|
HH310271.DOC 【名歌鑑賞19:大津皇子事件1(伊勢神宮参詣とその死)】 2007年12月15日 森 明 <巻一・相聞:105歌・106歌> <巻三:416歌> 106歌: 大津皇子の死されし時に、磐余の池の陂に流涕して御作りたまひし歌一首
だが皇位継承となると草壁皇子(天武天皇と鵜野讃良皇女の子息)に一歩譲らなければならなかった。それは大田皇女が早く薨じてしまっていたこと、草壁皇子が一歳の年長ですでに皇太子に指名されていたこと、そして何よりも太子の母親である鵜野讃良皇女が時の皇后として権力を振るっていたからである。しかし天武天皇の期待は大津皇子にあったようだ。21歳になると直ちに「朝政を聞か」せている。 確かに、少なくとも日本書紀に記された事績を見る限り、大津皇子登壇(天武十二年2月)以降に、天武朝の治績ともいえる数々の施策が矢継ぎ早に施行されている。それから判断しても、天武天皇の後ろ盾によった大津皇子の颯爽たる活躍が印象付けられるのである。この時期草壁太子の動向は殆んど伝えられていない。病弱のため朝議への出席さえもままならなかったのだろうか。事件は、天武天皇の死の直後に発生した。 題詞によれば、105・106歌の二首は、大津皇子が「竊(ひそかに)」伊勢斎宮を詣でたときの、当時の伊勢斎宮であった姉の大伯皇女の歌であるという。「竊(ひそかに)」は、「天皇に内密で」の意味である。問題は大津皇子が何時、何故秘密裏に伊勢神宮詣でを行ったのか(行わなければならなかったのか)?ということになる。 題詞には「姉に会いに行った(来た)」とは書いていない。だから、皇子の主目的はあくまでも神宮参詣だったのだろう。ではその理由は?歌から、大津皇子周辺の、当時の緊迫した情勢を窺い知ることができる。 <105歌の解釈>
「佐夜深而(さ夜更けて)」は、一般に「夜は更けて」と解し、大津皇子が夜の闇の中に帰っていく場面を想像するのであるが、実際上、深夜の山行きは殆ど不可能であったとことを考えると、ここは、「心の不安の闇が深まって」「心配で気持ちが真っ暗になって」の意味が含まれると解釈するべきだろう。 また、「暁露に立ち濡れる」も(美しい言葉であるが)、実際に「夜中立ち尽くして朝露に濡れた」というのではなくて、「一睡もできず、ずっと泣き明かした」の意ととるべきである。「立ち〜」とは、「立ったままで」の意味であるが、接頭語的用法では「ずっと〜」のように意味を強める言葉でもある。ここは「詩的表現あるいは詩的喩え」なので直訳せずに美しい意訳が求められるところ。 105歌:「我が背子を大和に遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし」 大伯皇女はしかりつけるようにして弟を都に送り返した。だが心底から湧き起こる不安と恐怖に身を苛まれるのであった。歌はやはり天武天皇崩じた直後の急展開する政治状況のもとで詠われたと考えるべきだろう。「大和に遣るとさ夜更けて」には皇女の暗澹とした恐れが見事に表現されている。 <106歌の解釈>
「いかにか君がひとり越ゆらむ(如何君之 獨越武)」の「如何(いかにか)」を、定訳では「どんな気持ちで」。「独り越ゆらむ(獨越武)」を、「(今)一人で越えていることやら(いるのでしょうか)」と訳するのであるが、「如何(いかにか)」を「どのようにして」「どのような方法で」ととり、「(これから)どのようにして一人越えするのでしょうか」と解したい。 106歌:「ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」 「いかにか君がひとり越ゆらむ」の「独り越え」の言葉の中にすでに(政治的に?)孤立している大津皇子の姿を読み取ることができる。また「いかにか」は反語で「できないだろう」を導く。ここに最早打開の不可能(最悪の事態)を予感する皇女の絶望を読み取ることもできる。 <大津皇子の伊勢神宮詣での目的と時期> 以下に天武天皇の葬儀日程を日本書紀から抜粋して見てみよう。 この中で注目を引くのは9月24日の記事である。日本書紀は簡単に「大津皇子が皇太子に謀反しようとした」とだけ記す。