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【名歌鑑賞19:大津皇子事件1(伊勢神宮参詣とその死)】

                                2007年12月15日  森 明

<巻一・相聞:105歌・106歌>
<原文>
藤原宮御宇天皇代 
大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首
105歌:
「吾勢・乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之」(「・」は示ヘンに古の字)
わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに われたちぬれし
106歌:
「二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武」
ふたりゆけど ゆきすぎかたき あきやまを いかにかきみが ひとりこゆらむ

<巻三:416歌>
<原文>
大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首
416歌:
「百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟」
ももづたふ いはれのいけに なくかもを けふのみみてや くもがくりなむ
右藤原宮朱鳥元年冬十月
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<釈文>
持統天皇代
大津皇子の窃かに伊勢神宮に下りて上り来たりし時に、大伯皇女の御作りたまひし歌二首
105歌:
「我が背子を大和に遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし」
わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに われたちぬれし

106歌:
「二人行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」
ふたりゆけど ゆきすぎかたき あきやまを いかにかきみが ひとりこゆらむ

大津皇子の死されし時に、磐余の池の陂に流涕して御作りたまひし歌一首
416歌:
「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」
ももづたふ いはれのいけに なくかもを けふのみみてや くもがくりなむ
右は、藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり


大津皇子は父親を天武天皇(当時大海人皇子)、母親を大田皇女(天智天皇の娘で鵜野讃良皇女の実姉)とする。幼少から文武に秀で将来を嘱望された存在であったらしい。日本書紀や懐風藻はその人となりを、言葉を極めて褒め称えている。

だが皇位継承となると草壁皇子(天武天皇と鵜野讃良皇女の子息)に一歩譲らなければならなかった。それは大田皇女が早く薨じてしまっていたこと、草壁皇子が一歳の年長ですでに皇太子に指名されていたこと、そして何よりも太子の母親である鵜野讃良皇女が時の皇后として権力を振るっていたからである。しかし天武天皇の期待は大津皇子にあったようだ。21歳になると直ちに「朝政を聞か」せている。

確かに、少なくとも日本書紀に記された事績を見る限り、大津皇子登壇(天武十二年2月)以降に、天武朝の治績ともいえる数々の施策が矢継ぎ早に施行されている。それから判断しても、天武天皇の後ろ盾によった大津皇子の颯爽たる活躍が印象付けられるのである。この時期草壁太子の動向は殆んど伝えられていない。病弱のため朝議への出席さえもままならなかったのだろうか。事件は、天武天皇の死の直後に発生した。

題詞によれば、105・106歌の二首は、大津皇子が「竊(ひそかに)」伊勢斎宮を詣でたときの、当時の伊勢斎宮であった姉の大伯皇女の歌であるという。「竊(ひそかに)」は、「天皇に内密で」の意味である。問題は大津皇子が何時、何故秘密裏に伊勢神宮詣でを行ったのか(行わなければならなかったのか)?ということになる。

題詞には「姉に会いに行った(来た)」とは書いていない。だから、皇子の主目的はあくまでも神宮参詣だったのだろう。ではその理由は?歌から、大津皇子周辺の、当時の緊迫した情勢を窺い知ることができる。

<105歌の解釈>
105歌:
「我が背子を大和に遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし」
わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに われたちぬれし

訳文1(新日本古典文学大系本):
「我が君を大和へ帰し行かせるとて、深更、暁の露に、私は立ちつくして濡れた」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「あの人を 大和へ帰し見送ろうとして 夜も更けて 暁の露に わたしは立ち濡れたことよ」


「遣(や)る」とは、単に「見送る」ではない。「強いて送る」「送り帰す」の意味で意思による強制力が働いている。状況を斟酌すれば「(大津皇子が)渋るのを無理に帰す」あるいは「(危険であることを)諭して急かせて帰す」の意味が込められていると考えられる。

「佐夜深而(さ夜更けて)」は、一般に「夜は更けて」と解し、大津皇子が夜の闇の中に帰っていく場面を想像するのであるが、実際上、深夜の山行きは殆ど不可能であったとことを考えると、ここは、「心の不安の闇が深まって」「心配で気持ちが真っ暗になって」の意味が含まれると解釈するべきだろう。

