣銘の「オワケ臣」が誇らしげに語っている「杖刀人」としての奉仕である。まさにこの長歌(3歌)は、初期王権時代の大王と従者の関係を彷彿とさせるものがある。歌は大君と近侍する衛士の、親密な一体感、無私の「奉仕」を伝えている作品と読むべきである。(※注2:軍営における従者の奉仕
→訳文「(大君が)今朝狩(討ち)にご出猟(陣)なさるか、今夕狩(討ち)にご出猟(陣)なさるか(と細心の注意を払って様子を伺っていると)」

(5)「みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり」
前(3)行目の繰り返しが効果を上げている。従者の立場から「聞こえる」の意味である。この後の従者の行動は省略されているが、あわてて駆けつける様子が暗示されている。
→訳文「ご愛用の梓の弓の空撃ちの音がするぞ(聞こえるぞ)」
(大君が弓の点検をなさっているぞ。スワ、大君の出猟(陣)だぞ)

訳文:
1.天下を隈なく統治なさってらっしゃる、我らの大君の
2.起きていらっしゃる時はいつも手に携え
3.眠っていらっしゃる時はいつも横に立てている
(肌身離さず手元に置いている)
4.ご愛用の梓の弓の空撃ちの音が聞こえる

5.朝狩(討ち)に、今出猟(陣)なさるのか
6.夜狩(討ち)に、今出猟(陣)なさるのか
(と片時も離れず大君の気配に耳を澄ませていると)
7.ご愛用の梓の弓の空撃ちの音が聞こえる
(出猟(陣)なさるのだな。さあ、お供に駆けつけよう)

それまで森閑としていた宮廷の、大君の居室から、突然「バシ、バシ」あるいは「ブン、ブン」という音が聞こえてくる。近侍して耳を澄ませている者には、その音は弓の「鞆音」か「弦の音」に聞こえる。「大君が弓の空撃ちをしている」そしてそれによって主君の出猟(陣)の意思を読み取った近習達の、慌ただしくもお供にかけつける、一瞬の場景が詠われている。

そこには、勇武を旨とする王者と、昼夜を分かたず、主君の一挙一動に聞き耳を立てて直ちに奉仕しようとする、忠勤無私の宮人(舎人、従者)の姿がある。歌は、極めてシンプルな語句の繰り返しになっている。だが、一語一句言葉を発するごとにそれらは共振を重ね、最後には、まるであたりにこだまする大音声の合唱のように聞こえてくる。稀に見る力強い作品になっていると言えるだろう。

<4歌の解釈>
4歌:「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」

訳文1(新日本古典文学大系本)
「(たまきはる)宇智の大野に馬を並べて、朝の野をお踏みになっているであろう、その草深野よ」
訳文2(新編日本古典文学全集本)
「(たまきはる)宇智の大野に 馬をあまた並べて 朝の野を踏ませておいでであろう あの草深野を」

「たまきはる」は、語義未詳ながら「内」「命」「生」等の枕詞であるとされている。ここは「野獣が棲む野」にかこつけて、「魂(たま)+極(きは)む+る」で「魂の宿る(という)」「精霊の棲む(という)」と取り、「古い魂の潜む、棲む(宇智の大野)」ぐらいに訳しておこうか。

また「らむ」は様々の用法があるが、現在の事実から疑いを持って推量する、「〜しようとするのでしょか」の意味が適切だろう。

4歌:「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野(で)」
訳文案1「あの魂(精霊、地霊)の宿るという宇智の大野に馬を並べて、朝踏みをさせようというのでしょうか。そんな草ぼうぼうの原野で」

朝狩りに行くのだな。反歌は、どっと駆けつける衛士たちの喧騒を見守る、とある宮人(=間人連老)の、出猟先での光景を想像する立場で詠い納められている。長歌と反歌の間には歌意の飛躍(隔絶)がある。だが逆にその乖離が読者(聴衆)の想像力を掻き立て、あたかも、大野での勇壮な馬蹄の響きが聞こえて来るかのような臨場感を抱かせる。

<4歌のもう一つの解釈>
歌にはもう一つの解釈がある。最初の解釈では「朝踏ますらむ、その草深い野(で)」と訳した。だが「朝踏ますらむ」は今ひとつ意味が分かりにくかった、というよりも言葉として無理があるのではないか(「朝踏み」は狩というよりは朝の調教のような印象の言葉である)。私は「朝踏ます」は実は「浅踏ます」と読むべきではないかと考えるのである。

「踏む」は「踏み潰す」あるいは「足下にする」のことである。だから「浅踏ます」とは、踏みつけて「凸凹を平滑にならす」のことを言っていると考えるのである。土木では地均しのことを「践土(せんど)」と言う。「践」の文字構造はまさに「浅踏ます」に他ならないではないか。「浅踏ます」とは、また「屈服させる」「支配する」行為の暗喩とも考えられる。(※注3:「武埴安彦」の乱について

すると当然、結句の「その草深野」も意味が変わってくる。この場合「その草深い野(で)」ではなく「その草深い野(を)」と読むことになる。

実はこの4歌は、形式としては最初の和歌と言われる「八雲立つ」の歌と類似した古体を有している。
・「八雲立つ出雲八重垣」+「妻ごみに八重垣作る」+「その八重垣を」(記紀・1歌)
・「たまきはる宇智の大野に」+「馬並めて浅踏ますらむ」+「その草深野」(万葉・4歌)
である。
とすれば、結句の「〜その草深い野」は「〜その草深い野(を)」と、「を」が省略されていると考えることも十分可能だろう。

4歌:「たまきはる宇智の大野に馬並めて浅踏ますらむその草深野(を)」
訳文案2「あの魂(精霊、地霊)の宿るという宇智の大野に馬を並べて、踏み均してしまおう(踏み潰してしまおう)というのでしょうか。そんな草ぼうぼうの原野を(も)」

どうだろうか。この解釈も成り立つだろう。この場合は、反歌(4歌)は自然の荒野を押しつぶし、あるいはその地形をも変えてしまうような、人為に対する驚きと感嘆が詠まれていることになる。「狩猟」は生命の殺戮そのものである。獣類の住む野原ごと(根こそぎ)圧殺しようとする、王権の権威・武威に対する畏怖・脅威が詠われていると考えるのである。(※注4:長歌形式の成立

<4歌のさらなる解釈(隠された真意)>
ここまできたらさらに空想が広がるだろう。これまでの解釈は、一般的な遊猟歌(あるいは戦陣歌)としての読みであった。だが、この歌は単なる遊猟の歌であろうか?実はさらなる裏読み(深読み)の考え方がある。それは枕詞「たまきはる」のもう一つの解釈の可能性に基づいている。

