HH512111.DOC

【名歌鑑賞20:大津皇子事件2(河島皇子の関与)】

                                           森 明

<大津皇子事件における河島皇子の関与>
日本書紀で見る限り大津皇子事件の真相は良く分からない。ところが懐風藻に重要な情報が記されている。それによれば、大津皇子と河島皇子とはもともと莫逆の契りを交わしていたという。にもかかわらず、大津の謀反発覚はその河島皇子の密告によるというのである。(※注1:懐風藻「河島皇子伝」

真相は今となっては不明と言うほかはない。しかし懐風藻が成立した時代(751年、天平勝宝三年)には、そうした伝承がほぼ通説となっていたことがうかがえる。
万葉集には河島皇子の歌が一首収録されている。もしかしたらこの歌が何らかの事情を伝えているかもしれない。

<巻一:34歌>
<原文>
幸于紀伊國時川嶋皇子御作歌 或云山上臣憶良作
34歌:
「白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃経去良武 一云 年者経尓計武」
しらなみの はままつがえの たむけぐさ いくよまでにか としのへぬらむ (一云う としはへにけむ)
日本紀曰 朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<釈文>
紀国に幸したまひし時に、川嶋皇子の御作りたまひし歌。或いは云く、「山上臣憶良の作なり」といふ
34歌:
「白波の浜松が枝の手向け草幾代までにか年の経ぬらむ(一に云ふ、「年は経にけむ」)
日本紀に曰く、「朱鳥四年庚寅の秋九月、(持統)天皇、紀伊国に幸したまひき」といふ。

訳文1(新日本古典文学大系本):
「白波のうち寄せる、浜辺の松の枝に掛けられた手向けの幣は、幾代くらいまで年が経ったのだろう(一本に「年を経たものだろう」と言う)」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「白波のうち寄せる 浜辺の松の枝の 手向けの品は 何年くらい 年が経ったものなのだろう(また「年を経たものだろう」)」


後注に「日本紀曰 朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也」とあるように、この歌が作られた紀伊行幸とは、690年(持統四年)9月13日〜24日のそれである。持統天皇はこの年の正月に即位しているから、その祝賀を兼ねた遊行であったと考えられる。

ただ、この時の行幸期間は10日間ほどで短く、紀伊行幸の定番であった「牟蘆の湯」までは行っていないと推定される(当然岩代にも)。すると行き先はせいぜい紀伊海岸止まりだから、歌は紀伊の和歌の浦付近で詠まれたということになる。(※注2:690年(持統四年)の紀伊行幸について

(ところで、この34歌には一云歌が付属している。万葉集の「一云」は「原作」の意味である。がこの一云歌と殆ど同じ歌が、巻九・1716歌として別途に収録されていることが分かっている。これはどうした理由からだろう。ここでは複雑化を避けるために、本歌(34歌)と一云歌(1716歌)とを個別に考察することにしよう)

<34・本歌の解釈>
「濱松之枝乃 手向草」の「手向草」とは、辞書には「(神仏に)供えた品物」とあり。「草」は「具さ」「幣」で「供え物」の意味である。そしてその「供え物」が「松の枝」ということは、やはり「ま(待)つ」の神願と考えるのが普通だろう。

(歌が紀伊の和歌の浦で詠まれたとすれば、)おそらくそれは、海へ出発した親しい知己への「無事の帰還」の祈りを込めた、何者かによる「手向け草」だったのであろう。紀伊津は、古来瀬戸内海航路や伊勢湾・東国航路のような、長期航海の重要拠点でもあったらしい。そして、その「手向け草」がそのままになっているということは、まだ帰還の祈りが叶えられていない状態を意味していることになる。

34・本歌:「白波の浜松が枝の手向け草幾代までにか年の経ぬらむ」
訳文A:
「白波の打ち寄せるあの浜の、松の枝の手向け草(待つの祈念)は、(これからも)幾代まで年を重ね続けるのであろう(か)」
=「帰還を祈って、捧げられた松の枝の幣(神への待つの祈り、神饌)は、(叶えられないまま)これから幾年年を経るのだろうか」

歌は、どんな理由か知らないが、長旅に出たまま帰還を果たせないでいる者とそれを待ち続ける者への、同情と哀切の歌になっている。行幸の途上で目にした場景なのであろうが、河島皇子のやさしい思いやりを感じさせる作品である。

歌は一読、旅の途上で詠まれた普通の感興歌のように聞こえてくる。しかしだ、歌が紀伊行幸時の作品とされ、ましてや「浜松の枝」などと意味深長な語句を目にしては、(懐風藻の記事を知っている以上)どうしても(B)有馬皇子事件や(C)大津皇子事件に絡めて歌を解釈したくなるのも人情というものだ。歌はやはりこの二つの視点からの検証が欠かせないだろう。

(B)有馬皇子事件に絡めて歌を読む
「紀伊行幸」、「松の枝」ともなれば道具は揃っている。有馬皇子事件に絡めて歌を読まないわけには行かない。この場合、「松の枝」はかの有馬皇子が旅の無事を祈願して結んだ「松の枝」とういことになるだろう。

34・本歌:
「白波の浜松が枝の手向け草幾代までにか年の経ぬらむ」
訳文B:
=「無事の帰還を祈って、(有馬皇子によって)神に捧げられた松の枝の神饌(供え物)は、((叶えられないまま)これから幾年時を経るのだろうか」
となる。

しかしこの解釈は、次の理由で有馬皇子事件とは適合しない。
(1)厳密に言えば、有馬皇子は「岩代の神」に神饌をささげ、「岩代の松の枝」を結んだのであり、34歌のように「松の枝の手向け草」はしていない。
(2)有馬皇子は一旦釈放され、帰路「岩代の松」に再会している(一応帰還の願は叶えられている)
(3)歌はあくまでも「白浪の浜松」であって「岩代の松」ではない。(このときの紀伊行幸は岩代まで行っていないと考えられる)
等である。
歌は似てはいるが(あるいは似せてはいるが)有馬皇子事件とは関係ない作品と判断していいだろう。

(C)大津皇子事件に絡めて歌を読む
もし懐風藻が言うように、河島皇子が大津皇子の「莫逆の友」であったとしたら、この頃友を失った失意の状況にあったはずである。その上さらに密告が事実であったとしたら、皇子の心境はもっと複雑で、良心の呵責に苛まれていたか、場合によっては人々から非難の目で見られていた可能性がある。とすれば歌にその何らかの心情が反映していいはずである。

しかし34歌には(解釈Aには)、それに掛かる心境を推し量る意味を何一つ見出すことができない。というか大津事件に絡めて歌を適切に訳出することができない。(だいたい死んだ者を待つか?)とすればこの歌は大津皇子事件とは一切無関係ということになる。それともあったのだが歌は関係ないのか?あるいは懐風藻の記事そのものがガセネタなのか?