また、「暁露に立ち濡れる」も(美しい言葉であるが)、実際に「夜中立ち尽くして朝露に濡れた」というのではなくて、「一睡もできず、ずっと泣き明かした」の意ととるべきである。「立ち〜」とは、「立ったままで」の意味であるが、接頭語的用法では「ずっと〜」のように意味を強める言葉でもある。ここは「詩的表現あるいは詩的喩え」なので直訳せずに美しい意訳が求められるところ。

105歌:「我が背子を大和に遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし」
訳文「愛する弟を急かせて都に送り出すと、夜は真っ暗に更けて、私は夜が明けるまで立ち尽くしたまま朝露に濡れてしまいました」
=「愛する弟を急かせて都に送り帰すと、私の心は不安で真っ暗になり、明け方まで一睡もできずずっと涙にくれてしまいました」

大伯皇女はしかりつけるようにして弟を都に送り返した。だが心底から湧き起こる不安と恐怖に身を苛まれるのであった。歌はやはり天武天皇崩じた直後の急展開する政治状況のもとで詠われたと考えるべきだろう。「大和に遣るとさ夜更けて」には皇女の暗澹とした恐れが見事に表現されている。

<106歌の解釈>
106歌:
「ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」
ふたりゆけど ゆきすぎかたき あきやまを いかにかきみが ひとりこゆらむ

訳文1(新日本古典文学大系本):
「二人で行っても行き過ぎかねる寂しい秋山を、どんな気持ちで我が君は、一人で越えているのでしょうか」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「二人で行っても 行き過ぎにくい 秋山を どんなにしてあの人は ひとり越えていることやら」


前105歌の内容から言っても「秋山」には、「難関」の意味が込められていると読むべきだろう。歌には大津皇子が負う困難な状況が詠み込まれていると。

「いかにか君がひとり越ゆらむ(如何君之 獨越武)」の「如何(いかにか)」を、定訳では「どんな気持ちで」。「独り越ゆらむ(獨越武)」を、「(今)一人で越えていることやら(いるのでしょうか)」と訳するのであるが、「如何(いかにか)」を「どのようにして」「どのような方法で」ととり、「(これから)どのようにして一人越えするのでしょうか」と解したい。

106歌:「ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」
訳文「たとえ二人一緒で行っても越えることの難しい秋山を、どのようにして(これから)君は一人で越えるのでしょうか」
=「たとえ複数であっても越えることの難しい難関を、どのようにして君は一人で乗り越えるのでしょうか」

「いかにか君がひとり越ゆらむ」の「独り越え」の言葉の中にすでに(政治的に?)孤立している大津皇子の姿を読み取ることができる。また「いかにか」は反語で「できないだろう」を導く。ここに最早打開の不可能(最悪の事態)を予感する皇女の絶望を読み取ることもできる。

<大津皇子の伊勢神宮詣での目的と時期>
大津皇子は何時、何のために伊勢神宮詣でを行ったのか?すでに明らかだろう。到底(最大の庇護者であった)天武天皇が存命中の行為とは考えられない。やはり天皇崩御の天武十五年(686年)9月9日以降、皇位継承問題が緊迫した時期に行われたと考えるべきである。とすれば題詞の「竊(ひそかに)」とは、天皇崩御後直ちに臨朝称制を敷いたとある鵜野皇后に対してということになる。

以下に天武天皇の葬儀日程を日本書紀から抜粋して見てみよう。
◇年表:天武天皇の葬儀日程
686年(天武十五年、朱鳥元年):
9月9日、天武天皇崩御
9月11日、初めて哀の礼を奉る。南庭に、もがり宮を起てる。
  9月24日、南庭にもがり。大津皇子、皇太子に謀反しようとする
  9月27日〜30日、宮中での各種葬儀
10月2日、謀反が発覚し、大津皇子以下30余人を逮捕
10月3日、大津皇子刑死
687年(持統元年):10月、草壁皇子ら大内陵を築く(開始?)
688年(持統二年):8月、葬儀を奉宣はしむ
688年(持統二年):11月、大内陵に葬る

この中で注目を引くのは9月24日の記事である。日本書紀は簡単に「大津皇子が皇太子に謀反しようとした」とだけ記す。だからこのただならぬ事件の内容については全く分からない。ただ、それまでの記事は葬儀準備が主体になっているから、この24日の「もがり」が皇族たちの集う葬儀の、最初の公式行事ではなかったろうか。