だからこのただならぬ事件の内容については全く分からない。ただ、それまでの記事は葬儀準備が主体になっているから、この24日の「もがり」が皇族たちの集う葬儀の、最初の公式行事ではなかったろうか。 事件はその時に発生した。「謀反」というと不穏な言葉であり、何か計画的反抗であったようにも聞こえてくる。もしこの言葉どおりだったならば、即刻その場で大津皇子は誅殺されても文句を言えないだろう。だが、それは衆目の事件であったろうこと、この時すぐに逮捕・賜死に到らなかったことから推測しても、些細で(諍いとも言えないような勘違い、ミス、僭越行為等のような)偶発的な事件だったのではないか。 ただこの事件で、大津皇子が何の咎も受けなかったとは到底考えられない。思うに、即刻出仕停止、自宅謹慎のような処分を受けたのではないかと私は推測するのである。そして恐らく、大津皇子を排除したまま、皇后および皇太子の主導の下で、天皇葬儀は粛々と進められたのだと。(※注1:日本書紀の記事) かくして自宅に謹慎を余儀なくされ、(葬儀に列席もできず、)孤立に追い込まれた焦りが、大津皇子に伊勢神宮詣でという奇策を思いつかせたと考えられないだろうか。もう一度先の年表を見て欲しい。皇子が自宅に逼塞したとすれば、9月25〜9月30日の間が空白の期間になる。だから、大津皇子の言い分は、葬儀に出られないから伊勢神宮(=亡き天皇の御魂)にお参りした、ということだったのかもしれない。(※注2:飛鳥−伊勢神宮の距離およびルート) すると次のような推測が可能だろう。 しかし、予告もなしに突然現れた弟の、そのただならぬ様子に皇女は驚愕したに違いない。そして、かねて風聞していた、皇后や皇太子との軋轢を直感して不安に襲われたのではないだろうか。第一危険ではないか。許可を得て来たのか?それに今は重要な父の葬儀の真っ最中のはずである。それを無断でその場を離れて遠く伊勢神宮に詣でるなど、誰が見ても異常であまりにも非常識な行動であった。 大津皇子は、ほとばしるように危機の実情と無実を訴えたのだろうか。だがもちろん、斎宮の身に過ぎない大伯皇女のできることといえば、愚痴の聞き役と慰め役だけしかなかった。皇女は、無謀な行動を戒め、皇后への謹慎と謝罪を諭すのが精一杯だったのではないだろうか。後は、ひたすら神に加護を祈るしかなかった。 だいたい皇子の伊勢詣で自体、あくまでも突発的な思い付きによる直情怪行のような感じがする。もし、大志を抱き、大勢の支援者に囲まれていたなら、こうした無謀な行動を控えたのではないか。代理の者を使わしても良かった。実際、この行為で自分の個人的な欲求を満足させることができたとしても、政治的にプラスする何物をも見出すことはできない。これでは敵の思う壺といっても過言ではないだろう。 (次のようにも考えられる。その後の経過を知っている我々は(あるいは日本書紀によって与えられた情報から)、皇子の孤立やその直情怪行、あるいは切羽詰った謀反の可能性等を、事件に結び付けてあれこれ思い巡らすのであるが、(もともと謀反など全く身に覚えがない)当の本人はもっと暢気に構えていたのかも知れない。無防備な行動がそれを証明しているともいえる。しかし大伯皇女は直感的に事の重大さ・危険を感じ取ったのだと。大津皇子は、よく言えば闊達・豪放、悪く言えば猪突・奔放で、言わばまだ荒削りの(隙だらけの)青年であった。) <大津皇子の刑死> 大津皇子の死されし時に、磐余の池の陂に流涕して御作りたまひし歌一首
定説では「(ももづたふ)磐余の池」の「(ももづたふ)」は、「磐余」の枕詞とされる。また「磐余の池」は日本書紀・履中紀二年に「磐余池を作る」とあるのと同じ場所だろう。「磐余」は神日本磐余彦(神武天皇)の名前にもあるように、古代王権の発生の地でもあるから、「古くから伝わる由緒ある池」というような意味が込められているとも考えられる。 問題は「今日のみ見てや」の解釈である。どうもうまく訳出できない。「〜てや〜む」には、石川郎女の歌(129歌)や額田王の山科御陵退散歌(155歌)等の用例があるから参考にして見よう。(※注3:「〜(て)や、〜む」の用例について) すると「てや〜む」は仮定の確信的推量で、一種の間接話法であることが分かる。