<34・本歌のもう一つの解釈>
初期万葉歌には、多く真意が隠されている場合がある。そして、34歌の次に置かれている阿閉皇女(後の元明天皇)の35歌が、まさに大津皇子事件の一方の当事者である草壁皇子の回想歌になっていることを思えば、その直前に配置された河島皇子のこの34歌も、当該事件に絡んだ作品であることを伝えようとする、編集者の作為とも見て取れるのである。(※注3:阿閉皇女の35歌について

やはり歌にはもっと別の意味が込められていると考えるべきだろう。本来は邪道かもしれないが、改めて詮索の目で歌を見直すと、新たな歌の姿が現れてくる。

実は「手向け(たむけ)」は「矯むけ(たむけ)」と読むことが可能である。そして「矯(た)むけ」には「間違いを糺す」の意味がある。すると容易に次のような連想が可能だろう。「白浪の浜松の枝」の「白浪(しらなみ)」とは「知らな身」ではないのか?

歌は次のように豹変する。
34・本歌:
「知らな身の浜松の枝の矯(た)むけ草幾代までにか年の経ぬらむ」
訳文B:
「知らない身の(潔白の身の)、嫌疑を糺すための手向けの松の草(待つの願い)は、(叶えられないまま)いつまで年を経るのだろうか」
=「潔白の身の、嫌疑を糺そうとする(私の)祈願はいつになったら叶えられるのだろうか」

なんと、これまた無実を訴える歌になっているではないか。やはり河島皇子は大津皇子事件に深く係わっていたとみて間違いなさそうである。

ただ問題はある。ここで歌の言う(河島皇子の言う)「糺したい嫌疑」とは一体何か?ということである。
二つ考えられるだろう。
(イ)一つは、親友であった「大津皇子の謀反の嫌疑」
(ロ)もう一つは、(懐風藻の記述を真とすることになるが)、河島皇子自身の「密告したという嫌疑」
である。

どちらか?まぁ両方の意味が含まれていると見ておくべきだろう。大津皇子も河島皇子もいずれも「謂われ無き嫌疑=無実」であったと。もし河島皇子が大津皇子の無実を売ったのだとしたら、自分自身が無実ではあり得ない(このような歌は詠えない)はずである。とすれば、この時点(持統四年)で河島皇子は大津皇子を売ったという噂に苦しめられていたことになる。

<河島皇子の事跡>
懐風藻は河島皇子の密告を伝え、歌では無実を主張している。真実はどちらか?日本書紀によれば、河島皇子は天智天皇と色夫古娘(忍海造小竜の女)の皇子である。天智天皇の男子としては建皇子(蘇我造媛)、大友皇子(伊賀采女宅娘)に続く第三皇子に当たる。(尚、懐風藻は第二皇子と伝える)弟に数歳年下の志貴皇子(越道君郎女)がいる。

年賦:河島皇子関連
657年(斉明三年)、誕生?(懐風藻による推定、1歳)
672年(天武元年)、壬申の乱勃発(16歳)
679年(天武八年)
    5月、天皇、皇后、六皇子吉野会盟(河島皇子第四位、23歳)
681年(天武十年)
    2月、草壁皇子立太子
    3月、「帝紀および上古諸事の記定」の総裁に就任(25歳)
683年(天武十二年)
    2月、大津皇子初めて朝政を聞く
686年(天武十五年、朱鳥元年、持統元年)
    8月13日、各皇子に増封。(400戸/草壁、大津、高市。100戸/河島、忍壁)
    9月 9日、天武天皇崩御
   10月 3日、大津皇子長田の家で死を賜う(大津皇子24歳)(416歌)
689年(持統三年)
    4月、草壁太子薨去(草壁皇子28歳)
690年(持統四年)正月、持統天皇即位
    9月13〜24日、紀伊行幸(河島皇子34歌?)
691年(持統五年)
    正月、河島皇子百戸加増(他に高市皇子二千戸、穂積皇子500戸)
     9月9日、河島皇子薨じる(懐風藻35歳)

672年の壬申の乱では、兄大友皇子を助ける立場にあったが16歳ではまだ出仕もしておらず十分な働きは為しえなかったであろう。
679年(天武八年)5月の有名な六皇子の吉野会盟にその名前が見える(23歳)。

序列は(特別の二人を除いて年齢順であったと思われるが、)第四位と比較的優遇されている(ように見える)。これは同母の姉の大江皇女が天武妃になっていたことも有利に働いていたかもしれない。学問に長じていたらしく、681年(天武十年)天武皇子の忍壁皇子と共に「帝紀および上古諸事の記定(後の記紀?)」の編纂総裁に就任している。この点でも天武帝の信頼を得ていたと推測される。ただ年譜を見ても、河島皇子と大津皇子の関係は判然としない。

だが一つ驚くべきことに気付くだろう。河島皇子の死が、天武天皇の命日9月9日と同日になっていることである。しかも紀伊行幸(34歌)の丁度一年後の。これを一体どのように考えるべきか?偶然なのか?