事件はその時に発生した。「謀反」というと不穏な言葉であり、何か計画的反抗であったようにも聞こえてくる。もしこの言葉どおりだったならば、即刻その場で大津皇子は誅殺されても文句を言えないだろう。だが、それは衆目の事件であったろうこと、この時すぐに逮捕・賜死に到らなかったことから推測しても、些細で(諍いとも言えないような勘違い、ミス、僭越行為等のような)偶発的な事件だったのではないか。

ただこの事件で、大津皇子が何の咎も受けなかったとは到底考えられない。思うに、即刻出仕停止、自宅謹慎のような処分を受けたのではないかと私は推測するのである。そして恐らく、大津皇子を排除したまま、皇后および皇太子の主導の下で、天皇葬儀は粛々と進められたのだと。(※注1:日本書紀の記事

かくして自宅に謹慎を余儀なくされ、(葬儀に列席もできず、)孤立に追い込まれた焦りが、大津皇子に伊勢神宮詣でという奇策を思いつかせたと考えられないだろうか。もう一度先の年表を見て欲しい。皇子が自宅に逼塞したとすれば、9月25〜9月30日の間が空白の期間になる。だから、大津皇子の言い分は、葬儀に出られないから伊勢神宮(=亡き天皇の御魂)にお参りした、ということだったのかもしれない。(※注2:飛鳥−伊勢神宮の距離およびルート

すると次のような推測が可能だろう。
◇大津皇子の伊勢神宮参詣の日程(推測)
9月24日、南庭にもがり。大津皇子、皇太子に謀反を企てようとする(大津皇子、自宅謹       慎処分?)
  25日、(大津皇子伊勢神宮詣でに出発?)
  27日、(伊勢神宮着、夕刻神宮発?万葉集大伯皇女の105・106歌)
  30日、(大津皇子飛鳥に戻る?)宮中での天皇葬儀終了
10月2日、謀反が発覚し、大津皇子と徒党三十余人を逮捕
    3日、大津皇子刑死

しかし、予告もなしに突然現れた弟の、そのただならぬ様子に皇女は驚愕したに違いない。そして、かねて風聞していた、皇后や皇太子との軋轢を直感して不安に襲われたのではないだろうか。第一危険ではないか。許可を得て来たのか?それに今は重要な父の葬儀の真っ最中のはずである。それを無断でその場を離れて遠く伊勢神宮に詣でるなど、誰が見ても異常であまりにも非常識な行動であった。

大津皇子は、ほとばしるように危機の実情と無実を訴えたのだろうか。だがもちろん、斎宮の身に過ぎない大伯皇女のできることといえば、愚痴の聞き役と慰め役だけしかなかった。皇女は、無謀な行動を戒め、皇后への謹慎と謝罪を諭すのが精一杯だったのではないだろうか。後は、ひたすら神に加護を祈るしかなかった。

だいたい皇子の伊勢詣で自体、あくまでも突発的な思い付きによる直情怪行のような感じがする。もし、大志を抱き、大勢の支援者に囲まれていたなら、こうした無謀な行動を控えたのではないか。代理の者を使わしても良かった。実際、この行為で自分の個人的な欲求を満足させることができたとしても、政治的にプラスする何物をも見出すことはできない。これでは敵の思う壺といっても過言ではないだろう。

(次のようにも考えられる。その後の経過を知っている我々は(あるいは日本書紀によって与えられた情報から)、皇子の孤立やその直情怪行、あるいは切羽詰った謀反の可能性等を、事件に結び付けてあれこれ思い巡らすのであるが、(もともと謀反など全く身に覚えがない)当の本人はもっと暢気に構えていたのかも知れない。無防備な行動がそれを証明しているともいえる。しかし大伯皇女は直感的に事の重大さ・危険を感じ取ったのだと。大津皇子は、よく言えば闊達・豪放、悪く言えば猪突・奔放で、言わばまだ荒削りの(隙だらけの)青年であった。)