ただそうした文法と、歌の「今日のみ見てや」の解釈がなかなかうまく整合しない。ここでは「たとえ見たとしても今日限りと」あるいは「きっと今日限りと見て」ぐらいに訳しておこう。「のみ」は限定の副助詞である。 もう一つの問題は「雲隠る」の表現である。前述したように「雲隠る」とは「死ぬ」の敬避語である。これを皇子自身の自尊語と読む解釈もあるが、やはり皇子自らが、自分の死を「雲隠る」とは言わない、と私は判断したい。 416歌:「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」 この解釈では、歌は大津皇子の死に臨む様子を思い遣った哀悼歌ということになる。 ただどうだろう。一般に、このように事象のみで表現される歌は、詠っている人物(あるいは歌の主人公)の感情は読者の想像に委ねられる。しかし、これでは余りにも淡々とし過ぎていないか。ここでイメージされる大津皇子は、すでに死を達観した人物のように見える。少なくとも題詞に言う、「流涕して作歌」とは合致していない。 屁理屈を言うならば、この歌の人物が名残惜しく(?)見ている対象は、「磐余の池の鴨」でなければならない必然は全くない。それこそ山でも川でも木でもなんでも良いことになる。歌は実際の情景に即して詠われたのかもしれないが、哀悼歌にしては物足りない感じで、大津皇子の心情を表現できていない、との思いがつのるのである。これでは例えば普通の、自然死に直面した人物への哀切歌としても成り立つだろう。 やはり「磐余の池に鳴く鴨」には何らかの寓意が込められていると見るべきである。「磐余」は初代の天皇である神日本磐余彦(神武天皇)の名前に由来する。してみれば皇位継承争いの渦中にあった大津皇子の立場からしても「磐余の池の鴨」には特別の意味が込められていると考えざるを得ない。(※注4:「磐余の池」について) したがってこの「磐余の池」は「皇位」の隠語として使われている可能性がある。また「鴨(かも)」を「〜かも知れない」の意ととれば、「磐余の池に鳴く鴨(かも)」とは、「皇位継承の可能性」「皇位継承の、もしかの可能性」のように解釈できるだろう。 416歌:「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」 どうだろう。先のA1の解釈と比べれば、やはりこの解釈の方が一歩それらしいだろう。草壁太子と並んで大津皇子が次期皇位の最右翼の存在であったことは衆目の一致するところ。この解釈では、もう少しで皇位に就けたのに妨げられ、大魚を逸した皇子の無念さを思い遣った歌ということになる。 ただどうか。この無念さは僅かのところで念願を果たせなかった者の無念さである。この解釈は、皇子自身が皇位を望んで画策したこと、つまり何らかの謀反が存在したことに繋がる可能性がある。とすれば歌は日本書紀の記事を肯定する(なぞった)立場から作られていることになる。 しかし、これは大伯皇女の歌から想定される大津皇子の姿とはかけ離れている。大津皇子は何が何でも皇位を望んでいたのか?あるいは本当に謀反の意思があったのか?もし全くの事実無根だったとしたら?皇子の気持ちはこの解釈とは全く違った、別の悔しさになるのではないか。 <歌のもう一つの解釈> この場合は、発句の「百伝ふ(ももづたふ)磐余」は、「百伝う((過去からずっと伝わる)磐余(場所)」ではなくて、「百伝う(未来永劫に伝わる)謂われ(伝承)」=「ずっとこれから続く伝承」と読むことができる。 また「鴨」は、動物の「鴨」(これには「餌食」「獲物」のような意味もあるか?)の他に、疑問の助詞の「かも」の掛詞で「嫌疑」「疑惑」「容疑」の隠語のように読める。「鳴く」は「泣く」「無く」等でもある。 こうした観点から改めて歌を読んでみると「百伝ふ磐余(いわれ)の池で鳴く鴨(かも)」は「ずっとこれから、伝承(の池)で泣く鴨」あるいは「ずっとこれから伝承される、謂われ無い嫌疑」のように受け取れる。 問題は「今日のみ見てや」の意味である。この場合の「のみ」は限定の「限り」というよりは強調の「こそ」とも取れる。