国家の正史にさりげなく記録されているこの同日の死が、偶然とは私には到底思えない。やはり曰くがあると見なければならない。そしてここにこそ、大津皇子事件に係わる河島皇子の無言の言葉(訴え)が残されていると私は推量するのである。
(もしこの命日の合致が全くの偶然だとしたら以下の物語りは成立しない)

問題は河島皇子の死が
(イ)何故、天武天皇の命日と同日なのか?(を選んだのか?)
(ロ)何故、この年の死でなければならならなかったのか?
の二つである。

(イ)河島皇子の死がなぜ天武天皇の命日なのか?(を選んだのか?)
覚悟の死には目的がある。同日の死が河島皇子の自決に違いなく、それが大津皇子事件と関係があるとすれば(それ以外に原因が思いつかないが)、幾つかの理由が直ちに想起されるだろう。「お詫びのための死」、「身の潔白を明かすための死」あるいは「抗議の死」等である。

普通に考えれば、天武帝の命日の死なのだから天武天皇に対する「訴え」ということになる。しかしその「訴え」が単なる「謝罪、お詫び」とは考えがたい。もし「誣告を悔いての謝罪」ならば、本来、大津皇子に対してするべきで「大津皇子の命日と同日の死」でなければならないはずである。
(大津皇子の命日でない事は、大津皇子に対しては一切のやましさは無かったと考えなければならない。だいたい密告しておいて謝罪も無いだろう。)

すると「(天武天皇に対する)身の潔白を明らかにするための死」や、あるいは「(誰かへの)抗議の死」が想定される。だがこれも、事件からすでに三年を経過していることを考えると、今更の感じがして、唐突ともいえるその死と謀反事件とを結びつける論理に窮してしまうのである。

(ロ)何故この年の死でなければならなかったのか?
すると自然に、「何故この年の死でなければならなかったのか?」という問いに帰着する。そしてこの究明こそが事件の真相を解き明かす重要な鍵を握っている、と思えてくるのである。何故この年の死なのか?質問を変えてみよう。死の前に河島皇子に何が起こったのか?と。

日本書紀の年譜をもう一度見てほしい。河島皇子は、死の年(持統五年)の正月に「100戸の増封」を受けている。しかし普通に考えれば、褒賞は祝事であり、河島皇子が官人としても順風漫歩の道を歩んでいた証左だろう。これが理由とは考え難いのでは? いや、事実は小説よりも奇なり。もしかこの褒章こそが死の原因だったとしたら?そこにはどんな物語が隠されているか? である。

この時は高市皇子と穂積皇子と河島皇子の三人の同時増封であった。その理由は何であったか?高市皇子は前年の太政大臣の就任に対するそれだろう。穂積皇子は分かり難いが、万葉集を思い出しほしい。前年に例の但馬皇女事件があって、崇福寺関係の任務に派遣されており、それに対しての褒美と推測できる。

問題は、河島皇子のそれは何であったか?である。このころ皇子は「帝紀および上古諸事」の編纂事業に従事していたから、何がしかの成果に対する褒章とも受け取れる。しかしそれだったら同時総裁の忍壁皇子が対象から外れていることが説明できない。

(懐風藻の記事と34歌から)空想を巡らしてみよう。この時の褒章こそが大津皇子事件の密告に対するそれではなかったか?と。34歌で河島皇子は冤罪を主張している。しかし、もしかこの時点でそうした噂が流れていたとしたら?(流されていたとしたら?)当然人々は「大津皇子の密告」に対する褒章と受け取ったのではないか?

(懐風藻をもう一度見て欲しい。この推理があながち荒唐無稽でないことは、その記事に「朝廷その忠正を嘉(よ)みす」とある。(※注1:懐風藻「河島皇子伝」))

どうだろう。持統五年の正月のこの褒章は、河島皇子にとっては全く迷惑千番、全く身に覚えの無い突然の表彰であった。だが褒章である以上受けざるを得ない。しかしそれを受けたが最後、(密告の)噂を是認することになってしまう。河島皇子はジレンマに陥ってしまった。結果、天下に汚名を着せられてしまったと推量するのである。

(次のようにも考えられるだろう。もし大津皇子の謀反が事実でかつ密告も事実であったとしたら?その行為は河島皇子の熟慮の上で為された自責に基づく判断であって、世間に「恥じる」必要など全く無い。たとえ周囲からどのように非難されようとも、天下の騒乱を未然に防いだとの自負が生じるだろうから。この場合は自決など考えられないだろう。)

<河島皇子の事件関与の真相(の推理)>
しからば大津皇子事件における河島皇子の関与とはいかなるものであったのか?
(1)懐風藻における密告の記事
(2)34歌における無実の主張
(3)日本書紀における天武帝と同日の死
その物語は、上記の三つの記事に整合している必要がある。しかし(1)と(2)は真っ向から相反しており、どちらかが誤りということになる。

私はつくづく、天武天皇が最愛の大津皇子に何も残していないことを不思議に思っていた。かって、天智天皇が後継者の大友皇子のためにあれほど支援を惜しまなかったのに比べてみても。

だから私は、大津皇子と河島皇子の「莫逆の交わり」はもともと天武天皇の導きだったのではないかと考えるのである。天皇は愛する大津皇子の将来を按じ、藩屏として河島皇子を配置したのだと。河島皇子は大津皇子の補佐を天武天皇に頼まれていたのではないのか。(年長で、思慮深い河島皇子は、ともすれば猪突な大津皇子に打ってつけの補佐役であった。)

二人は肝胆あい照らす仲となった。しかしあの9月24日のもがりの場での事件から9月30日までは、河島皇子は葬儀への参列を余儀なくされていたし、逼塞を命じられた大津皇子はその後伊勢神宮詣でをしていたから二人が会える機会は全くなかった。会合の余裕ができたのはようやく翌10月1日だったと想像できる。

私は10月1日に二人は久々の会合を持ったと推測する。互いに話すことは山積していた。そしてその時に何が話し合われたか?謀反の相談とは到底考えられない。

思うに、大津皇子は(姉の大伯皇女の助言を入れて?)皇后への陳謝・取り成しの橋渡しを河島皇子に依頼したのではないだろうか。河島皇子は鵜野皇后の弟であり、温厚な人柄でもあったから使者として最適任者であった。河島皇子は快諾したであろう。善は急げ、早速(2日?)河島皇子は参内してその旨を皇后に取り次いだと推量するのである。

(申し入れは急だったから、実際に河島皇子が皇后に面会できたどうかは分からない。ただ「深沈にして大度あり」と言われた鵜野皇后のことだ。一応話に耳を傾けたとしておこう。そしてもし面談できたとしたら、河島皇子は大津皇子のために懸命に弁明したであろう)

しかし鵜野皇后の思惑は全く違ったところにあった。皇后は最初から事件を皇位継承闘争と明確に位置付けていた(ように見える)。あくまでも皇統を実子の草壁皇子に継がせる意思の皇后にとって、謀反の有無など一切関係なく、大津皇子の抹殺が必要であった。だからどのような陳謝や弁明も聴く耳持たなかったのである。