<大津皇子の刑死>
万葉集には大津皇子が死に臨んだ時に作ったと言われる歌が残されている。

大津皇子の死されし時に、磐余の池の陂に流涕して御作りたまひし歌一首
416歌:
「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」
ももづたふ いはれのいけに なくかもを けふのみみてや くもがくりなむ
右は、藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり

訳文1(新日本古典文学大系本):
「(ももづたふ)磐余の池に鳴いている鴨を、今日限りに見て、私は死んで行くのか」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「(百伝ふ)磐余の池に 鳴いている鴨を 今日だけ見て 死んで行くのか」


この歌が辞世歌とされる理由は、題詞に「大津皇子被死之時〜流涕御作歌一首」とあるからである。ただ歌中の「雲隠りなむ」の「雲隠る」は「死ぬ」の敬避語である。とすれば自分が自分のことに敬語を使うことになりおかしい、という尤もな意見がある。由来この歌は、辞世歌説(自作説)、仮託説入り乱れており未だに決着がついていない。表記訳本は皇子の自作説にのっとった解釈になっているようだ。

定説では「(ももづたふ)磐余の池」の「(ももづたふ)」は、「磐余」の枕詞とされる。また「磐余の池」は日本書紀・履中紀二年に「磐余池を作る」とあるのと同じ場所だろう。「磐余」は神日本磐余彦(神武天皇)の名前にもあるように、古代王権の発生の地でもあるから、「古くから伝わる由緒ある池」というような意味が込められているとも考えられる。

問題は「今日のみ見てや」の解釈である。どうもうまく訳出できない。「〜てや〜む」には、石川郎女の歌(129歌)や額田王の山科御陵退散歌(155歌)等の用例があるから参考にして見よう。(※注3:「〜(て)や、〜む」の用例について

すると「てや〜む」は仮定の確信的推量で、一種の間接話法であることが分かる。ただそうした文法と、歌の「今日のみ見てや」の解釈がなかなかうまく整合しない。ここでは「たとえ見たとしても今日限りと」あるいは「きっと今日限りと見て」ぐらいに訳しておこう。「のみ」は限定の副助詞である。

もう一つの問題は「雲隠る」の表現である。前述したように「雲隠る」とは「死ぬ」の敬避語である。これを皇子自身の自尊語と読む解釈もあるが、やはり皇子自らが、自分の死を「雲隠る」とは言わない、と私は判断したい。
(私は、あくまでも歌を本質とし、歌意と題詞とが矛盾する場合は、歌にこそ真を置く立場である。)
また「〜なむ」は「〜するでしょう」と現在形に訳せるが、ここでは「〜したことでしょう」の過去(完了)推量で訳出しておく。

416歌:「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」
訳文A1:
「古くから伝わっている磐余の池の鴨を、(たとえ)見たとしても今日限りと、(皇子様は)お隠れになったことでしょう」
=「古くから伝わっている磐余の池の鴨を、きっと今日限りと見て、(皇子様は)お亡くなりになったことでしょう」
と言うことになる。

この解釈では、歌は大津皇子の死に臨む様子を思い遣った哀悼歌ということになる。

ただどうだろう。一般に、このように事象のみで表現される歌は、詠っている人物(あるいは歌の主人公)の感情は読者の想像に委ねられる。しかし、これでは余りにも淡々とし過ぎていないか。ここでイメージされる大津皇子は、すでに死を達観した人物のように見える。少なくとも題詞に言う、「流涕して作歌」とは合致していない。

屁理屈を言うならば、この歌の人物が名残惜しく(?)見ている対象は、「磐余の池の鴨」でなければならない必然は全くない。それこそ山でも川でも木でもなんでも良いことになる。歌は実際の情景に即して詠われたのかもしれないが、哀悼歌にしては物足りない感じで、大津皇子の心情を表現できていない、との思いがつのるのである。これでは例えば普通の、自然死に直面した人物への哀切歌としても成り立つだろう。

やはり「磐余の池に鳴く鴨」には何らかの寓意が込められていると見るべきである。「磐余」は初代の天皇である神日本磐余彦(神武天皇)の名前に由来する。してみれば皇位継承争いの渦中にあった大津皇子の立場からしても「磐余の池の鴨」には特別の意味が込められていると考えざるを得ない。(※注4:「磐余の池」について