私は「たまきはる」とは実は「たまき+はる」=「玉木+張る」ではないかと考えるのである。そして、「玉木」とは「玉の成る木=マメの木」で「葛木(城)」を意味しているのであると。つまり「たまきはる」とは、枕詞というよりは、むしろ「葛城氏」の隠語と推理するのである。(※注5:枕詞「たまきはる」について

このように考えると芋ずる式に歌の意味が解きほぐれてくる。実は「野(の)」の語源は「那(な)」「名(な)」であるといわれている。とすれば大野→大那→大名→大臣等でもある。「たまきはる宇智の大野」とはまさに「葛城氏の宇智の大那」=「蘇我大臣氏の本拠、領地」の意味と同じことになる。あるいは「内(うち)」には「討ち」の意味も込められているかもしれない。もちろん「浅踏ます」→「踏み潰す」→「滅ぼす」の意味である。

4歌:「たまきはる宇智の大野に馬並めて浅踏ますらむその草深野(を)」
訳文案3「あの葛木(城)の宇智の大野に、馬を並べて踏み潰そうというのでしょうか。そんな草ぼうぼうに繁茂した大野をも」
=「あの葛木(城)氏の本宗である蘇我大臣家を、馬を並べて踏み滅ぼそうというのでしょうか。そんな草ぼうぼうに繁茂した大族(の領地)をも」

何と、「宇智野遊猟歌」の真意は、乙己の変、つまり大化の改新の暗喩歌になっているではないか。だいたい考え過ぎだろう、その証拠は?存在する。これまで見落としていたが、題詞や歌の表記の中に。そしてそれらの「猟」や「狩」に「*」(=「獣へん+葛」の字)が用いられていることに注目して欲しい。「*(りょう、かつ)」には暗に「葛城氏」が込められていると認められるではないか。こうした文字があえて使われていることこそが、まさに歌が葛城氏(=蘇我氏)打倒の象徴(暗喩)歌であることを証明しているだろう。

<「宇智野遊猟歌」の全容>
歌の原則に立ち返るならば、歌の内容こそが真実である。題詞や後注は時に追加されたり、改鋳を加えられる可能性がある。この「宇智野遊猟歌」が実は乙己の変(大化の改新)に係わる歌で間違いないとすれば、むしろそれを前提に、題詞に係わる様々の疑問を読み解くことが出来る。

題詞に言う「(遊猟し、歌を奉られた)天皇」とは誰か?:
この長反歌は舒明天皇代に置かれている。ということは題詞にいう(遊猟した)「天皇」とは舒明天皇ということになる。しかし上述した歌の内容からすれば、全くそれに相応しくない。だいたい舒明朝なるものは、王権の伸長を望まない、蘇我氏によって擁立された一種の傀儡王朝であった。当時の状況を見れば、舒明紀は古人大兄皇子政権への中継ぎぐらいに蘇我氏は思っていたのではないか。蘇我氏のもっとも強勢であった時期にこうした歌など作られるはずが無い。

歌は大化の改新の後、再び王権が回復された以降の作詠と考えなければならない。では何時か?まず考えなければならないのは孝徳天皇代である。この場合、題詞の「天皇」とは幸徳帝を指すことになる。が成り立つであろうか?このことは、乙巳の変(大化の改新)が誰の主導下で行われたかの問題にもからむ重要な事案である。

しかし、私には題詞のいう(遊猟し、歌を奉られた)「天皇」が孝徳天皇とはどうにも思えないのである。一つは、孝徳天皇はその諡号からいっても穏健な帝王のイメージであり、乙巳の変の首謀者とは到底認めがたいからである。そもそも孝徳帝はその治績からいっても軍事を好まない平和主義者のように見受けられる。

(孝徳天皇は守旧派であり国内外宥和派でありむしろ親蘇我派であった。軽皇子時代に古人大兄皇子を担いだのは明らかだし、その支持者であった左右大臣(阿倍倉梯麻呂、蘇我石川麻呂)が亡くなって以来、急速に力を失ったことからも明瞭である。また孝徳天皇が宇智野に行幸し、少なくともその在位中に遊猟をしたとの記事は全く見当たらない。)

また幸徳紀の歌であるとしたら、中皇命とは誰が該当するであろうか?中皇命が間人皇女であるとしたら、その場合、当然題詞は「間人皇后が奉らしめた」にならなければならないだろう。それに孝徳紀の前半は蘇我氏の一方の雄蘇我石川麻呂が右大臣でまだ健在であったことを思えば、こうした歌が作詠される環境に無かったと考えなければならない。やはり歌は、日本書紀の記述どおり乙巳の変(大化の改新)の立役者、中大兄皇子(天智天皇)に奉られた作品と読むべきだろう。

問題は、ではなぜ歌が舒明紀の作品として収録されたかということになるが、やはり蘇我氏打倒の歌は、後代の持統天皇が蘇我氏出身であったことを思えば、(宇治回想歌同様、)そのあからさまな掲載は憚られたのだと考えるべきだろう。下手をすれば削除を命じられるか罰せられる恐れがある。

創作(作詠)時期の推定:
では創作の時期は?一つの可能性は、中大兄皇子らが皇祖母尊を奉じて倭京(飛鳥京)に還都した白雉四年〜五年間(653〜654年)である。この事態は2都並立というよりも、実質的な斉明朝の開始であった。(だが孝徳帝の存命中にこうした歌を中皇命が奉るとは考え難い)

私は日本書紀を信用して、その記事から可能性のある時期を探るとすれば、「宇智野遊猟歌」の名称から言っても、その創作は、斉明四年(658年)10月の紀の湯行幸時の可能性が最も高いと考えるのである。この時の紀の湯行幸ルートは、飛鳥から巨勢道づたいに、まさに宇智野(付近)を通って吉野川に出て川沿いに紀伊へと下っている。

斉明四年の紀の湯行幸は、有馬皇子事件のあった時である。が同時に(それにかこつけて)軍事訓練を兼ねていた可能性が極めて高い。とすれば宇智野で大掛かりな遊猟ないしは閲兵式のデモンストレーションが挙行されたと考えても何の不思議もないだろう。斉明紀の倭国は(半島情勢のあらゆる非常時に備えての)軍国にまい進した時代であった。

(もっとも、この時期中大兄皇子は「大王」ではないので、歌の「わが大王(おおきみ)」の言いはいささか過ぎているかもしれない。だが後代の人麻呂の歌にも事例があるように、当時の中大兄皇子の権威を忖度すれば、歌ではこうした表現は許されたのではないか。もしかしたら斉明天皇は「すめらみこと」と呼ばれていたのかもしれない。)

作者問題(中皇命と間人連老の役割):
さて、題詞「〜中皇命使間人連老獻歌」にはこの歌の創作には中皇命と間人連老の二人の人物の関与があったことが記されている。二人の関係をどのように想定すればいいのか?