皇后は謀反と断定し、直ちに大津皇子を逮捕し、取り調べもそこそこに、(10月3日)大津皇子を訳語田の獄舎に刑死せしめたのである。逡巡のない、電光石火の処置であった。そして暫くして河島皇子の密告の風評がどこからともなく立ったのであると。(→懐風藻記事)

事件の思わぬ展開に河島皇子は驚愕したであろう。そしてどこからとなく自分の密告の噂が流れてくるに及んで全てを悟ったであろう。そして以後言動の注意を肝に銘じたに違いない。大津皇子や自分の冤罪を公言することは禁忌になってしまった。もしそれをすれば、お上(朝廷)との真っ向対決に繋がってしまう。

河島皇子はひたすら口をつぐんだ。耐え偲び得たのは身に覚えが無いとの自負があったからである。あるいは抗議の死も考えたかもしれない。だがそれでは自ら噂を認めたことになり、ひいては大津皇子事件の真相も歴史の闇の中に葬ることになってしまう。それでは犬死に等しい。いつか冤罪を晴らすチャンスが来るまでじっと待たなければならなかった。(→34歌)

河島皇子の大津皇子事件への関与は、概ね以上のようなものであったと私は推測する。真相は今となっては不明であるが、いずれにしても河島皇子が大津皇子を貶める証言をしたとは考えられない。それにどんな言葉も、悪意にとれば逆に受け取られるものだ。

膠着状況の中で、先に動いたのは皇后側であった。しびれを切らして、最後通牒としての「(無為の)褒章」をおこなったのである。(そしてさらなる風評と共に?)人々は「密告の表彰」と受け取ったであろう。だが河島皇子はどう受け取ったか?「賜死」と思ったのではないか。

してやったのか?目的を果たしたという意味では。だがやり過ぎではなかったか?相手に「後の先」の切返しを与えたという意味で。春秋の筆法で語るならば、河島皇子はこの日を待っていた。これで一矢報いることができると。これによって後世に自分(達)の冤罪を証明できるチャンスが到来したと、そして天武天皇の命日をじっと待ったのである。(→日本書紀記事)

◇年賦:推定大津皇子事件
686年(天武十五年、朱鳥元年、持統元年)
    9月 9日、天武天皇崩御
    9月11日、南庭にもがりの宮を建てた
    9月24日、もがりの宮で大津皇子が皇太子に謀反を起こした
    9月25日〜30日、河島皇子葬儀参列。大津皇子伊勢神宮参詣?
   10月 1日、河島皇子・大津皇子会合?
   10月 2日、河島皇子陳謝使?・大津皇子およびその徒党三十余人を逮捕
   10月 3日、大津皇子長田の家で死を賜う(24歳)(416歌)
   11月16日、伊勢斎宮大来(伯)皇女京に戻る(163、164歌)
689年(持統三年)
    4月、草壁太子薨去(28歳)
690年(持統四年)
    正月、持統天皇即位
    7月、高市皇子を太政大臣に任命
    9月13〜24日、紀伊行幸、河島皇子従駕?(34歌、35歌)
691年(持統五年)
    正月、河島皇子百戸加増、他に高市皇子二千戸、穂積皇子五百戸
    9月9日、河島皇子薨じる(自死?天武天皇の命日と同日)(35歳)

<冷酷と非情?為政者(階級)の論理>
この酷薄ともいえる事件を何と論評すればいいのか。この事件を通常の倫理や法律上の黒白判断で裁くのは無理だろう。何といってもこれは「皇位継承闘争」という政治闘争なのだから。
(かの明智光秀の謀反にあったときの、織田信長の「是非に及ばず」の言葉を思い出して欲しい)

鵜野皇后は冷酷非道極まりなかったであろうか?仕打ちを受けた側はそう言うだろう。だが皇后の行為に狂気の(無意味のあるいは好んでの)残忍さは殆ど認められない。冷徹な政治家(マキアベリスト)のそれ(政治手法)である。いささかの救い(?)は少なくとも犠牲が当該者のみに限定されており、かっての(皇后が受けた)一族滅亡のような悲劇は避けられていることである。

情の有無による是非判断も難しいだろう。一方への非情(対大津皇子、河島皇子)に対して一方への偏愛(対草壁皇子、高市皇子)が存在するからである。だから為政者階級同士の争いともなれば、私利私情というよりも政治政策の視点からの考察が不可欠になる。社会的な価値判断である。

そうすると自然に、事は壬申の乱に遡る検討が必要になる。かの乱(王権簒奪)で大海人皇子と鵜野皇女は共闘した。しかし二人は同床異夢であり根本のところで違っていたのではないか。

大海人皇子の実際の名分は何であったか?近江朝の対唐和平と律令国家建設の政治路線を転換して対唐軍事路線に戻すことであった、と推察できる。娘(十市皇女)の幸福を踏みにじり、天智帝からの皇位の譲渡をも断ってまでして乱を起こしたのは、偏に先年の(自分の?)敗北の屈辱を晴らすためと大陸反攻の夢を捨て切れなかったからではないか(としか考えられない)。

(あの吉野退出のとき、天智帝からは皇位と引き換えに、近江朝政治路線および大友皇子−葛野王親子への皇位継承への協力を依頼された、とするのが私の推測である。だからこそ大海人皇子は自分の代わりに倭姫皇后の即位を推薦できた。そうでなければ余計なお節介もいいところだろう。)

かたや鵜野皇女のそれは何であったか?もっと分かりやすい。主として私怨が原因であったと考えられる。主家の蘇我石川家は滅亡の犠牲を払いながら、皇統から完全に疎外されてしまった。だから自らの血統が皇位を継ぎさえすれば、近江朝の目指した政治路線には全く異存無かったのである。

二人の思惑は本来違っていた。対外戦争の継続か、国内建設かで。そして天武帝の死に際しても、軍事政策の継続(軍国制、天皇の指揮大権)=大津皇子、律令国家(群臣制)の建設=鵜野皇后・草壁皇子の色分けがあったと私は推量するのである。

そして群臣は(世は)、皇后の側を支持したのであると。個人的には大津皇子をあれほど惜しむ声があったにもかかわらず大きな混乱は発生していない。これは群臣のなかに今更戦争を忌避する思いが強かったことの現われとも言えるだろう。(三年間に亘る天武葬儀は一種の戒厳令あり、反対派は手足を封じられてしまったということもできる)