したがってこの「磐余の池」は「皇位」の隠語として使われている可能性がある。また「鴨(かも)」を「〜かも知れない」の意ととれば、「磐余の池に鳴く鴨(かも)」とは、「皇位継承の可能性」「皇位継承の、もしかの可能性」のように解釈できるだろう。

416歌:「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」
訳文A2:
「古くからずっと伝わる皇位継承の可能性を、(たとえ)見たとしても今日限りと、(皇子様は)お隠れになったことでしょう」
=「古くからずっと伝わる皇位継承の可能性を、きっと今日限りと見て、(皇子様は)お亡くなりになったことでしょう」
さらに意訳すれば
=「皇位継承の可能性があったのを、(きっと皇子様は無念の思いで)お亡くなりになったことでしょう」

どうだろう。先のA1の解釈と比べれば、やはりこの解釈の方が一歩それらしいだろう。草壁太子と並んで大津皇子が次期皇位の最右翼の存在であったことは衆目の一致するところ。この解釈では、もう少しで皇位に就けたのに妨げられ、大魚を逸した皇子の無念さを思い遣った歌ということになる。

ただどうか。この無念さは僅かのところで念願を果たせなかった者の無念さである。この解釈は、皇子自身が皇位を望んで画策したこと、つまり何らかの謀反が存在したことに繋がる可能性がある。とすれば歌は日本書紀の記事を肯定する(なぞった)立場から作られていることになる。

しかし、これは大伯皇女の歌から想定される大津皇子の姿とはかけ離れている。大津皇子は何が何でも皇位を望んでいたのか?あるいは本当に謀反の意思があったのか?もし全くの事実無根だったとしたら?皇子の気持ちはこの解釈とは全く違った、別の悔しさになるのではないか。

<歌のもう一つの解釈>
辞書には「磐余」は「謂われ」と掛詞にされることが多いとある。もし「磐余」が「謂われ」の意味で使われているとしたら、歌は全く別の様相を呈することになる。

この場合は、発句の「百伝ふ(ももづたふ)磐余」は、「百伝う((過去からずっと伝わる)磐余(場所)」ではなくて、「百伝う(未来永劫に伝わる)謂われ(伝承)」=「ずっとこれから続く伝承」と読むことができる。

また「鴨」は、動物の「鴨」(これには「餌食」「獲物」のような意味もあるか?)の他に、疑問の助詞の「かも」の掛詞で「嫌疑」「疑惑」「容疑」の隠語のように読める。「鳴く」は「泣く」「無く」等でもある。

こうした観点から改めて歌を読んでみると「百伝ふ磐余(いわれ)の池で鳴く鴨(かも)」は「ずっとこれから、伝承(の池)で泣く鴨」あるいは「ずっとこれから伝承される、謂われ無い嫌疑」のように受け取れる。

問題は「今日のみ見てや」の意味である。この場合の「のみ」は限定の「限り」というよりは強調の「こそ」とも取れる。すると「見てや〜む」の「や」は、反語の「や」ではなくて、呼びかけの間投助詞の「や」ということになる。

すると「見てや〜む」は、前述した仮定の確信推量の用法ではなく、読者に対する訴えで「(読者が歌を読んだ今日こそは)きっと(真実を)見てほしいと〜む」「(読者が歌を読んだ今日こそは)必ず(真実を)見てくださいよと〜む」の意味と解釈できる。

416歌:「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」
訳文B「これからずっと不名誉な伝承(の池)で泣く鴨(私=大津皇子)を、必ずや今日こそ見てくださいよ(きっと疑惑を晴らしてくださいよ)、とお隠れになったことでしょう」
あるいは、
=「これからずっと伝承として語られるであろう、言われない(謀反の)嫌疑を、必ずや今日こそ晴らしてくださいよ、と(皇子様は)お隠れになったことでしょう」

なんと作品は大津皇子の無実を訴える歌になるではないか。歌は哀悼歌というよりは、何者かによる皇子の代弁歌の様相を呈している。問題は歌の解釈が、前述した(A)と(B)とで全く違った意味になることである。どちらが本当なのか?まあ両方の意味が掛けられているとしても、この(B)の解釈を逃したら正解とは言えないだろう。