題詞の「中皇命が間人連老に奉らしめた」を普通に解釈すれば、次の三つの状況が考えられるだろう。
(1)「中皇命が、自分で作り、間人老に奉らせた」
(2)「中皇命が、その周辺に作らせ、間人老に奉らせた」
(3)「中皇命が、間人老に作らせ、かつ奉らせた」のいずれかである。

だが(1)ではないだろう。作品が「御歌」となっていないからである。やはり状況からいえば(2)ないし(3)、そして最も可能性の高いのは(3)だろう。間人連老が単なる献上の使者だけの役割だけでこのように記述されたとは考え難い。(もっとも間人連老の名前は、歌の作者というよりは、それとなく「間人」の名を導くための挿入とも考えられるから、(2)の場合もあるかもしれない)

それにしても、問題は(真の作者でもないのに)何故題詞にわざわざ中皇命の名前が冠せられているかの理由である。やはり創作にあたって、中皇命の並々ならぬ関与があったものと考えなければならない。少なくともその構想や監修には中皇命がかかわっていたのではないか。(※注6:中皇命とは誰か?

この長・反歌ははっきり言って歌謡劇である。おそらく軍事訓練後の宴席で披露されたとのではないだろうが、私はその演じられ方を次のように想像する。

衛士:
「やすみしし わが大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり」
衛士合唱:
「朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり」
大宮人(間人連老):
「たまきはる宇智の大野に馬並めて浅踏ますらむその草深野」

この歌謡劇は、まさに現在の問題に直面し、現在の事件から題材をとった新作の(今様の)作品になっている。斉明時代は個人の作歌が勃興した時期であった。だがこうした新しい歌謡創作の揺籃期でもあったのではないか。

文芸が表の政治を支援する文化政策の萌芽がここに認められる。すると自然に、そうした新歌謡を創り出す(文芸)工房の存在がおぼろげながら現われてくる。そしてそのオルガナイザー(主宰者・組織者)こそが中皇命すなわち間人皇女ではなかったか?

とすれば、記紀に収められている歌謡の中にはこの時代に創作された作品も多いのではないか。後宮には身分が低く、名もなく、しかし教養のある多くの女性が起居していた。詠み人知らずの作品集(古歌集)や新しい歌謡劇の創作基盤は急速に充実していたと推測されるのである。(もっとも、この事例だけでは少々過剰な憶測にも思えるが今後こうした観点からの検証が必要になるだろう)

<大化の改新の実相>
ところで古代、王権が伸長した時期とはどんな時代であったか?大雑把に言って「対外戦役時の王権伸長」と「平和時の退潮」と括れるかもしれない。つまり氏族社会制度においては、王権と氏族(豪族)の関係は、協調と対立が交互に繰り返されたものと推量されるのである。しかし、蘇我−物部戦争によって蘇我氏の権力が確立されて以降は王権は衰微し、その継承すらも豪族会議に委ねられる事態に至ったと考えられる。

もちろん、王権の側から言えばそれは蘇我氏の専横ということになるが、歴史的に見れば蘇我氏側(豪族側)からも言い分はあっただろう。例えば、かの雄略天皇代は著しく王権が伸長した時代であった。しかし(滅ぼされた)豪族側にとってみれば、ただ一方的に圧迫を受けた暗黒の時代であったと考えてもおかしくない。

推古・舒明朝は蘇我氏の権力が最も拡大した時期であった。かって山背大兄王が田村皇子(舒明天皇)との皇位継承争いに敗れ、なおかつその舒明崩御後に起こった継承争いにも古人大兄皇子に敗れて、結局滅亡に到ったのは、おそらく大兄王が、父の聖徳太子に由来する王権拡張主張者であって、蘇我氏と相容れなかったからではないだろうか。もともと上宮王家は、(書記によれば)一貫して王権至上主義を奉じる立場であって、それが警戒されたのであろう。

(書紀の論旨構成は、明らかに大化の改新は上宮王家の主張の延長線上にあるとの考え方を主張しているように見える。おそらく皇極天皇の即位は山背大兄王のそれを阻止して古人皇子に皇位を繋げるための措置だったと思量される。乙巳の変の後に、皇極天皇が固辞して退位したのは、自らの即位が蘇我氏の推戴であったことを物語っている。)

しかし、隋・唐の勃興に伴う時の東アジア情勢は、再び倭国に中央集権的な権力の必要性を促がしたと考えられる。それは王権側による集権化か豪族側による集権化か、二者択一の、のっぴきならない対立を突きつけることになった。

(日本書紀において、蘇我氏が必要以上に貶められていることは間違いない。なにせ歴史書は勝利者が作るものだから。蘇我氏が開明氏族として国際情勢に常に気を配り、国政の舵取りをして来たことは明白である。ところで隋、唐という模範例がある以上、大臣の蘇我氏(蘇我入鹿)も律令国家の建設を目指していたことはつとに言われることである。蘇我入鹿は僧旻門下の俊英でもあった。

一つの仮定を考えてみよう。もし蘇我氏が勝利したとして、そして蘇我氏中心の律令国家の建設が目指されたとして、いかなる形態の社会システムが企図されたであろうか?その場合の主権は?「所有」や「天皇」の地位はどうなったか?統治システムは?蘇我氏自身はどのように位置づけられたか?そして何よりもその後の半島情勢にいかなる対応を行い得たか?等々極めて興味深い事案である。

◇年表:乙巳の変前後(東アジア諸国の動向)
618年、唐建国
642年(高句麗)、泉蓋蘇文のクーデター(豪族側の勝利例)
642年(百済)、義慈王による粛清?(王権側の勝利例)
643年(皇極二年)11月、上宮王家滅亡事件
(644年、唐が高句麗に侵攻)
645年(皇極四年)6月、乙巳の変
647年(新羅)、金春秋によるクーデター

こうしてみると、蘇我入鹿の思想を推し量る意味では、上宮王家(山背大兄王家)の討滅事件に見ることができるかもしれない。入鹿は祖父の馬子を目標にしていたのであろうか?果断な力の信奉者であったことはわかる。だが、強力な理念(目標や手順や考え方)を明示して大きくまとめていく政治家であったかどうか。もっとも山背大兄王とは世代が異なるので一緒にやって行けない気持ちだったのかもしれない。事件は大市皇子(古人皇子)を大兄(さらには大王)の位につけるためのクーデターであったことは間違いない。)

しかし上宮王家の滅亡は王権側に深刻な危機を抱かせたと考えられる。ここに大化の改新が準備された原因を求めることができる。大化の改新の理念は、政治的には豪族合議制(氏族社会体制)を廃止して、天皇(大王)を主権者とする中央集権的官僚体制(律令国家)への移行である。その眼目は私的な(氏族的な)土地・部民の所有を撤廃して、一切を国家(天皇家)に帰属させることであった。

大化の改新の理念を一言で言えば「公地公民・班田収受制度」であろうか。もちろんこの場合の「公=国家=天皇家」の意味である。だが言葉で言えば簡単であるが、このことは所有権の移動を伴う一大社会変革であり、古代氏族社会の廃絶を意味する画期的な概念なのである。

問題はその運用であろう。一言で「公地公民制度」といってもそれを具体的に運営する方法となると極めて困難なことは一目瞭然である。正確な土地の測量や部民の把握が必要になるし、だいたい家族の構成員は刻々と変化するから、公平に土地を分配して税を徴収しようとすると、それらを管理する膨大な官僚体制の整備が必要になる。それに新田開発をどうするのか?