このように考えると、大津皇子事件も国家政治路線闘争の一環であって、私利私欲で起こされた争いとも言いがたいことになる。とまあ鵜野皇后が幼児時代に体験した苛酷な境涯に同情して少々弁護が過ぎたかも知れない。要は自らが苦心の末に(血をあがなって)獲得した王権を誰にも渡したくなかったと考えるのが、もっとも自然で説得力が有るだろう。

事件は大義名分論よりもむしろ「利己丸出し」論の方が理解しやすい。息子の不甲斐なさを見るにつけても、そうあらしめている相手への憎しみがいや増したのであると。例えば、大津皇子の「朝政を聞く」以来の颯爽たる活躍は、草壁太子の立場をないがしろにし、その健康を損なわせることになった(と思った)。あの伊勢神宮詣でにしても、あてつけではないか、太子が持ちえていない有り余る健康と体力を誇示しているようにさえ見えた。

河島皇子が大津皇子を弁護すればするほど、一方の草壁太子の不肖を指弾しているように聞こえた。それらは全て皇后の気持ちを逆撫でするものであり、(「大度あり」と言われた反面、)密かに皇后は心を痛め、傷つき、被害者意識に押しつぶされそうになっていたのではないか。皇后は誰よりも世の母親だった。(病弱の理由でわが子を廃嫡できるだろうか?)だから逆にここまで一途にされると、むしろ気の毒に思って手助けしようとする群臣もいたのではないだろうか。

(日本書紀の高天原広野姫天皇(持統天皇)条には、「天皇、深沈にして大度有します。」に続けて、「帝王の女なりと雖も、礼を好み節倹にして、母儀の徳有します。」とある。注によれば、「母儀の徳」とは「人の母たるものの手本(鏡)」であると言う。これだろう。書紀編者の苦心の表現(皮肉を含んだ?)ではないか。2008.03.20加)

(理屈を言うなら、王権も一種の所有権と見なせば、誰に伝承するかは権利者の一存と言うことになる。ただ支持者あっての王権であり、いかなる権力者も結局は歴史という審判を受けなければならない。)

しかしどうか
。こうした(無理な)行為は贔屓の引き倒しになりかねないのでは?思いをかけられた肝心の草壁皇子の心情はどうだったか?その厚情の重みに耐えかねて、その立場はさらに薄く(軽く)なったであろうことは容易に察しがつく。かくして天武・持統朝はその基盤の脆弱性を何時までも引きずることになってしまった。

<34歌の真の作者>
さて最後に、34歌の真の作者を推理してみよう。歌は巧妙に作られており、河島皇子の置かれた状況に符合している以上、自作と見るべきでありあれこれ詮索するのは邪推かも知れない。だが一云歌の存在や、前注に「或いは伝く『山上憶良の歌なり』といふ」とあるのを見れば、34歌が仮託作(別人作)の可能性も捨てきれないのである。

万葉集の一云歌とは原作歌のことをいう。34歌は、一云歌→本歌の順に作られたと考えるのが普通だろう。してみればこの一云歌も河島皇子の自作に違いない。ところがこの一云歌とそっくりの歌が巻九・1716歌に山上某の作品として収録されている。これはどうしたことだろう。河島皇子とその山上某との関係は?調査する必要があるだろう。(※注4:巻九・1716歌の検討

それによれば、1716歌は連作歌(1715〜1718歌)の一首として詠まれた歌であることが分かる。そしてその連作は状況からして柿本人麻呂の作品である蓋然性が極めて高い。してみれば自然に、柿本人麻呂が34歌の作者の重要参考人として浮かび上がってくる。

もちろん連作を後代の仮託とする可能性も皆無とは言えないかもしれない。だが、わざわざ持統朝の初期に遡る事件を題材にして歌を詠み合う(歌会を開く)だろうか。やはり1716歌(一云歌)および34歌は人麻呂による事件当時の作品と見なすのが妥当だろう。

残された課題は柿本人麻呂と川島皇子の交流の証拠である。人麻呂が川島皇子と面識があったかどうかは、それを直接伝える資料が存在しないので不明という他はない。しかし人麻呂が河島皇子と同僚の忍壁皇子と親しい関係にあったことは、奉げる歌(巻九・1682歌、巻三・235歌後注等)が存在することから明らかである。また河島皇子の妃の(忍壁皇子の兄妹でもある)泊瀬部皇女に献歌(二・194・195歌)しているのを見ても、人麻呂が河島皇子と知己であったことが十分に察知できるのである。

ところで、この歌(34歌)ですぐ思い出さないか?この歌が、「後世に、無実を訴える」という意味で、大津皇子の辞世歌(巻三・416歌)と類似していることを。かの416歌の陰にも、何となく柿本人麻呂の姿が見えてこないだろうか。

本稿了。 次回【名歌鑑賞21】

※注1:懐風藻「河島皇子伝」
懐風藻・河島皇子伝より
「皇子は、 淡海帝の第二子なり。 志懐温裕、 局量弘雅。 始め大津皇子と莫逆の契を為しつ。(大) 津の逆を謀るに及びて、(河) 島則(すなわ)ち変を告ぐ。 朝廷その忠正を嘉(よ)みすれど、 朋友その才情を薄みす。 議する者未だ厚薄を詳(つび)らかにせず。しかすがに余以為(おも)へらく、 私好を忘れて公に奉ずることは、 忠臣の雅事、 君親に背きて交を厚くすることは、 悖徳の流(たぐい)ぞと。但し未だ争友のuと盡くさずして、 その塗炭に陥るることは、 余も亦疑ふ。 位浄大参に終ふ。 時に年三十五。」

懐風藻は751年(天平勝宝三年)の成立で、現存する最古の日本漢詩集である。淡海三船(大友皇子の子孫)の選といわれる。

※注2:持統四年の紀伊行幸について
持統四年の紀伊行幸は、長かった喪の気分晴らしと即位の祝賀を兼ねた、(文武百官を伴った)遊行であったと考えられる。ただこの時の行幸は期間が短く、日数からいっても、岩代−むろ湯には行っていないと推定される。もともとそうした計画であったのかもしれないが、私はその理由をかの但馬皇女出奔事件(【名歌鑑賞09】参照)とからめて推測した。というのは、柿本人麻呂の熊野にかかわる歌(巻四・496〜499歌)が万葉集に残されており、もしかしたらそのために準備した歌ではなかったかと考えるからである。もっとも人麻呂は701年(大宝元年)9月の紀伊行幸にも従駕しているから、その時の作品かも知れない。