もう一度大伯皇女の二つの歌を思い出して欲しい。「大和に遣る」「秋山を一人越える」が全てを物語っているのではないか。これらの言葉からは、断固として謀反を企図している意気軒昂な大津皇子の姿を読み取ることはできない。

むしろ、天武天皇の死後の急転直下の環境変化と、思いもよらぬ皇后のお叱り(怒り?)を食らい、状況を正しく把握できないまま、冷静を欠いている皇子の姿が浮かんでくる。歌からは計画的な謀反の実態を全く見出すことができない。416歌はやはり皇子の無実の無念を訴える歌と見て間違いないのではないのか。

(だいた大津皇子に謀反の必要があったのだろうか?状況から判断しても、黙っていれば自然に手に入る可能性のある皇位を、わざわざ無理をして求める気持ち(行為)があったとは何とも考え難い。そうした場合の戦略は職務を全うしながらじっと待つことだろう。思うに一方的に仕掛けられた喧嘩(罠)ではなかったか?)

さて、歌は大津皇子の自作歌ではなかった。とすれば問題は、誰が何時、歌を作ってここに置いたのか?である。題詞には「磐余池陂流涕御作歌」とある。とすれば「池陂」なる人物が作ったとも読める。しかしこの「池陂」なる人物が皆目見当がつかないのである。(※注5:416歌の作者について

もう一つ問題が残されている。大津皇子の帰京後(おそらく9月30日)、10月2日に逮捕、そして翌3日には刑死と事があわただしく執行されている。このわずかな期間に何が起こったのか? である。

<磐余(いわれ)についての提言>
最後に一つ提言をしておこう。これまで見てきたように、「磐余(いわれ)」は「地名」、「皇位」、「言われ」の三つの意味で使われている。しかし地名としての「磐余(いわれ)」は、(ほぼ桜井市阿部付近とされるが)未だに特定されていない。また「皇位」の意味は初代天皇である神日本磐余彦(神倭伊波礼毘古)に由来することは間違いない。とすれば、「磐余(いわれ)」の本来の意味は「言われ」「伝承」であったことになる。

そうとなれば、記紀に使われている「磐余(いわれ」(古事記では伊波礼)も再考しないわけには行かないだろう。例えば、これまで神日本磐余彦(神倭伊波礼毘古)を「神である、倭(日本)の磐余の地に最初に即位した日子(天皇)」と読んできた。しかしそれは誤りで「伝神倭彦」「神倭と言われる日子(天皇)」と改めなければならないことになる。

これは何を意味するか?神日本磐余彦(神倭伊波礼毘古)とは実在の人物ではなく、その「非在」「架空」を伝えようとする記紀編纂者の苦心の命名と見ることもできるきるのではないか。

日本書紀および古事記中に、「磐余(いわれ)」の名前が冠されている記事はざっと、
(1)神日本磐余彦(古事記は神倭伊波礼毘古)
(2)神功皇后の磐余若桜宮(古事記には記載なし)
(3)履中天皇の磐余若桜宮(伊波礼之若桜宮)
(4)清寧天皇の磐余甕栗宮(伊波礼之甕栗宮)
(5)継体天皇の磐余玉穂宮(伊波礼之玉穂宮)
等である。

興味深いのは、いずれもが実在に疑いがもたれている人物ないしは宮都ということで共通している。再検討の余地があるだろう。

本稿 了。次回【名歌鑑賞20】


※注1:日本書紀の記事
日本書紀の、9月24日の正確な記事は、「大津皇子、皇太子を謀反けむとす」である。注意深く読めば、「謀反した」ではなく「謀反しようとした」である。
また、10月2日の記事では、「皇子大津の謀反けむこと発覚れぬ」とあり、9月24日の容疑がこの時点で確定したことを示唆している。

とすれば、9月24日の時点ではあくまでも「謀反の嫌疑」に過ぎなかった。処分が「自宅逼塞」程度であったと推理する所以である。

※注2:飛鳥−伊勢神宮の距離およびルート
飛鳥京から伊勢神宮までは直線距離で約100kmである。少々迂回路になるが、初瀬街道から伊勢湾に出て海岸沿いに伊勢に下ったとしても約150kmである。屈強の壮年男子で馬の利用も可能であったことを考えると、たとえ日の短い秋で、夜間の山越えが困難であったとしても5〜6日もあれば往復可能だったのではないか。