恐らくコンピューターの発達した今日においても、それは困難な作業ではないだろうか、公平正確を期すれば期するほど、瑣末な管理のための支出の方が大きくなってしまう矛盾を孕んでいる。
それに、これまでの父祖伝来の資産(地・民)や地位を豪族達が簡単に手放せるのか?その既得権を失うことは彼らにとっては死活の問題であり、その見返りを見極めない限りおいそれと賛同は出来なかったはずである。

律令国家の建設には多くの問題が内在している(たと考えられる)。その結果、従来の氏族制度を下部構造においた、独特の官僚体制が目指されたと推測されるのである。そしてその場合の障害は、旧来の特権的大豪族の扱いではなかったろうか。

「大化の改新」虚構(否定)論の発生:
大化の改新が、地・民の所有権の移動を伴う一大社会変革であり、かつ旧来の氏族制度を下部構造に取り込む、日本型の律令制度が目指されたとすれば、まず氏族の所有する私有地、私有民を一旦国家(天皇家)に収公し、改めてそれらを各氏族に再分配する儀式がなければならない(あったと考えなければならない)。そしてその時をこそ改新の実行(施行)日としていいはずである。

◇年譜:「大化の改新」関連記事
645年(皇極四年、大化元年):6月、乙巳の変(蘇我本宗家滅亡)
646年(大化二年):正月1日(甲子)、改新の詔
             3月、皇太子奏請文、薄葬令他
             8月、旧来の品部の廃止と百官制定の詔他
647年(大化三年):七色十三階の新冠を制定(位でないことに注意)
648年(大化四年):阿倍内麻呂、蘇我石川麻呂は旧冠を着用(=新制度に不満?)
649年(大化五年):2月、冠位十九階の制定。同時に八省・百官を設置
             3月、阿倍内麻呂薨
             同月、蘇我石川麻呂家滅亡事件

664年(天智三年、甲子の年):2月、「大氏・小氏・氏上の制度ならびに民部・家部の制定他」
675年(天武四年):2月、「甲子の年の部曲廃止」の詔

大化二年正月1日(甲子の日)、に宣言された「改新の詔」は格調高く新政の理念を述べている。
第1条、あらゆる私有地、私有民の廃止とそれに代わる食封・布はくの支給
第2条、畿内国の範囲とその統治方式
第3条、戸籍の制作と班田収受法
第4条、租税と軍役
そして以後矢継ぎ早に、律令国家にかかわる多くの詔が下されている。

ところが、この大化年間に、肝心の「(収公した)公地公民の再分配」らしき施策(儀式)が見当たらない。
そしてそれらしい記事は
天智三年(664年、甲子の年)2月条、「大氏・小氏・氏上の制度ならびに民部・家部の制定他」と、20年近くも下ってしまうのである。

また、大化改新の詔自体も、実は後の大宝律令によって粉飾されていることが指摘され、それが実際に出土した木簡等から確かめられたことから、俄然大化の改新そのものの存在が疑われるようになった。

この結果、孝徳紀の大化の改新は、実は虚構であり、例えば藤原鎌足の業績を称揚するための後代のねつ造とまで提唱されるに至ったのである。もちろん少なくとも原詔は存在したとの説も未だ有力であるが、日本書紀の記述に基づく限り、従来の大化の改新の概念を変えざるを得なくなって来ている。

改新は本当にあったのか?無かったのか?(事実は一つしかないのに)それもこれも日本書紀の記事から判断しなければならない。だが(肯定論にしても否定論にしても)現在の日本書紀の記述をそのままに受け入れて(表面的に読んで)この問題に決着を付けられないだろう。なぜならその記述が後代の思惑によって様々に歪められているからである。だからまずはその歪みの発見と是正が必要になる。それによって初めてその全容を正しく把握することができる。

天智三年(甲子の年、664年)2月条、記事の不審:
ところで前述した天智三年(甲子の年)2月条の記事をもう一度検討してみよう。「天皇、大皇弟に詔して冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を宣す。〜」とある。
(ここで天皇は天智天皇、大皇弟は大海人皇子のことである。この記事は天武四年(675年)の詔「甲子の年の〜」の言とも一致していることから、概ね疑われることも無く受け入れられている(ようだ)。)

この施策は、(詳細は明らかにされていないが)考えようによっては極めて重要な内容を含んでいる。四つの構成から成立している。
(A)十九階の冠位の制定
(B)大氏・小氏・伴造等の身分区分
(C)氏上の指名と民部・家部の支給
(D)太刀、小刀、盾等の下賜
である。

このうち(A)(B)(C)は氏族の格付けとそれに伴う班田(食封)の配布といってもいい。そして(D)は氏族の律令政府官僚(軍制を含めて)としての登用の儀式にぴったりの様子を呈している。これこそが改新の施行そのものではなかったのか?
(以下この天智三年の記事を「甲子の施行宣」と呼ぶことにする。というのは従来の「甲子の宣」の呼称はむしろ大化二年正月1日(甲子の日)の「改新の詔」に相応しいからで、それと紛れないためである)

では天智三年のこの「甲子の施行宣」をもって、改新の実質的開始と見ていいのか? いや、この天智三年2月のこの記事には大いに疑問がある。記事の内容に不審点が多いのである。本当にこの年に施行されたのであろうか?