すると「見てや〜む」の「や」は、反語の「や」ではなくて、呼びかけの間投助詞の「や」ということになる。 すると「見てや〜む」は、前述した仮定の確信推量の用法ではなく、読者に対する訴えで「(読者が歌を読んだ今日こそは)きっと(真実を)見てほしいと〜む」「(読者が歌を読んだ今日こそは)必ず(真実を)見てくださいよと〜む」の意味と解釈できる。 416歌:「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」 なんと作品は大津皇子の無実を訴える歌になるではないか。歌は哀悼歌というよりは、何者かによる皇子の代弁歌の様相を呈している。問題は歌の解釈が、前述した(A)と(B)とで全く違った意味になることである。どちらが本当なのか?まあ両方の意味が掛けられているとしても、この(B)の解釈を逃したら正解とは言えないだろう。 もう一度大伯皇女の二つの歌を思い出して欲しい。「大和に遣る」「秋山を一人越える」が全てを物語っているのではないか。これらの言葉からは、断固として謀反を企図している意気軒昂な大津皇子の姿を読み取ることはできない。 むしろ、天武天皇の死後の急転直下の環境変化と、思いもよらぬ皇后のお叱り(怒り?)を食らい、状況を正しく把握できないまま、冷静を欠いている皇子の姿が浮かんでくる。歌からは計画的な謀反の実態を全く見出すことができない。416歌はやはり皇子の無実の無念を訴える歌と見て間違いないのではないのか。 (だいた大津皇子に謀反の必要があったのだろうか?状況から判断しても、黙っていれば自然に手に入る可能性のある皇位を、わざわざ無理をして求める気持ち(行為)があったとは何とも考え難い。そうした場合の戦略は職務を全うしながらじっと待つことだろう。思うに一方的に仕掛けられた喧嘩(罠)ではなかったか?) さて、歌は大津皇子の自作歌ではなかった。とすれば問題は、誰が何時、歌を作ってここに置いたのか?である。題詞には「磐余池陂流涕御作歌」とある。とすれば「池陂」なる人物が作ったとも読める。しかしこの「池陂」なる人物が皆目見当がつかないのである。(※注5:416歌の作者について) もう一つ問題が残されている。大津皇子の帰京後(おそらく9月30日)、10月2日に逮捕、そして翌3日には刑死と事があわただしく執行されている。このわずかな期間に何が起こったのか? である。 <磐余(いわれ)についての提言> そうとなれば、記紀に使われている「磐余(いわれ」(古事記では伊波礼)も再考しないわけには行かないだろう。例えば、これまで神日本磐余彦(神倭伊波礼毘古)を「神である、倭(日本)の磐余の地に最初に即位した日子(天皇)」と読んできた。しかしそれは誤りで「伝神倭彦」「神倭と言われる日子(天皇)」と改めなければならないことになる。 これは何を意味するか?神日本磐余彦(神倭伊波礼毘古)とは実在の人物ではなく、その「非在」「架空」を伝えようとする記紀編纂者の苦心の命名と見ることもできるきるのではないか。 日本書紀および古事記中に、「磐余(いわれ)」の名前が冠されている記事はざっと、 興味深いのは、いずれもが実在に疑いがもたれている人物ないしは宮都ということで共通している。再検討の余地があるだろう。 本稿 了。次回【名歌鑑賞20】
とすれば、9月24日の時点ではあくまでも「謀反の嫌疑」に過ぎなかった。処分が「自宅逼塞」程度であったと推理する所以である。 ※注2:飛鳥−伊勢神宮の距離およびルート というか、大津皇子は葬儀日程を知っていたはずだから、葬儀の終わる30日までには都に戻るような計画と立てたとも考えられる。 ※注3:「〜(て)や、〜む」の用例について 訳文1(新日本古典文学大系本): この用例での「や」は反語。「〜む」は、確信の推量で、「〜てや〜む」は一種の仮定的確信の推量ということができる。意味は「たとえ〜であっても、きっと〜するでしょう」である。あるいは少し意味を強めて「たとえ〜であっても、〜きっとそうしなければならないだろう」「たとえ〜であっても、〜きっとそうせざるを得ないでしょう」等で、使い方としては間接話法、仮定的婉曲話法の範疇に入る。 したがって「古りにし嫗にしてや〜む」は「たとえ年老いた嫗であっても、きっと〜せざるを得ないでしょう」の意味になる。