というか、大津皇子は葬儀日程を知っていたはずだから、葬儀の終わる30日までには都に戻るような計画と立てたとも考えられる。
(後に大津皇子に連座して逮捕された従者のうち、新羅僧行心と帳内の礪杵(土岐)道作の二人だけが罰せられている。これから考えて伊勢詣でに同行したのは土岐道作であったと推理しておこう。)

※注3:「〜(て)や、〜む」の用例について
<巻一・129歌>
大津皇子の宮侍石川女郎の、大伴宿祢宿奈麻呂に贈る歌一首(女郎、字を山田郎女と曰ふ。宿奈麻呂宿祢とは、大納言兼大将軍卿の第三子なり)
129歌:
「古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと(一に云ふ、恋をだに忍びかねてむ手童のごと)」

訳文1(新日本古典文学大系本):
「年老いた婆さんでありながら、これほど恋に溺れるものか、まるで子どもみたいに(一本に「恋ぐらい我慢できないものだろうか、まるで子どもみたいに」と言う)」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「年老いた おばあちゃんで これほどまでも恋に溺れることか まるで幼子のように(また「恋ぐらい 辛抱できないものか 幼子のように」)」

この用例での「や」は反語。「〜む」は、確信の推量で、「〜てや〜む」は一種の仮定的確信の推量ということができる。意味は「たとえ〜であっても、きっと〜するでしょう」である。あるいは少し意味を強めて「たとえ〜であっても、〜きっとそうしなければならないだろう」「たとえ〜であっても、〜きっとそうせざるを得ないでしょう」等で、使い方としては間接話法、仮定的婉曲話法の範疇に入る。

したがって「古りにし嫗にしてや〜む」は「たとえ年老いた嫗であっても、きっと〜せざるを得ないでしょう」の意味になる。もちろん「年老いた嫗」=作者(自分)=石川郎女のことである。

129歌:
「古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと(一に云ふ、恋をだに忍びかねてむ手童のごと)」
訳文:
「たとえ年老いた嫗であっても、きっとこのように深く恋に陥ることでしょう。まるで幼子のように(一云:きっとこのように恋を忍びがてずにいることでしょう。まるで幼子のように)」
一云歌意訳文:
「私は年老いた嫗ですが、手童(幼児)のように嬉しさを隠せないでおります(大変感謝しております)」

この歌は石川郎女と大伴宿奈麻呂の間で交わされた(老いらくの?)相聞歌と解釈されているが違う。一種の礼状で、宿奈麻呂が大伴坂上郎女を娶ったこと(娶ってくれたこと)に対して感謝の気持ちを伝えたものである。(大伴坂上郎女は石川郎女の愛娘で最初に穂積皇子に嫁したが寡婦になっていた)

おそらく大伴坂上郎女から子供ができたことを告げられての礼状だろう。(子供は大伴坂上大嬢で後に大伴家持の妻になった)だからむしろ一伝の(「一伝」は「原作」の意味である)「恋を忍びがてずにいます、幼子のように」=「子どものように、うれしさをじっと隠しておくことができません」の方が真情に近くここでは適切であろう。

歌は「(自分=石川郎女は)手放しで喜んでいる」との謝意を宿奈麻呂に伝えたものである。してみれば、「幼子が深く恋におちいる」という改作は少々不自然に聞こえる。思うに当歌を恋愛上の相聞歌と勘違いしての別人による改作だろうが、改悪になってしまった一例である。だいたい相聞歌としても、「深く恋に沈む手童(幼児)」だなんて、まあ昔の子供は早熟だったのかも知れないがおかしいだろ。というよりも、これではせっかくの恋も(悪い)冗談と受け取られないか。

※注4:「磐余の池」について
日本書紀に「磐余の池」に関する記述がある。(古事記には記載がない)
401年(履中二年):11月、磐余池を作る
402年(履中三年):11月、磐余市磯池に両枝船を泛べる
である。

ところでこの「磐余の池」の場所は未だ特定されていない。興味深いのは履中三年の「磐余市磯池に両枝船を泛べる」の記事である。私は、「磐余の池に船を浮かべる」は皇位継承の寓意(したがって、「磐余の池」は架空の存在である。)、と考える立場である。すると「磐余池に両枝船を泛べる」とは両統並立の意味になる。