というのは、
(1)記事には唐突に「天皇」とあるが天智天皇はまだ即位していない。だからこの時点で大海人皇子も「大皇弟」ではありえない。
(2)天智三年2月は白村江の戦いの翌年にあたり、国はその敗戦処理に大わらわの時であった。こうした施策を実行する余裕は無かったはずである。というよりも本来これは戦前に行うべき施策だろう。当時の状況を思えば、ここには防衛にかかわるもっと具体的な施策こそが相応しい。私は、当時百済派遣軍司令官だった大海人皇子は九州に留まって(筑紫都督?)、防衛体制の整備に追われていたと推定する。
(3)大海人皇子はもともと軍人であり、孝徳・斉明・天智紀に、大皇弟(大海人皇子)の名で政治にかかわる宣言がなされるはずがない。
(4)この宣命が大化改新以来の初めての実施策だとしたらいかにも遅すぎる。

当然次の質問が生じるだろう。ではもしこの施行宣が、本来天智三年のものでないとしたら、もともと何時の記事なのか?こうした記事が捏造とは考えられない。とすれば、この施行宣は大化五年に行われたと考えるのが最も自然ではないのか。ただこのうち(A)の十九階の冠位の制定は大化五年にすでに別の記事があることから、天智七年ないし天智十年のそれが紛れ込んだものと推察される。(※注7:斉明紀童謡の解読

どうだろう。天武四年(675年)2月の詔の言う「甲子の年の諸氏の部曲の廃止」の「甲子の年」とは天智三年の「甲子の年」を言うのでなく、大化元年〜大化五年の「大化の年」を指していると考えるべきだろう。「甲子(かし、きのえね)」は「干支の初め」「物事の始め」で「甲子(始め)の年」の意味である。(※注8:「大化」の年号について

とすれば天武四年の詔は、大化五年の詔の廃止を宣言したことになる。これは律令体制の否定や促進を意味しない。要するに天武帝としては前体制を一旦白紙に戻して壬申の乱の論功行賞を行いたかったのだろう。自陣営に参じたものを氏上とするような。

大化の改新の実態(復元):
あらためて大化五年(649年)2月条を見たまえ。19階の冠位の制度、ならびに八省・百官の制度が制定されている。このときに「大氏・小氏・伴造の氏上制度ならびに民部・家部の支給」も合わせて行われたと考えて全く無理がない。そして大化年間を通して研究された律令国家の新体制がこの最後の年に集約的に発布されたとして違和なく理解できる。だいたいあれほど改新の理念を宣告しておきながら(氏族の不安を解消するには必要だった)、むしろこの施行宣が欠けている現行の記述の方が余ほど不自然ではないか。

天智三年の記事は、実は大化五年に施行された改新の記事と見て間違いないだろう。であれば時の「天皇」とは孝徳天皇であり、宣命したのは当時の皇太子である中大兄皇子ということになる。天智三年には状況からいっても別の勅があったのではないか。

◇年譜:「大化の改新」の復元
645年(皇極四年、大化元年):6月、乙巳の変(蘇我本宗家滅亡)
646年(大化二年):正月1日(甲子)、改新の詔(=「甲子の宣」)
          3月、皇太子奏請文、薄葬令他
          8月、旧来の品部の廃止と百官制定の詔他
647年(大化三年):七色十三階の新冠を制定(位でないことに注意)
648年(大化四年):阿倍内麻呂、蘇我石川麻呂は旧冠を着用(=新制度に不満?)
649年(大化五年):2月、冠位十九階の制定。同時に八省・百官を設置。
                 および大氏・小氏・氏上の制および民部・家部を定める他
                 (=「甲子の施行宣」)
             3月、阿倍内麻呂薨
             同月、蘇我石川麻呂家滅亡事件

658年(斉明四年):10月、「宇智野遊猟歌」(万葉集巻一3・4歌)
660年(斉明六年):童謡122歌「〜、甲子はととよみ〜」(=甲子体制の定着?)
668年(天智七年)ないし671年(天智十年):冠位二十六階の制定?
675年(天武四年):2月、「甲子の年の部曲廃止」の詔

こうして見ると、大化元年〜五年は改新政策の準備・研究期間であったことが理解できる。大化二年正月の「甲子の宣」以下の詔は新政理念の宣言であり、大化五年の「甲子の施行宣」こそがその総決算にあたる改新政策の実行であったことになる。

興味深いのは、大化五年の八省・百官の制度を時の左右大臣にではなく、国博士の高向玄理と僧旻に詔していることである。とすれば新政策の立案に左右大臣であった阿倍内麻呂や蘇我石川麻呂は関与していなかったことになる。恐らく新体制の企画は中大兄皇子を首班とし、内臣の中臣鎌足や国博士の高向玄理や僧旻等をメンバーとする、少人数のプロジェクトチームに任されたのであろう。

この直後(大化五年3月)に発生した蘇我石川麻呂滅亡事件は何を物語っているのか?そして対立の根本は何であったか?新政策施行の過程で生じた軋轢としか考えられない。というのは、石川麻呂が自決した後、調べてみると重要な文物はすべて婿の中大兄皇子のものという書付が発見されて、中大兄がその無実を知って嘆いたという説話になっている。とすればその対立の原因はやはり所有(権)の問題であった(が絡んでいた)と推量されるのである。

新しい律令官僚制度においては特権的な大豪族は必要なかった。やはり蘇我石川麻呂事件は大化の新政策に対する反対派の打倒(粛清)だったと考えるべきだろう。「甲子の施行宣」は、特権的な大豪族には受け入れがたいものであったと考えなければならない。蘇我石川麻呂家は自身としても大豪族であったし、もしかしたら本宗家滅亡の際にその所領の大部(本宗も)を受け継いでいたのかもしれない。

改新政策が旧派の人々に不評だったことは、大化三年の新冠制に左右両大臣が旧冠を着用して従わなかった記事からもわかる。しかし大化五年の宣は旧派に対する最後通牒であった。結果は歴史の示すとおりである。かくして国の総力を手にした新政府は、半島の不測の事態に備えるために、満を持して軍備拡張に邁進する。それが白雉・斉明紀である。(※注9:七色十三階の新冠の制定について

◇年表:百済復興支援戦役前後の半島情勢
645年:乙巳の変
647年:唐、高句麗に侵攻
653年:中大兄飛鳥京に還都
660年:7月、唐、百済を滅す
     10月、百済遺臣福信、倭国に復興支援要請
661年:正月、斉明天皇征西
      9月、余豊璋(百済王子)を百済に送る
663年:8月、白村江の戦い

記事混乱の理由:
ではこうした事態(書記の混乱)が一体何故生じたのか?改新政府の課題の一つに「氏族をいかにして律令官僚に組み込むか」があったであろうことは前述した。大化五年の「甲子の施行宣」のうち、特に「大氏・小氏・伴造等の氏上制度および民部・家部の制定」の具体的な内容が開示されていないので憶測するしかないが、律令官僚はできるだけ公平にして有能な者が地位を獲得する制度が望ましい。とすれば蘇我氏や阿部氏のような超大氏族の門閥は排斥の方向で検討された可能性が高い。

こうした場合の定法は分割統治である。思うに超大氏族に対しては複数氏族・複数氏上制が採用されたのではないか。この推測は、天智紀に他の蘇我氏家が活躍していることや、後代藤原氏が四家に分流したことを思えば成り立つだろう。