※注3:35歌について
万葉集には河島皇子の34歌に続いて、阿閇皇女(草壁太子妃で後の元明天皇)の35歌が置かれている。

<原文>
越勢能山時阿閇皇女御作歌
35歌:
「此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山」
これやこの やまとにしては あがこふる きぢにありとふ なにおふせのやま
-------------------------------------------------------------------
<釈文>
勢能山を越えし時に、阿閇皇女の御作りたまひし歌
35歌:
「これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありとふ名に負ふ背の山」

訳文1(新日本古典文学大系本):
「これこそまさに、大和にあって私が一目見たいと恋しく思っていた、紀伊路にあるという有名な勢能山(背の山)なのですね」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「これがあの 大和において わたしが一目見たいと思っていた 紀伊路にあるという 噂の勢能山なのか」

歌は平明で、改めての訳出は必要ないだろう。「背の山」とは和歌山県伊都郡葛城町の山で、紀ノ川(吉野川)を挟んで南岸に「妹山」があるという。夫の草壁皇子を偲んでの歌であろうがごく自然に詠われている。

この歌に裏の意味は無いようだ。しいて言えば、編集者は意図的に、34歌(=大津皇子の追懐歌)と35歌(=一方の当事者の草壁皇子の追懐歌)と一対としてここに配置しているように見える。これは、34歌が大津皇子事件に絡わる歌であるとの編集者のサインのように私には思えるのである。

だからと言おうか、実際にこの35歌が持統天皇四年の紀伊行幸時の作品かどうかは分からない。もしそうであれば34歌後注の「日本紀曰 朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也」は、この35歌の後に置かれてもいいだろうから。

※注4:巻九・1916歌(34一云歌)の検討
巻九の1716歌は一首独立した歌ではなく、連作歌(1715〜1719)の中の一首として置かれていることがわかる。したがって歌の正確な意味を捉えるには、「連作歌全体の主題」の把握が不可欠になる。煩雑になるので検討結果だけを以下に紹介することにしよう。

巻九・雑歌:
<原文>
・槐本歌一首
1715歌:「樂浪之 平山風之 海吹者 釣為海人之 袂變所見」
ささなみの ひらやまかぜの うみふけば つりするあまの そでかへるみゆ
・山上歌一首
1716歌:「白那弥乃 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄経監」
しらなみの はままつのきの たむけぐさ いくよまでにか としはへにけむ
右一首或云川嶋皇子御作歌
・春日歌一首
1717歌:「三川之 淵瀬物不落 左提刺尓 衣手潮 干兒波無尓」
みつかはの ふちせもおちず さでさすに ころもでぬれぬ ほすこはなしに
・高市歌一首
1718歌:「足利思代 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓監鴨」
あどもひて こぎにしふねは たかしまの あどのみなとに はてにけむかも
・春日蔵歌一首
1719歌:「照月遠 雲莫隠 嶋陰尓 吾船将極 留不知毛」
てるつきを くもなかくしそ しまかげに わがふねはてむ とまりしらずも
右一首或本云 小辨作也 或記姓氏無記名字 或・名号不・姓氏 然依古記便以次載 凡如此類下皆放焉
右柿本朝臣人麻呂之歌集出
--------------------------------------------------------------------
<1715歌の解釈>
槐本歌
1715歌:「楽浪の比良山風の海吹けば釣する海人の袖反る見ゆ」
ささなみの ひらやまかぜの うみふけば つりするあまの そでかへるみゆ

訳文1(新日本古典文学大系本):
「楽浪(ささなみ)の比良山からの風が湖上を吹くと、釣りをする海人の袖の翻るのが見える」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「楽浪の 比良山風が 湖を吹くと 釣りする海人の 袖もひるがえっている」

一見普通の場景歌のように見える。だが、なかなか意味深長な歌と言うことができるだろう。私は歌句には次のような寓意が込められていると考える。
「樂浪之 平山風(楽浪の比良山風)」:
「楽浪の」は近江の意味なので「比良山風」は「天智朝の風」の寓意と読める(鵜野皇后は天智帝の娘なので天智風に違いない。)
「海」:
「大海人皇子」の「海」から「天武朝」の意味ととる
「釣為海人(釣りする海人)」:
「海人」は「海女(あま)」で鵜野皇后を指していると考えられる
「袂變所見(袖返り見ゆ)」:
「袖振り」=「別離」の意味である。「袖返り」はその反対語で「復活」「再起」あるいは「差配」の意味と取れる

1715歌「楽浪の比良山風の海吹けば釣する海人の袖反る見ゆ」
→意訳文:
「近江朝の風が吹いて、天武帝の路線に代わり鵜野皇后の復活(差配、臨朝称制)が見えます」

(作者には天智朝への復帰に見えたのであろうか?)歌は恐らく、天武帝の崩後直ちに鵜野皇后が臨朝称制を敷いたことを言っていると考えられる。天武紀を見ると、大津皇子の「朝政を聞く」頃(天武十二年)以降、殆ど天武・大津政権といってもいいほどで、それまでの鵜野・草壁路線が疎外されているように見受けられる。それが天武天皇の死後(天武十四年)一転して権力は鵜野皇后の掌握するところとなった。

こうした「裏読み」は(この一首だけを見た場合)「考え過ぎ」のように思われるかも知れないが、連作の全容を把握した後では無理の無い解釈であることが納得できるだろう。

<1716歌の解釈>
山上歌一首
1716歌:「白波の浜松の木の手向け草幾世までにか年は経にけむ」
しらなみの はままつのきの たむけぐさ いくよまでにか としはへにけむ
右の一首は、或いは云く、「川嶋皇子御作歌」といふ

訳文1(新日本古典文学大系本):
「白波の寄せる浜辺の松の木に懸けてある手向けの品は、幾代まで年を経ているのだろうか」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「白波の寄せる 浜辺の松の木の 手向けの品は 何年くらい 年を経たものだろう」