日本書紀・履中紀の主たる記事は、同母弟の住吉仲皇子の反乱事件である。もしかしたら履中紀は、実際は去来穂別(履中天皇)と住吉仲皇子との両統並立期だったのではないか。このように考えると、宋書の倭の五王のうち、讃=仁徳天皇、珍=反正天皇がほぼ比定できるのに対し、履中紀に相当する大王が漏れていることも、国内が安定していなかったためと説明がつく。この期間が記紀に履中紀として立てられたのは、後代去来穂別の子孫の飯豊青皇女や顕宗・仁賢天皇が皇位に係わったからと推量される。

※注5:416歌の作者について
ところで「池魚」には「池の中の魚」と「罪のないのに災いを受けること、まきぞえをくらうこと」の意味があるという。これは中国の故事で「捨てられた宝を探すために池をさらったところ魚が死んでしまった」に由来するらしい。これは魅力ある説話で、私には題詞の「池陂」はこの「池魚」を導こうとしているのではないかとの思いが強まってくるのである。

実は「池陂」の「陂」は、底本では「般」を見せ消しにした「陂?」(?は変換不能文字)であるという。こじつけになるが「陂?」とは「包みのある?」で「歔(きょ)」の字を導こうとしているのではないかと考えるのである。「歔(きょ)」の意味は「すすり泣く」で音は「魚」である。とすれば「池陂」→「池陂?」=「池歔」=「池魚」で「冤罪ですすり泣いている(人)」の意味になる。

あるいはヒントは後注にあるかもしれない。後注の「右は、藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり」も不可解な記述である。何故ここに「藤原宮の」が入るのか?だいたい藤原京が建設され遷都が行われたのは、694年(持統八年)12月である。かたや大津皇子事件は、10年近く前の、686年(朱鳥元年、持統称制元年)9・10月であり、当時は浄御原宮が正しい。

「右は、藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり」とは何を言わんとしているのか?歌は藤原宮で創作されたということか?もしこの記述が、「歌の創作は藤原宮の大宝元年10月」+「大津皇子事件は浄御原宮の朱鳥元年10月」の二つのことを伝えようとしているととれば、歌は大宝元年(701年)の冬10月の作品となる。とすればこうした作品を作り得る人物はほぼ比定されてくるだろう。

興味深いのは、701年12月に大伯皇女が薨じていることである。もし皇女が関係しているとすれば、題詞の「御作歌」も説明がつくことになる。すると大伯皇女の仮託歌か?となれば「陂?」は「はく(伯)」か?では真の作者は?当然「磐余の池」の秘密を知っている人物?空想は広がるばかりで収拾がつかない。

2007.12.15 M.A.

<参考文献>
一般書:
1.「万葉集全講」  武田祐吉  明治書院  1955
2.「萬葉集」  日本古典文学大系  岩波書店  1957.05.06
3.「古代歌謡集」 日本古典文学大系 岩波書店 1957.07.05
4.「万葉集評釈」 窪田空穂 角川書店 1966.04.15
5.「記紀歌謡」 日本詩人選1 益田勝実 筑摩書房 1972.05.25
6.「斎藤茂吉全集  評釈」  斎藤茂吉  岩波書店  1973.09.13
7.「萬葉集私注」  土屋文明  筑摩書房  1976.03.05
8.「万葉集」 古典文学解釈講座  古典文学教材研究会編 管野雅雄監
  三友社出版 1994
9.「萬葉集」 新編日本古典文学全集 小学館  1994.05.20
10.「万葉集釈注」  伊藤 博  集英社  1995
11.校訂「萬葉集」  中西 進  角川書店  1995.01.31
12.「万葉集」  和歌文学大系1  稲岡耕二  明治書院  1997
13.「日本書紀」 新編日本古典文学全集 小学館 1998.06.20
14.「萬葉集」  新日本古典文学大系  岩波書店  1999.05.20
15. セミナー「万葉の歌人と作品」  企画編集/神野志隆光、坂本信幸 和泉書院    1999.05.30

個別書:大津皇子事件関連
万葉集1 日本文学大成 稲岡耕二編 日本文学研究大成刊行会2001.10.24
「大伯皇女と大津皇子」神堀 忍