だが、その滅亡の原因となった大化の施行宣を、名誉ある自家(蘇我本宗)が他の氏族と横並びに貶められた(と感じた)屈辱からも、誇り高い鵜野讃良皇女(持統天皇)には受け入れがたかったと推理しておこうか。(あるいは自らの皇統の瑕疵と判断したのかも知れない。)結果、帝紀からその部分が削除されたのだと。

(これは天武・持統紀にその不都合史料が故意に湮滅(おそらく焚書)せられた証拠の一例である。懐風藻や武智麻呂伝には、天智紀の資料が少なく、在野から補われたことが記されている。この時代の歴史はこの観点(書記批判)なくして正しく再現できない。)

かくして、一旦書記から削除された記事は元明紀に修復されたと推量するのである。ところが、その際に「甲子の年」による錯誤が生じてしまった(いや、承知していたがここに置くしかなかったとも)。

こうみると大化(の改新)とは、奇しくも蘇我(前)本宗家の打倒で始まり、蘇我(後)本宗家の滅亡で終わっていることが分る。そしてそれはまさに「宇智野遊猟歌」に詠われた「朝狩(*)」、「暮狩(*)」(「*」は獣ヘンに葛の字)とぴったり符合するのである。これは恐るべきことではないか。

<万葉集(旧本)の編纂>
万葉集がどのような歴史を辿って成立したかは極めて興味深い懸案である。万葉集は一日にして成らず。それは長い歳月をかけた、歴代に渡る編纂事業であったことが分かっている。

ところで万葉集の基層に旧本なるものの存在があったことが知られている。一体その旧本は何時、誰によって編まれたのか?そしてその実態はいかなるものであったか?この問いは、万葉集発祥の淵源を覆っている深い霧に対する問いかけでもある。

万葉集・巻一の冒頭部分の構成は、
1歌:雄略天皇求婚歌
2歌:舒明天皇国見歌
3・4歌:舒明天皇の宇智野遊猟歌
5・6歌:軍王の歌
7歌:額田王(未詳)の懐古歌 
8歌:額田王の熟田津の歌(以後は紀の湯行幸時の歌)
の順となっている。

これらの作品の配列は何を語っているか? 冒頭歌に雄略天皇歌が置かれているのは、雄略天皇こそが「大倭王権の創立者」ないしは「理想とされる王者像」としての伝承があったからだろう。日本書紀に記された雄略天皇像は、多くの敵対者を滅ぼした絶対者・覇者として描かれている。しかし万葉集に収録された作品は求婚によって王権を創立した平和主義者のそれである。(雄略天皇は、悪徳大王とも、有徳大王とも呼ばれたとある。その毀誉褒貶は立場の違いによるとも受け取れる)

2歌は、舒明天皇の国見歌である。歌には海内の平穏が詠みこまれている。このことは、舒明帝こそが大倭王権の正統の継承者であるとする主張が述べられていると考えられる。

3・4歌は、実は蘇我氏(葛城氏)を打倒した、大化の改新(乙巳の変)にかかわる歌であった。歌は中大兄皇子(後の天智天皇)に捧げられた歌であることは間違いない。倭王権(舒明王権)が揺ぎ無く確立されたことを称えていると考えられる。

(5・6歌の軍王の歌については後代の挿入であるとの学説が現在大勢を占めており、私も其の見解に同意するものである。その理由は別の機会に述べることにしてここでは割愛する。)

7歌は、大友皇子に対する哀悼歌であったことはすでに述べた。(【名歌鑑賞17】参照)

してみれば万葉集冒頭の作品配列は、極めて政治的な配慮の下に為されていると言わなければならない。この配列は舒明皇統の正統性と確立そしてその挫折を語っているように見える。すると自然に旧本は天智朝の追慕歌集として編まれたのではないかとの想念が浮かんでくる。であれば、旧本の棹尾は天智挽歌群で締めくくられていたのではないのか。大友皇子に対する哀惜歌(7歌)は、憚られたため密かに巻頭付近に収録されたと考えれば得心できる。

どうだろう。とすれば現在の万葉集の巻頭の配列は旧本の段階ですでに成立していたことになる。また雑、相聞、挽歌の三部立ても、例えば蒲生野遊猟歌が雑歌に分類されていることから、すでに旧本の時点でそのようになっていた可能性が高い。

日本書紀には天智天皇や大友皇子の大葬次第は記されていない。旧本が近江朝追慕の鎮魂歌集として成立したとすれば、恐らく、壬申の乱の後三輪山の麓に逼塞した、(倭姫皇后や額田王等を中心とする)天智後宮の人々によって編集されたと考えて間違いないだろう。もちろん実質の編纂者は全てを知っている額田王以外には考えられない。

この推測が正しければ、旧本の成立した時期は天武・持統朝の真っ盛りであり、近江朝(舒明皇統)の復活が見込めない時期の編纂であったことを忖度する必要がある。そこには歌集を編まずにはおれない人々の万感の思いがあったのだと。

本稿 了。次回【名歌鑑賞19】。


※注1:「なか弭の音」について
語源は良く分からない(よく分かっていない)。「弭(はず)」は弓の上下端にある弦を懸ける窪みのこと。「中」とは「空」のことか。いずれにしても「矢を番えない空撃ち」であると私は考える。「音」は「ブン」という弦の張り具合を確かめる「弓弦(ゆんづる)の音」か、「バシ」という「鞆音(ともおと)」と考えるべきである。

もっとも、歌が特に「音」の種類を述べないのは「気配」の意味が込められているのかもしれない。いずれにしても大君が自室で「空撃ち」をするということは、「弓」の点検であり、即「出猟」ないしは「出陣」の意志を意味するのである。

※注2:軍営における従者の奉仕
日本書紀景行天皇40年条に次のようなエピソードが紹介されている。
(日本武尊が)甲斐國に至る。酒折の宮に居ましき。時に擧燭して進食したまひき。この夜、歌を以ちて侍者に問ひたましく、
「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(紀25歌、記25歌)
と曰りたまひしに、諸の侍者え答へ言さざりき。時に秉燭者有りて、王の歌の末を續ぎて歌ひしく、
「日日並べて 夜には九夜 日には十日を」(紀26歌、記26歌)
即ち秉燭人の聰きことを美めて、敦く賞みたまひき。とある。

このエピソードは、軍営における従者の、日夜を問わない緊張と奉仕を伝える物語になっている。この問答は「酒折りの宮」での出来事となっているが、要は軍営での酒席でという設定なのであろう。こうした経験が、宮中の「狩り」歌謡劇として形式化されたと考えられる。