この1716歌が例の河島皇子の34歌の一云歌(原作歌)である。だがここではあくまでも連作の中の一首なのだから、歌の意味は前1715歌を受けていると考えなければならない。
「白波(しらなみ)」:
やはり「知らな身」で「密かに」の意味ととるべきだろう
「濱松之木乃(はままつのき)」:
「待つ気」ととる
「手酬草(たむけぐさ)」:
「手向け草」でここでは「祈念」の意味だろう。ただし天武路線の変換という意味ではやはり「矯むく」「矯正する」の意味が含まれるか?
「(幾世までにか)」:
ここの「世」は「夜」と取り「幾夜までにか」と読むべきだろう

1716歌「白波(知らな身)の浜松の木の手向け(矯むけ)くさ幾世(夜)までにか年は経にけむ」
右の一首は、或いは云く「川嶋皇子の御作りたまひし歌なり」といふ。
→意訳文:
「(私が)密かに待ち望んでいた(路線変更の)祈念は、幾夜の間(叶えられないまま)年を重ねたことか」

この1716歌の意味は前1715歌と見事に連動していることが分かる。この日(天武帝の死=政権交替)が来るのを待望していた、歌の作者(あるいは皇后)の立場が詠われている(と考えられる)。

驚くべきことは、この歌の語句の使い方が川島皇子の34歌と殆ど一致していることである。ということはこの1716歌と34歌の作者が同一人物であることを示していることになる。(また34歌の、本稿の解釈の正当性を証明しているだろう)

すると問題は「山上作」の「山上」なる人物が誰か?ということになる。おそらく後代の編纂者がこの「山上某」を山上臣憶良と判断して、34歌の前注に「或る云う山上臣憶良歌也」と書き加え、さらには34歌の題詞「川島皇子御作歌」からこの1716歌の後注に「或る云う川島皇子御作歌」と付けたのであろう。真の作者がどちらか判断付かなかったためと考えられる。

確かに「山上」といえば山上憶良以外に考え難いのはその通りである。だが憶良の歌人としての活躍は、主に遣唐使として帰朝して以後(705年頃以降?)のことである。(実際、憶良が持統紀の初期に山上を名乗っていたかどうかも判然としない。701年(大宝元年)の遣唐少録には山於憶良となっている。)だからこの時期の山上憶良作は不審と言う外はない。やはり歌が連作歌である以上、全体の中で検討する必要がある。

(尚、後代「白浪」は白浪五人男のように「盗賊」の異称となった。定説では後漢書の白波谷に住む盗賊が語源となっているが、意外とこの歌の「知らな身」が関係しているのではないのか。あるいは歌の作者は後漢書を知っていたか?今後の研究が待たれる。2008.03.20追加)

<1717歌の解釈>
◇春日歌一首
1717歌:「三川の淵瀬も落ちず小網さすに衣手濡れぬ干す児はなしに」
みつかはの ふちせもおちず さでさすに ころもでぬれぬ ほすこはなしに

訳文1(新日本古典文学大系本):
「三川の淵瀬のすべてに小網(さで)を挿し込んでいて、衣が濡れてしまった。干してくれる人もいないのに」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「三川の 淵にも瀬にも 小網(さで)をさしまわるうちに 衣が濡れてしまった 干してくれるあの娘もいないのに」

「三川(みつかわ)」:
この解釈が難しい。未だに解明されていない。「三年の喪」か、あるいは「三人の皇位継承候者」か、それぞれによって歌意が変わってくる。最も整合性があると思われるのが「三途の川」である。「三途の川」は、閻魔大王が死者の善悪を審判する所である。
「淵瀬物不落(ふちせもおちず)」:
「淵」は「深み」、「瀬」は「浅瀬」のことである。「淵瀬も知らず」とは「物事の良し悪しが分からない」の慣用語である。すると「淵瀬も落ちず」は「黒白の判断も付かない」と同義になる。
「左提刺尓(さでさすに)」:
普通「小網(さで)を差す」と言えば「網で漁をする」であるが、「小網刺す」「叉手刺す」と読めば「捕らえて殺す」の意味になる。
「衣手潮(ころもでぬれぬ)」:
普通は「衣が濡れる」や「涙に濡れる」で「喪に服する」であるが、ここでは「濡れ衣」の意味にもとれる
「干兒波無尓(干す子はなしに)」:
「喪を干す児」で「喪の後継者」あるいは「濡れ衣を干す人」の意味にとれる

1717歌:「三川の淵瀬も落ちず小網さすに衣手濡れぬ干す児はなしに」
→意訳文:
「三年間の喪に服してすっかり悲しみに浸りました。後継者がいないままに」
「三途の川での黒白もつかないうちに捕らえて殺すとは、悲しいことです。濡れ衣を晴らす人も無いままに」

この歌は大津皇子事件の寓意歌ではないか。重要なことは「濡れ衣を晴らす人がいない」と詠んでいる(らしい)ことである。(私の推測では、本来「干す児」=河島皇子であったはずであるが逆に讒言者に貶められてしまった。)ということは、この歌の作者の春日某は大津皇子の無実を知っていることになる。

<1718歌の解釈>
高市歌一首
1718歌:「率ひて漕ぎ去にし舟は高島の阿渡の湊に泊てにけむかも」
あどもひて こぎにしふねは たかしまの あどのみなとに はてにけむかも

訳文1(新日本古典文学大系本):
「互いに呼び交わし合って漕いで行った船は、高島の安渡川の河口にもう着いて泊まったであろうか」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「掛声勇ましく 漕いで行った船は 高島の安渡の湊に もう着いたであろうか」

「足利思代(あどもひて)」:
「あどもひて」は「吾(子)供率(居)て」と読める。「わが子と一緒に」の意味になる。「吾供(あども)」等という言葉があるかどうか知らないが。
「高島の足速之水門(たかしまのあどのみなと)」:
「自分の(島)宮」の意味だろう。草壁太子は島宮に住んでいたことが知られている。
「極尓監鴨(はてにけんかも)」:
「果てにけむかも」と読める。この場合時制はどうなるのか?「果ててしまったのか」「まだ果てていないのか」はっきりしないが、ここでは「果ててしまったのだろうか」と訳しておこう。

1718歌:「あどもひて(吾供居て)漕ぎ率にし舟は高島の阿渡の湊に泊てにけむかも」
→意訳文:
「我が子と一緒に王朝を開いたが、子は(皇位に就かないまま)島の(自分の)宮で亡くなってしまったのでしょうか(しまいそうです)」