もちろん「年老いた嫗」=作者(自分)=石川郎女のことである。 129歌: この歌は石川郎女と大伴宿奈麻呂の間で交わされた(老いらくの?)相聞歌と解釈されているが違う。一種の礼状で、宿奈麻呂が大伴坂上郎女を娶ったこと(娶ってくれたこと)に対して感謝の気持ちを伝えたものである。(大伴坂上郎女は石川郎女の愛娘で最初に穂積皇子に嫁したが寡婦になっていた) おそらく大伴坂上郎女から子供ができたことを告げられての礼状だろう。(子供は大伴坂上大嬢で後に大伴家持の妻になった)だからむしろ一伝の(「一伝」は「原作」の意味である)「恋を忍びがてずにいます、幼子のように」=「子どものように、うれしさをじっと隠しておくことができません」の方が真情に近くここでは適切であろう。 歌は「(自分=石川郎女は)手放しで喜んでいる」との謝意を宿奈麻呂に伝えたものである。してみれば、「幼子が深く恋におちいる」という改作は少々不自然に聞こえる。思うに当歌を恋愛上の相聞歌と勘違いしての別人による改作だろうが、改悪になってしまった一例である。だいたい相聞歌としても、「深く恋に沈む手童(幼児)」だなんて、まあ昔の子供は早熟だったのかも知れないがおかしいだろ。というよりも、これではせっかくの恋も(悪い)冗談と受け取られないか。 ※注4:「磐余の池」について ところでこの「磐余の池」の場所は未だ特定されていない。興味深いのは履中三年の「磐余市磯池に両枝船を泛べる」の記事である。私は、「磐余の池に船を浮かべる」は皇位継承の寓意(したがって、「磐余の池」は架空の存在である。)、と考える立場である。すると「磐余池に両枝船を泛べる」とは両統並立の意味になる。 日本書紀・履中紀の主たる記事は、同母弟の住吉仲皇子の反乱事件である。もしかしたら履中紀は、実際は去来穂別(履中天皇)と住吉仲皇子との両統並立期だったのではないか。このように考えると、宋書の倭の五王のうち、讃=仁徳天皇、珍=反正天皇がほぼ比定できるのに対し、履中紀に相当する大王が漏れていることも、国内が安定していなかったためと説明がつく。この期間が記紀に履中紀として立てられたのは、後代去来穂別の子孫の飯豊青皇女や顕宗・仁賢天皇が皇位に係わったからと推量される。 ※注5:416歌の作者について 実は「池陂」の「陂」は、底本では「般」を見せ消しにした「陂?」(?は変換不能文字)であるという。こじつけになるが「陂?」とは「包みのある?」で「歔(きょ)」の字を導こうとしているのではないかと考えるのである。「歔(きょ)」の意味は「すすり泣く」で音は「魚」である。とすれば「池陂」→「池陂?」=「池歔」=「池魚」で「冤罪ですすり泣いている(人)」の意味になる。 あるいはヒントは後注にあるかもしれない。後注の「右は、藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり」も不可解な記述である。何故ここに「藤原宮の」が入るのか?だいたい藤原京が建設され遷都が行われたのは、694年(持統八年)12月である。かたや大津皇子事件は、10年近く前の、686年(朱鳥元年、持統称制元年)9・10月であり、当時は浄御原宮が正しい。 「右は、藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり」とは何を言わんとしているのか?歌は藤原宮で創作されたということか?もしこの記述が、「歌の創作は藤原宮の大宝元年10月」+「大津皇子事件は浄御原宮の朱鳥元年10月」の二つのことを伝えようとしているととれば、歌は大宝元年(701年)の冬10月の作品となる。とすればこうした作品を作り得る人物はほぼ比定されてくるだろう。 興味深いのは、701年12月に大伯皇女が薨じていることである。もし皇女が関係しているとすれば、題詞の「御作歌」も説明がつくことになる。すると大伯皇女の仮託歌か?となれば「陂?」は「はく(伯)」か?では真の作者は?当然「磐余の池」の秘密を知っている人物?空想は広がるばかりで収拾がつかない。 2007.12.15 M.A. <参考文献> 個別書:大津皇子事件関連 |