※注3:「武埴安彦」の乱について
だいたい風土記でもそうだが、地名の起こりの説明には、語呂合わせ的な付会物語が多く載せられている。
日本書紀・崇神紀十年9月条に、「(崇神天皇は)〜また大彦と和珥臣が遠祖彦国葺とを遣し、山背に向かひて武埴安彦を撃たしめたまふ。〜時に官軍屯聚みて、草木を??(ふみなら)す。因りて其の山を号けて那羅山(ならやま)と曰ふ。〜」とある。

※注4:長歌形式の成立
一般に長・反歌の基本形式は、共通語を有するということである。例えば、この3・4歌で言えば、「朝」がその共通語になっている。しかしもし「朝」が「浅」であったとしたら、もはや共通語は存在せず、「宇智野遊猟歌」は一般的な長・反歌の形式から外れることになる。ということは、この「宇智野遊猟歌」は、もともとは歌謡劇であって、それを無理に長・反歌の形式に仕立て上げて収録したと解することもできる。

思うに長歌(3歌)は、古来から伝えられている宮廷の歌謡演目の一つだったのかもしれない。そして4歌こそが間人連老の実作なのであり、新旧取り混ぜて改編した今様の歌謡劇だった可能性がある。とすれば、この「宇智野遊猟歌」は、長歌形式の発祥に位置する重要な作品ということができるだろう。

※注5:枕詞「たまきはる」について
辞書によれば、「たまきはる」は語義未詳としながらも「うち」「命」「世」などにかかる枕詞とされている。

しかし枕詞「たまきはる」の、歌謡における最初の使用例は、
(1)日本書紀神功皇后摂政元年の、紀・28歌「〜たまきはる 内の朝臣(あそ)〜」
(2)日本書紀神功皇后摂政元年の、紀・29歌「〜たまきはる 内の朝臣〜」
(3)日本書紀仁徳天皇五十年3月条、紀・62歌「たまきはる 内の朝臣〜」
(4)古事記仁徳天皇記、記・71歌「たまきはる 内の朝臣〜」

と、全て「内の朝臣」の修飾語として使われている(ことに注意を要する)。そしてこの「内の朝臣(あそ)」と呼ばれる人物は、いずれも武内宿禰のことなのである。

「武内宿禰」は「武内(たけうち)と言う名前の宿禰」では無い。また「内宿禰」は後代の内臣と似た「内の宿禰」でもない。「武内宿禰」は「武+内+宿禰」で「武(たけ)」は名前、「内」は「内=宇智=兎道」で葛城地方の領地名、「宿禰」は身分(かばね)で、もともとは「武という名前の宇智を領地とする宿禰」の意味である。

そしてここで思い出して欲しい。古事記・孝元記によれば、「武内宿禰」は葛城氏の始祖ともいうべき人物であって、葛城襲津彦や蘇我石川宿禰他七氏の父親なのである。ということは「たまきはる内の朝臣」とは「葛城氏の宇智の宿禰」に他ならない。なお、記紀には武内宿禰は極めて長命な人物として描かれているが、おそらく葛城氏の何代かに渡る該当者の代表名なのであろう。

本来「たまきはる」は葛城氏の隠語として特化したものであったと考えられる。だが恐らく、その語源が未詳にとなって「魂極まる」のような意味に解釈され、「世」や「命」の枕詞に採用されることになったのだろう。

※注6:中皇命とは誰か?
中皇命とは誰か?古来議論のあるところである。最近では概ね間人皇女ということになっているようだが、私もその説に賛成である。

中皇命という人物は万葉集にしか現れない。しかしこの3・4歌の題詞だけから見た場合、情報が余りにも少なく男女の性別すら判断できない。

だが万葉集は中皇命について、別の機会にさりげなく紹介している。紀の湯行幸時の作歌「巻一・10〜12歌」を載せているからである。それによれば中皇命は明らかに女性である。しかも其の作品は御歌とされており、皇命の尊称からいっても、極めて高貴の存在として扱われている。

「皇命(すめらみこと)」は、同音の「天皇(すめらみこと)」とも一致する最高の尊称である。私は「皇命」は天皇家(国家)祭祀主宰者の称号と考えている。中皇命の「中」とは、中大兄皇子と同じように「次の」の意味と推測される。当時単に「皇命」といえば、斉明女帝のことであり、それと区別して、間人皇女を「中皇命」と呼んだと考えるのである。

間人皇女が中皇命の名を冠されたのは斉明紀に入ってからであろう。皇女の年齢は、兄の中大兄皇子(天命開別皇子)が舒明十三年(641年)16歳であったことから推定して、当時14歳と仮定すれば、斉明四年(658年)の紀の湯行幸時には31歳ということになる。歌の作詠に係わったとして申し分のない年齢ということができる。このことは「宇智野遊猟歌」の斉明四年制作説の補強になっているだろう。

なお、間人連老は日本書紀・白雉五年(654年)2月条に、遣唐使の一員として名前の挙げられている中臣間人連老と同一人物ではないかといわれている。帰国の日時は明らかでないが、翌斉明元年(655年)8月に(大使)河辺臣麻呂等大唐より還るとある。このとき一緒に帰国したとすれば、斉明四年(658年)の作詠者として何ら矛盾はない。

※注7:斉明紀童謡の解読
この推理を裏付ける記事が日本書紀・斉明六年(660年)の条にある。そこには、半島での戦争介入(百済復興支援戦役)準備の際の不吉な事件を紹介したあとに、未だに解釈不能の童謡(紀・122歌)が載せられている。

<紀・122歌原文>
有童謠曰。
摩比邏矩。都能倶例豆例。於能幣陀乎。邏賦倶能理歌理鵝。
美和陀騰能理歌美。烏能陛陀烏。邏賦倶能理歌理鵝。
甲子。騰和與騰美。烏能陛陀烏。邏賦倶能理歌理鵝。

<仮名文>
童謡あり曰く、
1. まひらくつのくれつれ、をのへたをらふくのりかりが
2. みわたとのりかみ、をのへたをらふくのりかりが
3. 甲子とわよとみ、をのへたをらふくのりかりが

この紀・122歌は日本書紀中の最難解歌で、残念ながら未だに有効な釈文すら得られていない。ただ、多くの訓案の中で、契沖、本居宣長、橘守部等が、繰り返し部分の「をのへたをらふくのりかりが」を「をのへたをかりがりのくらふ」=「尾上田を雁々の食らふ」と訳しているのが注目される。要するに歌は差し障りのためわざと語順を変えてカモフラージュされていると考えられている。(これもまた婉曲伝達法の一つである)