この歌は草壁太子が病弱のため皇位を継げないことをいっていると考えられる。日本書紀によれば、鵜野皇后は直ちに臨朝称制を敷いたが、頼みの草壁太子は時折天武帝の殯宮に詣でたことが記さているだけで689年(持統三年)4月には薨じてしまった。

この歌は極めて重要なことを証言している。歌が過去推量で詠われていることを思えば、当時草壁太子は殆ど人前には出ず(出られず)自分の宮に篭って療養(?)していたと想像される。ここで思い出すのは天武天皇の葬儀である。思うに太子は葬儀を主催できなかったのではないか。というか葬儀そのものにも列席できなかったのではないか。ここに鵜野皇后の焦りがあった。太子が出席できず、大津皇子が代わりに葬儀を進行してしまえば、後継者は大津皇子に決定してしまう。これが大津皇子に逼塞を命じた理由であると。

<1719歌の解釈>
春日蔵歌一首
1719歌:「照月遠 雲莫隠 嶋陰尓 吾船将極 留不知毛」
てるつきを くもなかくしそ しまかげに わがふねはてむ とまりしらずも

訳文1(新日本古典文学大系本):
「照る月を雲よ隠さないでくれ。島陰に私の船の泊まる場所が分からない」
訳文2(新編日本古典文学全集本):
「照る月を 雲よ隠さないでくれ 島陰に わが船を着けられそうな 湊も分からないのだ」

「照月(てるつき)」:
皇位(継承)と読める
「雲莫隠(雲な隠しそ)」:
皇位を継承しないこと(できないこと)
「嶋陰尓(島陰に)」:
当時草壁太子は島宮に住んでいた
「吾船将極(我が船はてむ)」:
「我が船」とは草壁太子ないしは「私の夢」の寓意で「はてむ」は「果てむ」だろう
「留不知毛(泊まり知らずも)」:
「どうしたらいいか分からない」皇后の心境を思いやっていると考えられる

1719歌:「照る月を雲な隠しそ島陰に我が船泊てむ泊まり知らずも」
→意訳文:
「草壁太子が皇位につかないまま薨じてしまったら、(私は)どうしたらいいのだろうか」

歌は作者の(あるいは鵜野皇后の心境を思いやった)「嘆きの歌」ということができるだろう。(この歌は、後注に「あるいは小弁の歌か」とあり、もしかしたら後人の付け足しの可能性もあるか。)

この連作歌の主題は明らかだろう。この連作歌は、天武帝の崩御(686年9月)から草壁太子の薨去(687年5月)の間の政治情勢を、鵜野皇后・草壁太子側の立場から経過的に詠んだ時事風刺詠と考えられる。あえて言えば草壁太子が薨じる直前の689年(持統三年)の3月頃の作詠ではないだろうか。思うにあの近江荒都歌と同時期に作られた作品と推測される。

問題は、一連の歌が誰によって作られたのか?と言うことだろう。この連作は、同一人物になる作品ではないか?連作はきれいに起承転結にのっとって作られている。
(1)5首の文体(歌体)が共通している
(2)連作は一貫して一つの主題のもとで詠われている
(3)5首の歌はいずれも同一の立場(目線)で詠われている。
「〜袖返る見ゆ」(1715歌)
「〜年は経にけむ」(1716歌)
「〜干す児はなしに」(1717歌)
「〜泊てにけんむかも」(1718歌)
「〜泊まりしらずも」(1719歌)
だとしたらその人物は、「柿本人麻呂歌集出」の後注から言っても人麻呂その人と考えるべきだろう。

(もしこの連作が柿本人麻呂の作品で間違いないとすれば、第一歌の「槐本作」の表記をどのように考えればいいだろうか?「槐(かい)」は「柿」と同義とするのが通説である。
(1)時事風刺詠のため憚られたこと
(2)あくまでも習作であったこと
(3)柿本人麻呂を名乗る(デビューする)以前の作品であったこと
等が考えられる。今後の研究を待たなければならない。)

面白いのは後注である。「右の一首は、或る本には「小弁の作だ」と言う。或る歌には姓氏を記して、名を記さず、或る歌には名を記して、姓氏を書かない。しかし、古記に依ってそのまま順序通りに載せておく。すべてこの種の形式は、以下もこれに準じよ。」とある。

この注は柿本人麻呂の書き込みではないだろう。これは原本(古記=柿本人麻呂歌集)から万葉集に取り込むときの編纂者の注意書きと見るべきである。というのは「小弁の作」の言いにその根拠が認められる。「小弁」は大宝律令(701年)以降の太政官官名と推定され、持統紀の初期にはまだこうした官僚は存在しなかったと考えられるからである。

2008.03.15MA

<参考文献>
一般書:
1.「万葉集全講」  武田祐吉  明治書院  1955
2.「萬葉集」  日本古典文学大系  岩波書店  1957.05.06
3.「古代歌謡集」 日本古典文学大系 岩波書店 1957.07.05
4.「万葉集評釈」 窪田空穂 角川書店 1966.04.15
5.「記紀歌謡」 日本詩人選1 益田勝実 筑摩書房 1972.05.25
6.「斎藤茂吉全集  評釈」  斎藤茂吉  岩波書店  1973.09.13
7.「萬葉集私注」  土屋文明  筑摩書房  1976.03.05
8.「万葉集」 古典文学解釈講座  古典文学教材研究会編 管野雅雄監
  三友社出版 1994
9.「萬葉集」 新編日本古典文学全集 小学館  1994.05.20
10.「万葉集釈注」  伊藤 博  集英社  1995
11.校訂「萬葉集」  中西 進  角川書店  1995.01.31
12.「万葉集」  和歌文学大系1  稲岡耕二  明治書院  1997
13.「日本書紀」 新編日本古典文学全集 小学館 1998.06.20
14.「萬葉集」  新日本古典文学大系  岩波書店  1999.05.20
15. セミナー「万葉の歌人と作品」  企画編集/神野志隆光、坂本信幸 和泉書院    1999.05.30

個別書:大津皇子事件関連
万葉集1 日本文学大成 稲岡耕二編 日本文学研究大成刊行会2001.10.24
「大伯皇女と大津皇子」神堀 忍