解読の手掛かりは残されているはずである。「甲子」の文字だけが音仮名表記になっていないことから、「各文節の最初の文字はそのまま」による暗号化と見なして、私の解釈案は次のようなものになる。
1.「まくらくひのつれづれ、をのへたをかりがりのくらふ」
真暗らぐ日のつれづれ、自部田を雁々(狩々)の食らふ
2.「みわかみのたりと、をのへたをかりがりのくらふ」
三輪神告たりと、自部田を雁々(狩々)の食らふ
3. 「甲子わ(は)ととよみ、をのへたをかりがりのくらふ」
「甲子は」と響(とよ)み、自部田を雁々(狩々)の食らふ

まず、旧訓「尾上田を雁々の食らふ」は良いとして、「をのへた」は「自家田」ないし「自部田」と訓む。問題は「雁々」の意味であるが、私は「狩々」ではないかと考えるのである。「狩り」とは「戦争」の暗喩である。あるいは「雁」には朝廷の発する詔や勅書の意味がかけられているかもしれない。「雁(書)」には文書の意味がある。

(これらの解釈は恣意的と指摘されるかもしれないが、歌は置かれている記事と合わせて解釈されるべきである。斉明六年条には百済復興支援の戦争準備と敗戦の予兆の記事の後にこの歌が載せられている。歌には軍備の重税にあえぐ百姓の怨嗟の声が詠まれていると読むことができる。)

ここでの問題は3行目の「甲子は」の意味である。この「甲子」とは何の事か?やはり政治に関わることを言っているように思える。そしてこの時点で「甲子」と言えば大化二年(646年)正月1日(甲子の日)の「改新の詔=甲子の宣」のこととしか考えられない。

ただ「甲子が、自家(部)田を食らふ」には二つの意味が考えられる。
(A)「甲子の詔によって自家田が取り上げられた」のか
(B)「(再配分された)自家田に、甲子の詔に基づいて(戦争準備のための)重税が課せられた」のかである。
もし(A)の意味であったら、この歌は大化年間(645〜650年)ないしは次の白雉代(650〜654年)に置かれるはずである。しかし、歌は斉明六年(660年)のこととして詠われている。そして斉明六年は、百済復興支援の軍備に負荷のかかった時期であった。とすれば、歌はむしろ(B)の意味で詠われていると考えるべきである。

歌の「自家(部)田(をのへた)」はかっての氏族時代のそれではない。律令国家から支給された(国家の統制を受けた民部・家部の)「自家(部)田(をのへた)」なのである。だからこそ国家の徴税の対象になる。

もう一つ極めて興味深いのは、歌では「甲子(=おそらく大化の詔)」が「三輪神」と並んで権威として述べられていることである。ということは、この時点で、改新の政策がすでに執り行われていたと見るのが至当であろう。改新の政策が行われていたからこそ大がかりな戦争準備を実施できたのである。

※注8:「大化」の年号について
大化の年号が当時実際に制定されたかどうかの確証が未だ得られていない。もしかしたら書紀・編纂者の命名なのかもしれない。大化とは、「大いなる徳化」の説もあるが「大変化」「大変革」の意味だろう。今現在の人には自覚できなくても、後代の視点から歴史を俯瞰してみるとこの時こそが歴史の転換点であったというような発見が、このような名称を付けさせたとも考えられる。日本書紀は歴史書であり、言わば後人への教育書でもあった。
(書紀・孝徳即位前紀に、「天豊財重日足姫天皇四年を改めて大化元年とす。」とある。この謂いはむしろ後代便宜的に定めたと受け取れる書き方である。)

※注9:七色十三階の新冠の制定について
647年(大化三年)の七色十三階の新冠制定をつぶさに見てみよう。この施策のねらいは明らかである。603年(推古三年)に冠位十二階が制定されて以来の改定であるが、主な変化は最高位の大紫冠を、織冠・繍冠・紫冠と三段階に分割したことにある。おそらく従来の大徳位に与えられた大紫冠は第三位の紫冠相当(実質的な格下げ)とされたのであろう。王臣間の身分の隔絶、王権の絶対化が図られたのに相違ない。これまでの氏族社会における仲間内の大王から、不可侵な皇権権威(→天皇)へと法制化されたのである。王権側勝利の必然というべきか。

そんなときに左右大臣が旧冠を着用したことは、誇り高い豪族の気概とみることもできるが、新制(皇権)に対する反抗と受け取られても仕方がない。もし豪族側(葛城氏)が勝利したとしたら、十三世紀のイギリスのマグナカルタのような立法が成されたのであろうか。(2007.10.10追加)

2007.09.15 M.A.

<参考文献>
一般書:
1.「万葉集全講」  武田祐吉  明治書院  1955
2.「萬葉集」  日本古典文学大系  岩波書店  1957.05.06
3.「古代歌謡集」 日本古典文学大系 岩波書店 1957.07.05
4.「万葉集評釈」 窪田空穂 角川書店 1966.04.15
5.「記紀歌謡」 日本詩人選1 益田勝実 筑摩書房 1972.05.25
6.「斎藤茂吉全集  評釈」  斎藤茂吉  岩波書店  1973.09.13
7.「萬葉集私注」  土屋文明  筑摩書房  1976.03.05
8.「万葉集」 古典文学解釈講座  古典文学教材研究会編 管野雅雄監
  三友社出版 1994
9.「萬葉集」 新編日本古典文学全集 小学館  1994.05.20
10.「万葉集釈注」  伊藤 博  集英社  1995
11.校訂「萬葉集」  中西 進  角川書店  1995.01.31
12.「万葉集」  和歌文学大系1  稲岡耕二  明治書院  1997
13.「日本書紀」 新編日本古典文学全集 小学館 1998.06.20
14.「萬葉集」  新日本古典文学大系  岩波書店  1999.05.20
15. セミナー「万葉の歌人と作品」  企画編集/神野志隆光、坂本信幸 和泉書院    1999.05.30

個別書1:大化の改新関連
1.研究史 大化改新 野村忠夫  吉川弘文館 1973.07.05
2.岩波講座 日本歴史2 古代2 各執筆者 岩波書店 「大化改新と東アジア」井上光貞 1975.10.22 
3.「大化の改新の基礎的研究」 北村文治 吉川弘文館 1990.05.20
4.大化の改新は存在したか 古代政変と律令国家誕生 史話「日本の歴史」六 作品社 1991.04.15
5.「大化改新論」史論上下 門脇禎二 思文閣出版 1991.09.10
6.大王から天皇へ 日本の歴史第3巻 熊谷公男 講談社 2001.01.01
7.「大化改新」の史料批判 山尾幸久 塙書房 2006.10.01

個別書2:古代歌謡関連
1.記紀歌謡全註解 相磯貞三 有精堂 1962.06.20
2.「古事記・日本書紀」U 日本文学研究資料叢書 有精堂 1975.04.25
3.日本書紀歌謡 全注釈 大久保正 講談社学術文庫 講談社 1981.08.10
4.「古代歌謡」 日本文学研究資料叢書 有精堂 1985.11.20